そうではなく、先にセンサへの入力という知覚があり、その特徴抽出という抽象段階で意味が付けられていく。そこに、それまでに得てきた意味の影響があるのは当然だ。しかし、その関係は、意味というフィルタによって知覚が変容させられているというものではなく、知覚によって意味が更新されているという種類のものだ。
もし意味が固定化され、フィルタの役割を果たすのであれば、その意味は偏見と呼ばれてしかるべきものだ。その観点では、錯視は一種の偏見にあたるとも言える。
固定化された意味は、枯れた技術というよりはメンテナ不在という状況に近い。
J.J.ギブソンの「生態学的知覚システム」を読み始めた。まだ序章の2ページ目だが、すでに感動している。ギブソンの言う「感覚作用」を「意味」と読み換えてよければ、
つまり、感覚作用なき知覚はあるが、情報なき知覚はありえない。という一文は、まさに上記のような理解に対応したものだ。
J.J.ギブソン「生態学的知覚システム」p.2
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