2016-10-04

圧縮情報

この夏、ポケモンGOとともに歩きスマホが問題になったが、
歩いていない時間でもスマートフォンを操作する時間は
大分長いように見受けられる。

大学の学食でふと見渡すと、一人で食事している人の
少なくとも半分はスマートフォンを眺めており、食後だけでなく
食事中に操作している人もいる。
複数人で来ている人でも、食後はスマートフォンを操作
しながら会話する姿がちらほら。

この状況についてここ数日考えており、最初に思ったのは
現実という境界条件の厳しさを示しているのではということだ。
物理的身体に拘束された意識が、より多くの時空に存在し、
より多くの情報を摂取することを目指して、スマートフォンを
見やることでその拘束具から逃れようとしているとも思える。

次に考えたのは、意識から無意識へと移行するための
必須条件である試行の大量生成を行うために、同じ操作を
繰り返すゲームに没頭したり、同じウェブサイトを巡ったり
するというルーチンに自ら絡め取られようとしているのでは
ないかということだ。

また別の話だが、現実において物理的身体が受け取る
情報に比べて、スマートフォン経由で摂取する情報には
多くのバイアスがかかっているとも言える。
ここで、バイアスというのは、政治的な立場によるもの等に
限らず、一般的にある外部圧縮過程によって認識および解釈
されることにより、特定の同一性のもとに情報が整理されること
全般について言っている。
認識とは、入力された情報を圧縮することであるから、
個人的にはそれを「より圧縮された情報」と表現したい。

自らの物理的身体に入力された情報には、自らの処理系による
圧縮のみが施される。
それに対して、誰かが書いた何かの情報に触れるときには、
少なくともその情報を発信した人間と自分という2段階の
圧縮過程が挟まり、もしその情報が何かの情報を伝える情報
だとすれば、圧縮過程は何段にもパイプされていることになる。

個人的には外部圧縮過程は可能な限り排除したいと思うが、
VRが流行ったりするのを考えると、そういった既に圧縮された
情報に浸るという安心感というのは一定程度共通するもの
なのだなとも思う。
スマートフォンへの依存というのも、そういった、より圧縮された
情報に浸ることによる安心感という側面があるのかもしれないな、
ということを先ほど歩きながら考えていた。

これは、同じ同一性という正義を共有できることから生まれる
安心感だろうか。
それとも、単に自ら圧縮する手間を厭うことによるものだろうか。

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