2018-02-13

専門知と公共性

藤垣裕子「専門知と公共性」を読んだ。

様々な意見がある中で妥当性境界を更新していく
査読システムは、科学者集団におけるIPUSモデル
そのものだと言える。
著者の言う科学的合理性というのは、科学者集団に
おける社会的合理性であり、科学的合理性と社会的
合理性という対比が適切なのかは疑問だ。

整理としてはむしろ、妥当性境界という判断基準を
形成するときの集団と、その判断基準に沿って行った
判断が影響する集団が異なることが問題である、
という方が適切なように思う。
専門家の判断が客観的であるとは限らないことが
問題なのではなく、客観的であることをよしとする
ことで、暗黙のうちに主観的な判断の責任から逃れて
いることが問題なはずだ。

マックス・ウェーバーの「プロ倫」をもじった
「The Public Ethic and the Spirit of Specialism」と
いう英題がいみじくも表しているように、Publicという
主体の判断に伴う責任の権化が専門家である。
専門分化とは責任の外部化であり、住環境、食品、
医療等を専門家に任せることと、その安全性に対する
責任を専門家に負わせることは表裏一体であった。
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団
ある集団が、その集団自身の社会的合理性をもとうと
思ったら、別の集団の社会的合理性を借用することは
できず、自分たちで形成し、維持しなければならない。
その社会的合理性に基づく判断にどのような責任が付随し、
どのように責任をとるのかということもまた同様である。
専門家という責任主体を抽出しない道を選ぶのであれば、
集団全体として責任を負う方法を模索する必要がある。

個人という単位でも、いろいろな考えがめぐる中で、
何らかの判断を下しながら、個人であることについて
多かれ少なかれ責任を負っている。
そこには個人という主観の合理性がある。
それと同じように、集団が集団自身に対して形成する
主観的合理性が、社会的合理性なのではないかと思う。

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