2018-01-11

グロテスクの系譜

アンドレ・シャステル「グロテスクの系譜」を読んだ。

日本語の「グロい」は、「不気味な」を通り越して
「残虐な」の意味でのみ使われることが多くなったが、
「名づけえざる装飾」としての「グロテスク」は、
カイザー的な「不気味」とバフチン的な「笑い」の
両面を併せもつ「不気味な笑い」そのものであり、
既存の判断基準に基づく一義的な把握からは
常にこぼれ落ちてしまう類のものである。

何が「グロテスク」かという分類の試みは、
何が「笑い」かという分類と同じように失敗する
運命にあり、ベルクソンの「笑い」のように、
それはどのような過程として現れるかという視点で
捉えるのがよいのだと思う。

グロテスクは、笑い、遊び、擬、俳諧化と同じく、
判断基準の変化をもたらすことで集団を壊死から救う。
それらはすべて、常に大なり小なり起こっている
逸脱や飛躍の残像であるが、影響が小さすぎて
判断基準の変化を促せなかったものや、影響が
大きすぎて集団を瓦解させてしまったものの
中間にあった逸脱や飛躍だけが、心地よいもの
といった理由付けで語られ、つなぎとめられる
ことによって、歴史に残っていくのだろう。

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