2017-06-13

築地と豊洲

最終的には豊洲に落ち着くことになるらしいが、
築地にするか豊洲にするかよりも考えなければ
いけないのは、今後の進め方をどうするかだ。

専門分化と効率化を進めた結果を掘り起こすと、
専門家が誠実であろうがなかろうが、検討や
調査をすべき事項は山のように増える。
その検討や調査を、既往の知見や専門家の判断に
基づいて省略することで効率化を達成しているの
だから当然だ。
そこに時間とお金をかけることは、専門分化と
効率化の両方を同時に低減することになる。
専門分化とは責任の外部化であり、住環境、食品、
医療等を専門家に任せることと、その安全性に対する
責任を専門家に負わせることは表裏一体であった。
何もかもが専門分化した世界では、人間は個としては
まったく不自由で、何かの専門家としてだけ自由を
手に入れることになってしまう。
それを理想とする考え方もあるだろうが、それは
やはり個の意識を消す方向に行ってしまうように思う。
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団
物理的身体によって規定された個人の代わりに、
専門分化を通して「この自動運転車に乗った人
のようなかたちで再編された「個人」を単位に
することによって、人類という集団全体の効率を
上げることが、近代の手法を突き詰めることで
得られる究極の形態なのかもしれない。

近代から抜け出すか、個の意識から抜け出すか。
押す方と引く方のどちらであれ、一方に振れるのは
寓話のような滑稽さを生み出すように思われる。
案外、現状のように、「安全だが安心でない」とか、
「税金の無駄遣い」とか言い合ったままでいるのが、
バランスが取れているのかもしれない。

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