2018-01-28

貨幣論

岩井克人「貨幣論」を読んだ。

熱力学第二法則が成立するのであれば、更新される秩序としての生命は、自身の秩序の更新を維持するために、常に自分以外の秩序を解体することになる。肉体が、摂取したものを消化した上で再構築するように、精神もまた、知ったものを理解した上で自らを再構築する。「価値」は、その生命が解体できる秩序に見出される。

商品を貨幣に置き換えることは、価値として見出された秩序が、その生命以外によって解体される前に、時間を止める過程である。貨幣にある種の「固さ」が必要とされるのは、商品よりもエントロピー増大の可能性が小さいことが、時間を止めることにつながるからである。
貨幣にはある種の「固さ」のようなものが必要とされる。かつては金の酸化に対する強さだったのが、国家の揺るぎなさや個人の信用、果ては暗号解読の困難さにまで変遷してきた。
An At a NOA 2017-03-07 “シャッター街とショウルーム
貨幣が貨幣であるのは、貨幣と商品の間の宙づりの循環論法であるとしても、無限に循環する貨幣形態Zにおいて貨幣の位置を占めるには、耐久性と呼ばれる、エントロピー増大に
対する「固さ・難さ」を有しなければならない。貨幣は、他のモノに比べてエントロピーの意味での時間の流れがゆっくりであることで、相対的に流動性を獲得する。貨幣がより流動的になろうとすればするほど、あらゆる秩序の解体から遠ざかり、モノとしての価値はなくなっていく。

貨幣共同体そのものもまた、更新される秩序であり、壊死の象徴であるゲマインシャフトと瓦解の象徴であるゲゼルシャフトの間で、常に循環し続けなければならない。貨幣共同体の壊死とは、売ることの困難である恐慌であり、瓦解とは、買うことの困難であるハイパーインフレである。資本主義にとって、恐慌ではなくハイパーインフレが危機であるのは、壊死よりも瓦解が免れ難いものであるということであり、それは人間が物理的身体を有していることと関係があるように思う。物理的身体が更新し続けるには、貨幣の流動性が有効である一方で、流動性そのものは更新に寄与しない。流動性選好が卓越した恐慌の究極は、壊死した貨幣共同体という近代的ユートピア=ディストピアであるが、そこでは物理的身体が生きられないために、貨幣共同体は壊死を免れる。それとは対照的に、流動性以外の欲望の二重の一致の困難を回避する手段が見つかれば、資本主義はハイパーインフレによる瓦解を免れられえないだろう。

言語や意識もまた、貨幣と同じ構造をもっているのであれば、そこでもまた物理的身体が「価値の錨」となっているはずだ。貨幣共同体、言語共同体、意識共同体のいずれにしろ、壊死と瓦解の間に留まるための錨として、物理的身体に相当するハードウェアを必要とするように思う。

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