2016-06-17

ベーシックインカム3

ベーシックインカム導入の是非については、財源がどうので議論を泥沼化させる前に、実現することの是非がもっと議論されてしかるべきだと感じる。

合唱でも、音程と表現のどちらも重要である。ピッチ重視でハーモニーを固めた後に表現をつけることも可能だし、曲の世界観重視で表現をつめた後にハーモニーの精度を上げていくことも可能だ。ある程度の上級者が集まって曲作りをする場合、後者の方が圧倒的によいと感じている。

ベーシックインカムの議論について、日本人に限らず人間は「ある程度の上級者」なんだろうか。経済や政治等の専門知識に関しては、前提として飲み込まなければならない用語や知識が多すぎて、万人がそうであることは難しい。しかし、生活がどうあるべきか、労働がどうあるべきか、といったことに関して、各々が自分の言葉で構成した自分なりの理想をもつことはそれほど難しいようには思われない。日本人に限って言えば、そういった考えを受容する側に慣れきってしまっているだけだと思う。

ベーシックインカムが実現する世界とは、労働からの解放である。人間が生きる意味は何も労働することだけにあるわけではなく、思考やコミュニケーションそれ自体、あるいは生存に関わらない生産、表現行為でもよい。そして人間は働かなくなるのではなく、むしろ働けなくなるのである。移動は緩やかになるし、居住の局所集中化は解消されていく。それは老後の生活が早期に訪れる状態に近い。意識の存続の問題はより顕著になるだろう。存続させるにはどうしたらよいか、存続させるべきか、も含め。

一方、ベーシックインカムが実現しない世界とは、労働価値の継続的な礼賛である。労働は経済における価値につながるかもしれないが、それ以上に勤労の美徳というかたちで人間が生きる意味につながる。労働にありつける間は美徳に浸ることができるため、機械化への抵抗あるいは新しい労働の創出によって、終わりなき労働のための労働が継続される。よりよい労働を求めるため、忙しなく移動することになり、居住の一極集中も加速する。

さて、どちらが「正しい」だろうか。それはもちろん、願わくは皆が「ある程度の上級者」になったあらゆる人間同士が話し合う中で、コンセンサスを形成することにより決まっていく。財源等のテクニカルな話は、「正しさ」の方針が決まった後であれば、どうにでもなるはずだ。

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