2019-05-29

犯罪と自然災害

現実はあまりに膨大な量のデータで構成され、データはしばしば複雑に絡み合っている。その現実を余すところなく把握することは、人間にはそもそも不可能なのかもしれないが、処理可能なデータサイズのモデルへの圧縮を繰り返し行い、圧縮された複数のモデルを組み合わせたものを元の現実と同一視することで、近似的にではあるが把握しようとすることはできる。
これは、理解という人間らしい処理過程だ。

個々のモデルは単純で低次元で低自由度であったとしても、切り口が異なる多くのモデルを組み合わせることで、可能な限り元の現実の複雑さに接近することはできる。ただし、それには多種多様な切り口で現実と向き合うだけの手間がかかる。ある切り口での単純化が、現実のある特徴をよく捉えることで、短時間で効率よく理解できることもあるが、元の現実の複雑さの大部分は削ぎ落とされてしまう。対象としている現実からの距離が近いほど、現実とモデルのちょっとしたズレが目立ち、大きな違和感につながることもあるだろう。距離が生み出す齟齬という問題は、文明化と表裏一体のように思われる。

犯罪であれ、自然災害であれ、人が死んだという現実を、一つのシンプルなストーリィで処理すること自体に少なからず限界がある。神様と同じくらい虚構であった「自由意志に帰せられる責任」という概念の虚構性は、テロリズムという言葉が人口に膾炙するにつれて顕になってきているだろうか。
神を必要としなくなり始めてからニーチェが宣言するまでに数百年のレイテンシがあったのと同じように、人間が責任概念に頼らないでいられることを自覚するようになるのは、まだしばらく先のことなのかもしれない。

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