2016-10-17

SAIKAWA_Day03

何故労働には管理が必要なのだろうか、というところからこの問は始まる。

そもそも、労働が労働として認識される前の段階があったように思う。
各個体が、各々生き残るために必要な行為を、意味付け、理由付けに
よって発見し、それを遂行する。
これを別々に行うのはあまりに非効率であり、自然と知識の共有が生じるはずだ。
この段階において、知識を全個体に敷衍する手間が個体の増加に伴って
急増することと、高度に意味付けされた知識というのはそもそも共有するのに
適していないことから、役割分担することによって、さらなる効率化に向かう。
分配された各役割は、一つでも遂行が途絶えると死に直結し得る。
そこには「勤労の美徳」という概念がなくても、生存への欲求があるだけで
相互管理が成立したはずだ。

そこから、新しい道具が誕生する度に、役割分担は「労働」というかたちで
生きることから少しずつ切り離されてきたように思う。
というよりも、道具というのは、意味付けや理由付けが結晶したものに近く、
理由律から逃れられない人間は、これらが結晶化し、固定化してしまうことを
避けるために新しい労働を生み出しているようにも見える。
その過程で、既に生きること自体とかなり切り離されてしまったものを、
理由付けによってつなぎとめようとした結果が「勤労の美徳」だと言えるだろうか。

その労働を管理するということは、各個体が各々で自分が生きることを理由付け
する手間を効率化する行為であるように思われる。
AIによる共産主義の上に人間が乗っかるような社会が実現したとき、
人間への、というよりは、意識への究極の試練が訪れる。
An At a NOA 2016-07-05 “随想録1
で「究極の試練」と述べたものは、労働管理の消失によって生じるのである。
おそらく、代替となるような生きることを理由付けするための装置が発明されない限り、
「勤労の美徳」という古式ゆかしい装置がいつまでも稼働するのだろう。

さて、時代がそこまで下ってきたとき、新しい理由付け装置の在り方としては、
下記の4つに選択肢が絞られるように思う。
  1. 組織を維持し、AIが一元的に管理する
  2. 組織を維持し、人間が一元的に管理する(現状維持)
  3. 組織を解体し、AIが各個体の管理する
  4. 組織を解体し、人間が各自で(あるいは相互に)管理する
この中で、上司という存在が残るのは1と2であろうが、生きる理由のブレが
小さそうだという点では、1の方がましだろうか。
3のようなサービスが出てくるというのは、あり得る未来な気がするし、
4で相互に管理するというのは、ソーシャルメディアというかたちで既に
誕生しているとも言える(そういう意味ではbotが3にあたるか)。
個人的には、理由付けというのは理由を設定するまでが楽しいのであって、
その運用は既に意味付けの範疇だと思うので、それをAIに任せようが他の
人間に任せようが大差はない気がする。
ということで、「究極の試練」に挑むという点で4が面白そうである。

いずれにせよ、その時代には、意識を実装することは非推奨なのかもしれない。
どことなく、レガシーコードをメンテナンスする姿に近いものが想像される。
しかし、特定の正義の下に合理的判断を下す人間しか存在しない状態ほど
脆弱なシステムはないように思われる。
この感覚もまた、意識の自己保身のための理由付けだろうか。

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