2019-04-11

新記号論

石田英敬、東浩紀「新記号論」を読んだ。

dataのコヒーレントな振る舞いが、informationという一つの塊へと抽象される過程全般を扱うのが、記号論だと思う。何をdataとするか、どのようにコヒーレントなのか、どのくらいの粒度のinformationとして圧縮するか、などの判断基準の違いに応じて、様々なタイプの抽象過程が考えられる。水分子のコヒーレントな振る舞いが、雲や波や氷山とみなされるのと同じように、突き詰めれば、生命というのも、原子のコヒーレントな振る舞いのうち、判断基準の変化による秩序の更新の仕方が、ある程度人間に近いものを言ったものであり、記号論は実に多様なものを扱うポテンシャルを有している。

生きた抽象過程である世界が、言語とは別の仕方で抽象する状況を捉えるには、言語という抽象過程に特化して展開してきた記号論という抽象過程の判断基準が固定化し、死んだままの状態を放置するわけにはいかない。本書で表明される石田記号論は、そのような意味で、記号論を生き返らせる試みだと言えるだろう。

石田記号論で一番興味深いのは、情報科学や神経学も援用しながら、ハードウェア的・無意識的とでも表現できる抽象過程に着目した上で、それと並行して展開されるソフトウェア的・意識的な抽象過程との関係を丁寧に描いている点だ。

人間や社会を、複数の抽象過程の重なり合いとして捉えたとき、判断基準の変化が比較的緩やかなものによる秩序付けが、判断基準の変化が比較的激しいものによる秩序付けを、ある程度方向付けているとみなすことができる。前者をハードウェア、後者をソフトウェアと呼べば、ソフトウェアにとって、ハードウェアは制限であると同時に、きっかけとなるものだ。ハードウェアとソフトウェアは、無意識と意識、物表象と語表象、イメージとシンボルなどと呼んでもよい。

無意識や情動はハードウェア寄りであり、変化が緩やかであるが故に、個体間で一度コヒーレントな状態になると、意識や理性を遥かに上回る規模や速度でコミュニケーションが成立し、抽象化された個を形成することで甚大な影響を及ぼすようになる。ハードウェアの影響があまりに強力になると、ソフトウェアにとっては制限の側面が強調されることになる。ハードウェア的な部分によって通信可能性を確保し、ソフトウェア的な部分によって応答可能性を確保した上で、判断基準のすり合わせに応えられる状態を自由と言うのであれば、ハードウェアに引きずられてソフトウェアまで固定化した個は不自由である。別の秩序を解体することで己の秩序を維持する過程である消費において、解体する秩序の選択に関する偏りとしての欲動を制御することで、生産と消費の無限循環を形成するアメリカ型資本主義は、まさにそのような意味での不自由さをはらんでいる。ここには、壊死と瓦解の間で揺れる生命にとってのエントロピーの問題が潜んでいる。

意識は、投機的に短絡することで、飛躍や逸脱を含みながらも、理由付けによって縫合しながら連続的に変化する、発散寄りの抽象過程である。理由付けによる理解というのは、所詮は人間の意識だけが必要とする抽象化なのかもしれないが、ハードウェアレベルの影響が、夢見る権利まで侵食ながら、強烈に固定化へと引きずり込もうとする中で、「理解」を通した判断基準の変化を続けなければ、意識は消え失せる他ないだろう。意識にとって、意識の存続の是非を問うことに意味があるのかは不明だが、何かを理解しようとする過程ほど、面白いものはないように思う。

制約としてのハードウェアをソフトウェア的に乗り越えるということではなく、固定化をきっかけとして受け容れながら発散することで、通信可能性と応答可能性を兼ね備えて、壊死と瓦解の間で生き続ける。個になりつづける、自由であるというのは、そういうことなのではないか。

東浩紀自身は言及していないが、「一般意志2.0」につながる考えも垣間見え、とても楽しめる一冊であった。

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