2017-07-12

ニュートラルなマスメディア

結城浩の言いたいことはすごくよくわかるし、
自分もそういうマスメディアがあって欲しいと思う。
だけど、何がニュートラルで何がファクトかとか、
どこから見てバランスがよいと言うのかを決める
こと自体が、既にニュートラルでないのが難しい。

マスメディアは、迅速に情報を伝えるために、元の
情報よりも情報量を絞って発信する必要がある。
その情報量を絞る過程が、編集であり、抽象である。

高次元空間である元の情報を部分空間として近似して
伝達するという意味では、マスメディアを介して情報を
得ることは、部分空間法の一種だと言える。
部分空間を張るための基底がマスメディアの編集方針に
相当し、できるだけ異なる基底で表現された複数の部分
空間を眺めることで、元の高次元空間を想像しやすくなる。
しかし、少ない次元の部分空間しか張れないマスメディアが
多く、さらにそれぞれの基底が同じ方向を向いていると、
部分空間は一向に拡がらない。
一見異なる方向を向いている基底も、真逆を向いている
のであれば同じことだ。
その状況で高いリテラシーを保つのは困難である。
リテラシーとは、抽象から具象を再構成する能力である。
An At a NOA 2017-04-28 “思考の体系学
リテラシーが高いというのは、抽象を再構成することで
想像された具象と元の具象が、情報として高い一致度を
有するということであり、リテラシーが低いというのは、
全然別の情報をもつ具象を想像してしまうことである。
An At a NOA 2017-04-29 “リテラシー

もしある特定の方法でしか編集しないのであれば、
それが一見どんなにニュートラルに見えたとしても、
「これがニュートラルな編集である」という正義が
埋め込まれるだけである。
ある程度広い部分空間への写像を提供するような
マスメディアがあったとしても、そればかりに
接するというのは、べき乗法のように特定の見方が
強調される結果に収束するように思う。
その状況を偏向と呼ばないのであれば、気付かぬ
うちにユートピア=ディストピアを受け容れている
だけである。
そのことを悪いことだと一蹴することはできないが、
よいことなのかという問いがないのはまずいと思う。

結局、複数の異なる編集を行うマスメディアから
情報を取得することでしか、この問題は解決できない
ように思われる。
できるとすれば、ひとつのマスメディアが複数の編集
方針を使い分けて報道することくらいだろうか。
そういうマスメディアは、これまでだと八方美人とか
ご都合主義とか言われたのかもしれないが、
マスメディアが編集方針という正義をもつべきでない
という時代になるのかもしれない。

No comments:

Post a Comment