2017-11-30

不特定の通信者

食品や衣服のように、強奪したものをそのまま利用するので
あれば、交換制度そのものの否定という理解ができるが、
貨幣という交換されることで価値をもつものを、強奪という交換を
否定する方法で手に入れることが横行するのはなぜだろうか。
そこには交換の肯定と否定のダブルスタンダードがある。

このダブルスタンダードを可能にしているのは、文明化によって
個の特定と判断基準の共有が分離されたことである。
通信手段が変化し、コミュニケーションの同時性や同地性が
必須条件でなくなると、見知らぬ相手との判断基準の共有が
可能になり、文明が生まれたと考えられる。
An At a NOA 2017-11-12 “日本の人類学
コミュニケーションの送信時と受信時で別の個体として振る舞える
ことが、貨幣という交換制度を瓦解させることなく逸脱できる状況を
生み出す。
ネット上で横行する匿名による罵詈雑言も、不特定化された個に
よって行われるいびつな交換という点で、貨幣の強奪と同じである。

文明人は、不特定の通信者unspecified communicatorである。
不特定多数の中における特定が恐れられる原因が、不特定の通信者
からいびつな交換を迫られることにあるのであれば、特定ではなく
不特定をやめるという「文明的でない」解法もあるように思うが、
文明人には受け入れがたいだろうか。

好感度

好感度というのは、愛だろうか、恋だろうか。
恋が配偶者選択における特徴抽出アルゴリズムである
のに対し、愛は「あちら」だったものを「こちら」と
して引き受ける、「こちら」の拡張である。
An At a NOA 2017-06-02 “青春の影
いずれにせよ、各人の物理的身体や心理的身体のセンサに
適合させられる入力情報が、好感度が高いのだと思われる。

デフォルメされた情報は、抽象から具象を再構成するときに
各人が各々の好みに合わせられるために、近くて遠いことで
現れる不気味の谷を回避できる上に、好感度も高められる
ということなのではないかと思う。
圧縮と伸長の過程に補完という自由度を含める手法は、
デフォルメと呼べるものである。
An At a NOA 2017-02-13 “言葉使い師
距離空間の取り方によらず、何らかの尺度で近い
のに遠く感じられるものは不気味になり得る。
An At a NOA 2017-07-14 “不気味
もっとも、これが上手くいくためには高いリテラシーが
必要とされるはずだ。
リテラシーとは、抽象から具象を再構成する能力である。
An At a NOA 2017-04-28 “思考の体系学” 

2017-11-29

趣と面白さ

国も里も故郷も両親も面影になる。大事な「おもむき」は
みんな面影になりえたんだと思う。それが「おもしろし」
ということだったんだと思います。
田中優子、松岡正剛「日本問答」p.101
「面白し」というのも、面貌が白いというのではなく、
目の前がふわっとあかるくなるという意味ですよね。
同p.101
笑い遊びと同じように、「趣」や「面白さ」もまた、
記憶に支えられている。
記憶とは、意味付けや理由付けをするたびに更新される
物理的身体と心理的身体の抽象特性である。
どちらかと言えば、趣は物理的身体の影響を、面白さは
心理的身体の記憶の影響を大きく受けるように思うが、
もちろん両者の影響はない交ぜになっているだろう。

記憶が固定化も発散もせず、二つの身体が生命らしく
壊死と瓦解の間で抽象している状態が、趣や面白さに
つながるのだと思われる。

記憶は、狭いよりも広く、堅いよりも柔らかくした方が、
より多くの趣や面白さを感じられるはずだ。

2017-11-28

日本問答

田中優子、松岡正剛「日本問答」を読んだ。

複数の視点をもつという意味では、ダブルスタンダードはむしろ歓迎されるべきことである。
An At a NOA 2017-08-02 “ダブルスタンダード
で言いたかったのは、この対談で出てくるデュアルスタンダードのことだったのだなと考えながら読んでいた。

ダブルとデュアルの違いは複数の視点の現れ方にあり、ダブルでは一つずつの視点が交互に切り替わっていくのに対し、デュアルでは複数の視点が同時に重ね合わされる。要素や主語に着目して一真教的に静的な秩序に向かうのではなく、方法や述語といった消化と再構成の過程を通して、和合してさえいれば一枚岩でなくてもよいような、循環プロセスとしての動的な秩序を維持しようとする。外と内、表と裏、真と仮、男と女、漢と和、天皇と将軍、儒と仏、神とほとけ、政治と祭祀、顕事と隠事、ウツとウツツといった要素を区別することではなく、その「あいだ」を行き来する「うつろい」に重きをおき、要素自体を残すのではなく、「しきたり」や「ならわし」として例示された方法を「仕似せる」ことで、「おもかげ」を残しながら動的秩序は受け継がれていく。
「つぎつぎ・に・なりゆく・いきほひ」
田中優子、松岡正剛「日本問答」p.35
たったひとつの普遍は必要ないし、むしろ普遍の内部から多様性で押し返すことが必要で、デュアルな日本はそのほうが得意なはずじゃないかと思うんですね。
同p.38
「善悪」を静的で固定的な理念として理解するか、それとも過剰と制御という動的な操作として理解するか、と考えた場合、どちらが日本の善悪概念を説明できるかといえば後者である。
同p.341
悪とは過剰なエネルギーの噴出のことであって、善とはその制御のことである。
同p.341
遊び、「見立て」、「やつし」、「うつろい」、「ゆ」、「間」といったものは、
日本の「間」というのは、AとBを離してつくるのではなく、詰めて詰めていって、それでもあいだがあくもの
同p.267
であることによって、静的な秩序への固定化による壊死を防ぐと同時に、発散による瓦解も防いでおり、「日本という方法」を「更新される秩序=生命的なもの」たらしめている。

そもそもこうした秩序の形成は、静的であるか動的であるかに関わらず、コミュニケーションの上で行われる。
ものと言葉と情報が「しくみ」をつくっている。
同p.77
同時代以外の記憶に出会うには、やはり本を読むということが大きかったですね
同p.308
記憶というのは再生と一対になるから記憶なんです
同p.323
「順伝播と逆伝播のコミュニケーションを介してコンセンサスが更新されるプロセス」としてリアリティが捉えられるのであれば、日本人にとっての「おおもと」が西洋のリアルほど確固たるものでなくても何の不思議もない。
リアリティとは、順伝播と逆伝播のコミュニケーションを介してモデルが調整されながら、コンセンサスがその都度確認されるプロセスである。
An At a NOA 2017-11-28 “リアリティのダンス
むしろ松岡正剛が言うように、
面影はおぼつかないから情報的に強靭になるんです。
田中優子、松岡正剛「日本問答」p.98
というレジリエンシーの意味で強い「もどき」の方が日本人的なのだ。

会話、質問、本、音楽、その他もろもろのコミュニケーションを通して、好奇心をもって問い、それに答/応えることによって、ズレを伝播しながら治まるところに治まっていく。その過程として現れる「おおもと」を、壊死も瓦解もさせないように続けていくのがよいのだろう。
質問に対する答え方を通して、相手の人格も見ている。
同p.273
日本人の編集力の秘密は聞き上手にあったか。
同p.273

リアリティのダンス

アレハンドロ・ホドロフスキー「リアリティのダンス」を観た。

思い出す、夢見るという行為は、記憶となった過去を現在へと
再投影することであり、一種のバックプロパゲーションである。

一次視覚野から高次視覚野への順伝播によってモデル=記憶=過去が
形成されるとともに、高次視覚野から一次視覚野への逆伝播によって
モデルと入力の誤差が確認され、モデルが調整される。
このプロセスは、何かを視認するときに常に起こっているものだが、
同じことが過去と現在の間や、ある人間と別の人間の間といった、
コミュニケーションが成立するあらゆる場所で起こっているように思う。

リアリティとは、順伝播と逆伝播のコミュニケーションを介してモデルが
調整されながら、コンセンサスがその都度確認されるプロセスである。
現実は、コンセンサスが得られることによって立ち上がる。
コンセンサスが得られている様を現実と呼んでもいいくらいだ。
An At a NOA 2016-11-28 “現実

この映画はホドロフスキーが提示する一つのモデルであり、それが
フィクションなのかノンフィクションなのかということはあまり
問題ではないように思う。
ホドロフスキーの記憶、今のホドロフスキー、ホドロフスキーの家族、
映画を作った人間、映画を観た人間といった様々なもの同士の
コミュニケーションの中で、色鮮やかに提示された一つのモデルが
軸となって生じる躍動が、リアリティのダンスなのではないか。

2017-11-26

ホドロフスキーのDUNE

ドキュメンタリー映画「ホドロフスキーのDUNE」を観た。

Movies have heart. Boom-boom-boom.
Have mind. Have power. Have ambition.
I wanted to do something like that.
Why not?
"Jodorowsky's Dune"
という言葉に続く間が印象的だった。

これは、ホドロフスキー版「デューン」の偉人伝である。
「デューン」そのものを観ることはできないが、関わった
人間が語る言葉や、絵コンテを見た人間が発表する作品の中に、
まさしく「デューン」の面影と言えるものが残っている。
"Dune" is like Paul.
[...]
The film was killed.
But you know you can hear in some films.
I'm "Dune". I'm "Dune". I'm "Dune".
"Jodorowsky's Dune"
公開されて影響を与えたという意味で「生前に名を成した映画」は
多いが、ホドロフスキー版「デューン」は「死後に名を成した映画」
という稀有な存在だと言えるだろう。

脳の意識 機械の意識

渡辺正峰「脳の意識 機械の意識」を読んだ。

「意識とは何か」についての議論は、人類史上最も関心を集め、
これからも集め続けると思うが、その答えが人間の物理的身体の
内側、特に脳に求められるようになったのは、近代から続いている
時代の特徴だと言えるだろう。

近代的な考え方は、部分に分解したものを理由付けによって全体へと
再結合する「理解」というプロセスを重視し、理由付けの仕方には
唯一真なるもの(=真理)が存在することを仮定するという点で、
一真教的である。
集団は個人へと分解され、個人の肉体は器官へと分解され、器官は
細胞へと分解され、細胞は原子や電子へと分解される。
その一方で、要素還元主義というゲシュタルト崩壊を免れるために
理由付けが施される。

ニューロン活動と体験の連動の計測、NCCの探求による因果性の証明、
情報の二相理論、統合情報理論、生成モデルといった理論の提示、
というのも「理解」のプロセスであり、それが進行している様子の
描写は、読んでいてとても面白い。
情報自体ではなく、情報を抽象する過程である神経アルゴリズムに
意識をみるという生成モデルの話は、個人的にも賛成できるものだ。
意識が抽象過程であるならば、それが実装されるハードウェアは、
脳であろうが機械であろうが、何でもよいことになる。
可視光、可聴域、形状認識、応答速度といったハードウェア特性の
影響は存在するが、それはいくらでも人間の脳に近づけられるはずだ。
人間と全く同じ特性を有するセンサの塊は、たとえその
ハードウェアが炭素ベースでなかったとしても、あるいは
ハードウェア自体が存在しなかったとしても、人間である
ことは可能だろうか。
それは結局、人間というカテゴリについてどのような物語、
理由付けが共有されるかの問題だと思われる。
An At a NOA 2017-10-19 “ペガサスの解は虚栄か?

しかし、意識が抽象過程であるからこそ、「我」や「意識」といった
何かが存在するという表現には違和感を覚える。
むしろ、意識はニューロンなどの物理的なものに支えられながら、
その都度成立するものであり、「半透明の正方形」と同じなのでは
ないかと思う。
さらには、ニューロンの上に実装された神経回路網における抽象
だけでなく、人間の個体同士の通信網における抽象もなければ、
我も彼も意識は意識として意識されないと思われ、言葉や道具を
用いた個体間の通信は、外部化した生成モデルとみなせるのでは
ないかということを考えてしまう。

あらゆる抽象過程には「何を同じとみなすか」の判断基準があり、
理由付けにおいては理由がそれにあたる。
チューリングテストのような意識を判別するための理由や、生成
モデルのような意識の理論を共有しようとするところが、まさに
意識らしさが外部に現れたものであり、「意識とは理由付けである」
という理由付けすらできるのではないかと思う。
意識だけが理由を気にするのだとすれば、それを続けることでしか、
意識は意識たることを噛みしめることができないと思われる。
An At a NOA 2016-12-23 “モデル化の継続
そして、意識の問題が個体の内外に渡るからこそ、意識を移植したり
人工意識を実装したりする上での一番の困難は、肉体や筐体の内側
ではなく、外側にあるように思う。
大航海時代における邂逅からマーチン・ルーサー・キング・ジュニアを
経てバラク・オバマの大統領就任に至るまで、徐々に人種差別が緩和
されてきているのと同じように、意識のカテゴリの緩和もまた、
数世紀をかけて行われるのではないかと思う。
つまりは慣れの問題なのだから、AIの理由付け機構も、
いつかは意識として受け入れられることになるだろう。
それは、人種差別の歴史と全く同じ構造をもつことに
なると想像される。
An At a NOA 2017-01-09 “
奴隷や黒人が人間として抽象されないことが主流な時代があり、
今でも、多かれ少なかれ、自分とは異なるようにみえる存在を
自らと同じカテゴリに入れようとしない傾向はある。
その傾向は消えることなく、同一性の基準の更新はせめぎ合い
ながら緩やかに進行していくと考えられる。
An At a NOA 2017-09-22 “何かであるということ