2018-02-09

近代日本一五〇年

山本義隆「近代日本一五〇年」を読んだ。

明治、大正、昭和、平成の一五〇年を経て、日本
自体も、日本と他国の関係も大きく変わった。
それは、政治や軍事、科学などの各方面において、
何らかのイズムを押し通してきた結果だと言える。
イズムとは、判断基準を固定化して判断に徹する
ことであり、考えることをやめて分類に徹する
ことである。
ファシズム、共産主義、「合理性」への信仰など、
一真教的判断はイズムに陥るように思う。

よいも悪いも判断基準次第であるから、判断基準を
固定して「よい」方向に邁進すれば、短期間のうちに
「よい」状態に変化でき、それは「発展」と呼ばれる。
生命が更新される秩序であるからには、変化という
秩序の更新には、必ず解体される秩序という犠牲が
付随し、判断基準を固定化することによる発展は、
犠牲となる対象をも固定化してしまう。
個人にしろ国家にしろ、自身の変化に伴う犠牲をゼロ
にすることはできないし、少なからぬ犠牲のすべてを
把握することもできないように思うが、把握しようと
する視点が、判断基準の固定化の回避につながり得る
ように思う。

この一五〇年に対する山本義隆の視点も、その視点に
対する感想も、それぞれが一つの判断基準であり、
そこに拘泥してしまえばやはりイズムに陥るはずだ。
いろいろな判断があってよい。
それが日本として、あるいは人間として、分類するだけ
でなく考えることにつながる。
もはやこの一五〇年ほどの速度では発展しなくなるかも
しれないが、それでよいのではないかと思う。
意識があることで常に現在に対して不満を覚え、変化
しないではいられないのであれば、変化の仕方もまた
変化すればよいではないか。

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