2019-01-17

天然知能

郡司ペギオ幸夫「天然知能」を読んだ。

抽象過程は、部分対象をとると見るか、商対象をとると見るかによって、双対な二つの方法でモデル化できる。前者はメイヤスーの言う減算モデルであり、つまりはフィルタリングなので、外部に気付くのに適している。一方、後者は除算モデルであり、こちらは同一視なので、判断基準の変化に気付くのに適している。

指定の軸と文脈の軸という二つの軸も、減算モデルと除算モデルに対応するのだと思うが、二つの軸の接続というのは、その双対性を言うものなのか。あるいは、二つの抽象過程が重なることを言うものなのか。

人工知能や自然知能にとって、判断基準の固定化による壊死が危機であるのと同じように、天然知能にとっては逸脱の行き過ぎによる瓦解が危機となるように思われる。天然知能が瓦解せずにいられるのは、逸脱が逸脱であると判定する、当該抽象過程を抽象する別の抽象過程があるためだとすれば、二つの軸の接続は後者の意味にも取れる。

しかし、当の天然知能は判断基準の変化を伴う一つの抽象過程というだけで、判断基準の変化の中に逸脱やホメオスタシスが見出されるのは、二つの軸の接続というモデルを通して天然知能を観察するためなのかもしれない。だとすれば、天然知能モデルは抽象過程の双対性を表したものだと捉えられる。二種類の軸を明示するのは冗長ではあるものの、外部と判断基準の変化の両方を顕にする点でわかりやすいと言える。

判断基準の変化が速いものもあれば遅いものもあり、それぞれのペースで天然知能は寿命を全うしている。文章や図でその生き様を十全に描くのは、そもそも無理なのかもしれないが、描こうとすること自体が一つの天然知能となる。天然知能に触れるには、自ら天然知能となる他ない。

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