「藤村龍至展 ちのかたち」を観てきた。
Deep Learning Chairが面白かった。
9か国語でのGoogle画像検索によって得られた「椅子」の画像を用いた深層学習によって形態化された「それ」は、ある意味で「椅子というもの」、「椅子のシニフィエ」を表しているとも言える。猫を認識したGoogleの画像認識技術の話を思い出す。
言語や理由を介した設計は、手続き型プログラミングのように、人間が理解できる線形化のプロセスとなっているが、深層学習による抽象は言語や理由を介さないため、全く新しい「ちのかたち」になっているように思う。それが新しい「理由」になるかどうかは、受け入れる側の問題である。このあたり、3Dプリントされた橋の安全性(というより安心性)にもつながり、興味深い。
塚本さんが言っていたように、建築を物理的に作る限り、超線形設計プロセスのある切断面を実現するしかないため、時間軸方向のコンセンサスの形成が課題となる。これは、実現した切断面が「正義」として埋め込まれてしまうことに対する懸念である。Deep Learning Chairでも、検索で得られたデータセットが、暗黙の正義として埋め込まれたハードウェアとなるため、Tayのような事態にならないための理由付けによる制御は必要なのではないかと思う。
An At a NOA 2016-06-21 “意味付けと理由付け”
An At a NOA 2017-07-14 “埋め込まれた正義”
An At a NOA 2017-09-15 “専門分化”
果たしてこれは椅子なのだろうか。それはつまり、人間はこれを椅子と呼ぶのだろうか、ということと同じである。もしかすると、Deep Learning Chairには、言語や理由に代わる「ち」が垣間見えているのかもしれない。
2018-07-31
批判的工学主義の建築
藤村龍至「批判的工学主義の建築」を読んだ。
情報化によってもたらされた情報空間が物理空間と最も異なる点は、距離空間の設定の変更可能性だと考えられる。物理空間においては、距離関数は一意に定められるという前提が強制的に共有されることで、遭遇可能性や空間的熱狂が生じる。それに対し、情報空間においては、距離関数の設定が容易に変更できるため、「近い」ことの判断基準を状況に応じて変化させることで、図式的明瞭性や検索可能性を上げることができる一方で、その判断基準に強制力はないため、必ずしも共有されるとは限らない。情報空間と物理空間の統合とは、一意的なままにする必要がなくなった距離空間を、瓦解が生じないように変更していく過程だと言える。つまりは、「現実」の構成方法の変化ということだ。
距離空間の変化が分野や場面ごとに独立に生じるようになると、暗黙の裡に距離空間に巻き込まれることで、技術依存によってコントロールされた状態に陥る。これは人工が自然化した状態だとみることができ、工学主義的建築とは、距離空間というデータベースに高度に依存することで自然化しつつある建築のことだと考えられる。自然化が行き過ぎれば建築は壊死し、その究極には「BLAME!」の建設者がいるだろう。
このような状況において、距離空間の変化を受け入れつつ、制御しながら再構成していくのが批判的工学主義の建築であり、その方法として「超線形設計プロセス」が提案される。線形の積み重ねによって非線形になっていく超線形のプロセスは、近代以降の科学が、非線形を線形化する過程を「理解」と名付けたのとちょうど向きが逆転しており、「納得」の仕方を形式化したものだとみなせる。いずれも理由の連鎖によって判断を滑らかに接続する過程であり、理由を必要とする存在=意識のための手法だと思われる。意識=心理的身体であると同時に物理的身体でもある人間にとって、物理空間はハードウェアであり、そこでのコミュニケーションは強烈かつ高速であるから、距離空間の再構成に関するコンセンサスをとるためのコミュニケーションに模型という物理的存在を介しているのは巧みだと思う。
様々な集合知による雑多な変化に曝された距離空間を、物理空間にも頼りつつ、制御して再構成することで、壊死にも瓦解にも至らない「モア・イズ・モア」の多様性を維持することはできるだろうか。
情報化によってもたらされた情報空間が物理空間と最も異なる点は、距離空間の設定の変更可能性だと考えられる。物理空間においては、距離関数は一意に定められるという前提が強制的に共有されることで、遭遇可能性や空間的熱狂が生じる。それに対し、情報空間においては、距離関数の設定が容易に変更できるため、「近い」ことの判断基準を状況に応じて変化させることで、図式的明瞭性や検索可能性を上げることができる一方で、その判断基準に強制力はないため、必ずしも共有されるとは限らない。情報空間と物理空間の統合とは、一意的なままにする必要がなくなった距離空間を、瓦解が生じないように変更していく過程だと言える。つまりは、「現実」の構成方法の変化ということだ。
距離空間の変化が分野や場面ごとに独立に生じるようになると、暗黙の裡に距離空間に巻き込まれることで、技術依存によってコントロールされた状態に陥る。これは人工が自然化した状態だとみることができ、工学主義的建築とは、距離空間というデータベースに高度に依存することで自然化しつつある建築のことだと考えられる。自然化が行き過ぎれば建築は壊死し、その究極には「BLAME!」の建設者がいるだろう。
このような状況において、距離空間の変化を受け入れつつ、制御しながら再構成していくのが批判的工学主義の建築であり、その方法として「超線形設計プロセス」が提案される。線形の積み重ねによって非線形になっていく超線形のプロセスは、近代以降の科学が、非線形を線形化する過程を「理解」と名付けたのとちょうど向きが逆転しており、「納得」の仕方を形式化したものだとみなせる。いずれも理由の連鎖によって判断を滑らかに接続する過程であり、理由を必要とする存在=意識のための手法だと思われる。意識=心理的身体であると同時に物理的身体でもある人間にとって、物理空間はハードウェアであり、そこでのコミュニケーションは強烈かつ高速であるから、距離空間の再構成に関するコンセンサスをとるためのコミュニケーションに模型という物理的存在を介しているのは巧みだと思う。
様々な集合知による雑多な変化に曝された距離空間を、物理空間にも頼りつつ、制御して再構成することで、壊死にも瓦解にも至らない「モア・イズ・モア」の多様性を維持することはできるだろうか。
2018-07-27
空間〈機能から様相へ〉
原広司「空間〈機能から様相へ〉」を読んだ。
近代の空間概念が掲げた「機能」とは、特定の様相の固定のことであったように思う。それを突き詰めることで得られるのは、予断された真・善・美に縛られた密着空間である。一方で、その否定が、任意の様相を可能にする方向で突き詰められると、結局は様相がない状態への収束を招き、均質空間という離散空間が生み出された。密着空間=終対象と離散空間=始対象の両極端だけが、近代の一真教的な空間概念が提示し得た空間であった。
「機能から様相へ」という題は、特定の様相への固定を免れることで、両極端に回収されないような空間概念を宣言したものとして捉えることができる。
建築に限らず、何かを作る際には、具体的なものとして作らざるを得ないが、具体的なものを立ち上げるには、特定の境界を設ける他なく、それは判断基準を設定することにつながり、少なからず「Aである」という宣言を含んでしまう。それが「Aである」に留まって近代的な機能にならないために、「A・非A・非A非非A」、ΓΓA、〈非ず非ず〉によって、境界=判断基準を固定化することなく、様相の重なり合いに展開していく道に進む。それは三次元空間+時間という絶対的時空概念から、四次元時空という相対的時空概念への変化とも符合している。
一つの判断基準があるのでもなく、ないのでもなく。重なり合うことで、ダブルスタンダードではなくデュアルスタンダードとして現れる。重なり合った様相によって様々に彩られる、〈秋の夕暮れ〉の建築を、作っていけるだろうか。
近代の空間概念が掲げた「機能」とは、特定の様相の固定のことであったように思う。それを突き詰めることで得られるのは、予断された真・善・美に縛られた密着空間である。一方で、その否定が、任意の様相を可能にする方向で突き詰められると、結局は様相がない状態への収束を招き、均質空間という離散空間が生み出された。密着空間=終対象と離散空間=始対象の両極端だけが、近代の一真教的な空間概念が提示し得た空間であった。
「機能から様相へ」という題は、特定の様相への固定を免れることで、両極端に回収されないような空間概念を宣言したものとして捉えることができる。
建築に限らず、何かを作る際には、具体的なものとして作らざるを得ないが、具体的なものを立ち上げるには、特定の境界を設ける他なく、それは判断基準を設定することにつながり、少なからず「Aである」という宣言を含んでしまう。それが「Aである」に留まって近代的な機能にならないために、「A・非A・非A非非A」、ΓΓA、〈非ず非ず〉によって、境界=判断基準を固定化することなく、様相の重なり合いに展開していく道に進む。それは三次元空間+時間という絶対的時空概念から、四次元時空という相対的時空概念への変化とも符合している。
一つの判断基準があるのでもなく、ないのでもなく。重なり合うことで、ダブルスタンダードではなくデュアルスタンダードとして現れる。重なり合った様相によって様々に彩られる、〈秋の夕暮れ〉の建築を、作っていけるだろうか。
2018-07-26
理に適う
@
13:24
rationalとreasonableは、どちらも理由付けされている状態を意味しているが、両者では理由に対するスタンスが異なるように思う。
理由には唯一の真なるものがあり、理由の付け方は一意に定まると思っているふしがあるのがrationalで、日本語の「合理的」もこちらに近い。
一方、理由付けに破綻がないことだけに触れ、理由の付け方の違いには比較的寛容なのがreasonableで、日本語だと「筋が通る」だ。
Rational vs Reasonableという記事では、両者の違いについて、rationalが自分に対するものであるのに対し、reasonableは社会的なものであるとか、Overton windowで言うと、rationalは狭く、reasonableは広いといった説明がされているが、これも理由に対するスタンスの違いの現れだと思われる。
つまりは「理に適う」に対する許容誤差をどうするかの違いということだ。「理に適う」の境界は病的なpathological事象によって常に脅かされており、それを受け容れるか否かという固定化と発散の問題である。
理由には唯一の真なるものがあり、理由の付け方は一意に定まると思っているふしがあるのがrationalで、日本語の「合理的」もこちらに近い。
一方、理由付けに破綻がないことだけに触れ、理由の付け方の違いには比較的寛容なのがreasonableで、日本語だと「筋が通る」だ。
Rational vs Reasonableという記事では、両者の違いについて、rationalが自分に対するものであるのに対し、reasonableは社会的なものであるとか、Overton windowで言うと、rationalは狭く、reasonableは広いといった説明がされているが、これも理由に対するスタンスの違いの現れだと思われる。
つまりは「理に適う」に対する許容誤差をどうするかの違いということだ。「理に適う」の境界は病的なpathological事象によって常に脅かされており、それを受け容れるか否かという固定化と発散の問題である。
2018-07-25
政治的位相空間
@
23:23
位相空間から台集合への忘却関手をFとすると、集合を密着空間とみなす関手GはFの右随伴で、集合を離散空間とみなす関手HはFの左随伴である。
空集合と全体集合だけが開集合である密着空間は、皆が同じ意見をもつとする全体主義のようであり、任意の部分集合が開集合である離散空間は、どんな異論も許される自由主義のようである。
いずれの両極端も望ましいとは思われないが、右随伴が全体主義で左随伴が自由主義というのは示唆的である。
2018-07-26追記
nLabにも、cofree functorを“fascist functor”と呼ぶというジョークが紹介されていた。
空集合と全体集合だけが開集合である密着空間は、皆が同じ意見をもつとする全体主義のようであり、任意の部分集合が開集合である離散空間は、どんな異論も許される自由主義のようである。
いずれの両極端も望ましいとは思われないが、右随伴が全体主義で左随伴が自由主義というのは示唆的である。
2018-07-26追記
nLabにも、cofree functorを“fascist functor”と呼ぶというジョークが紹介されていた。
Subscribe to:
Posts (Atom)
