2016-07-09

音楽

以下は、We are the worldを指揮するクインシー・ジョーンズと、
それに応える伝説級の歌い手達のリハーサル映像を見ての所感である。


聴覚芸術である音楽において、何故指揮という
行為が中心化するのだろうか。
指揮を見ることにより視覚が卓越してしまうことで、
聴覚が犠牲になってしまっては元も子もない。

強弱や拍子といった、楽譜に記された記号は、
それどおりに演奏するべき指標というよりは、
その音楽を奏でるにあたって、最も自然だと作曲者が
感じた無意識の塊であるはずだ。
それを意識的に忠実になぞることは果たして音楽だろうか。

彼らのパフォーマンスにおいてはこういった側面が
全くと言っていい程、見られない。
あれが、純粋に音楽だな、と思えた。
歌い手と指揮者、あるいは歌い手同士のコンセンサスをとる中で
表現が固まっていくような、あるべきコンセンサスの姿が垣間見える。


意識があることでむしろ死んでしまうものもある。
むしろ、そういったものの方が多いようにも感じる。

理由付けによって築き上げた死体の山こそ、
我々が現実と呼んでいるものなのかもしれない。

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