2018-11-20

対称性

レオン・レーダーマン、クリストファー・ヒル「対称性」を読んだ。

あらゆる保存則の問題を対称性の問題に置き換えたネーターの定理は、革命的と形容するにふさわしい。本書はそんなネーターの定理への敬意に溢れている。

変換に対する系の不変性によって対称性を定義するのであれば、対称性=保存則を見出すのはイデアルによって商環をつくるのと同じである。自然それ自体が対称性をもっているというよりも、認識や理解によって把握するということと対称性とは表裏一体であり、「何かを把握すること」と「何かが対称性をもつこと」には見分けがつかないということ
なのではないかと思う。

何かを把握しているにも関わらず、その把握にどんな対称性が埋め込まれているかに無自覚だった人類は、ネーターの定理によって気付かされた。統一理論の探求は、そんな自己反省の旅なのだろう。

2018-11-15

まなざしの装置

平芳裕子「まなざしの装置」を読んだ。

様々なメディアを介して自動的に志向される複製の完全性が、正統なものAuthenticity=auto+accomplishを彫琢する過程は、技術の完成に取り憑かれた近代特有の現象だ。

ファッションもまた同じ過程を辿り、ファッション・プレート、パターン、ショーウィンドウ、ファッション展などを介して、「飾る女性」、「縫う女性」、「模る女性」、「巡る女性」というイデアル=理想の下、現実が理想の複製となるようにイメージが反復されてきた。理想に追随するように現実が更新されていくこの過程が、モードと呼ばれるものだろう。

ファッションはなぜ女性のものと見なされるのかという問いを起点に、近代アメリカを中心として組み立てられる本書のストーリィ自体もまた、近代科学の作法に則った論文構成や論理展開の上に成り立っており、何もかもを単一のイデアルの下に飲み込んでしまえる近代というシステムの無慈悲なまでの強力さをひしひしと感じる。

2018-11-12

自己嫌悪

整合した体系は、不整合なものよりも理解しやすい。

むしろ、不整合だらけの現実から切り出した、幾分整合的なサブセットを全体に重ね合わせようとする過程のことを、意識による理解と呼ぶべきだろう。

整合的なサブセットとはつまりイデアル=理想であり、整合性の判断基準に応じて様々な理想が立ち上がる。

あるイデアルを固定化して、現実を理想に合わせるフィードバック回路を形成することは可能だろうか(これはつまり、商環をつくることと同じか)。意識が自身についてそれに失敗し続ける過程は、自己嫌悪と呼ばれる。

2018-11-07

やばい

「やばい」は「普通」からずれている様を意味し、何が「普通」であるかのコンテクストに応じて、その都度意味が変わる。個別の対象と普通の対象の排他的論理和のようなイメージだ。

コンテクストチェックを省略した「やばい」によるコミュニケーションが高速で便利なのは確かだが、コミュニケーション不全を回避するには、文脈が共有できていないことを想定し、別の言葉に置換することも必要になる。何でもかんでも「やばい」と形容することに反発があるのは、この辺りが関係しているように思う。つまりは、急激な文脈変化についていけないことの現れである。

コンテクストに応じて意味が変わる語といえば、指示代名詞もそうである。「やばい」は、暗黙の指示を内蔵した指示形容詞だとみなせるかもしれない。

自分の文脈を固定化したい人間ほど、指示形容詞「やばい」の濫用に頑なに反発する一方で、己は指示代名詞「あれ」に頼りがちという傾向はあるだろうか。

帽子は何色?

Cは残り二人の帽子の色を見なくても自分の色がわかるのでは。

A「……わかりません」
→B赤C赤、B赤C白、B白C赤のいずれか
B「……わかりません」
→B赤C白の可能性が消え、Cは赤しかない

2018-11-03

技術の完成

フリードリヒ・ゲオルク・ユンガー「技術の完成」を読んだ。

試行錯誤によって編み出された方法は、科学によって手法となり、技術によって道具になる。
An At a NOA 2017-02-10 “方法・手法・道具
職人から科学者を経て技術者へと至るこの一連の過程の中で、合理性を定める判断基準は次第に固定化していき、その到達点である技術においては、ある一つの判断基準に基づく複製の完全性を志向するようになる。あらゆるものの差異が消滅し、すべてが同じ判断基準に従うことによる「総動員」という技術の完成を。

単一の判断基準に基づく自動的な抽象は、既存のまとまりを解体しながら、その基準に基づく新たなまとまりを形成し続ける。既存の側からみれば、この過程は剥離という止めどなき破壊、歴史的なものを上回る大災害に映るだろうし、反対側からみれば創造に映るだろう。判断基準ごとに安全性の基準が異なるため、新たな技術に基づく安全性と既存の技術に基づく安全性への欲求の相違も顕になる。

技術が生まれる前、あるいは技術が生まれて間もない頃には、この秩序の更新過程はさしたる問題にはならず、むしろあらゆる生命を生命たらしめる過程ですらある。その段階においては、技術の先に待っていると期待されるものはユートピアと呼ばれるが、ただ一つの技術だけが優勢になることで、判断基準が完全に固定化し、唯一絶対のものとなってしまうと、あらゆるものが死んだ時間の中で正確に反復するものとして捉えられるようになり、それはディストピアと名指される他ない。すなわち、技術の完成とは、固定化の果ての壊死である。

生命が秩序の上に成立するのだと考えれば、あらゆる生命は少なからず秩序の形成を推し進める技術的な過程に負っている。F・G・ユンガーが失われると危惧している何ものかもまた、ある技術によってもたらされたものであるかもしれず、そのことに気付かないことこそは、その技術が完成しつつあることを裏付けているとも言える。

ある対象を作用物質という単位で捉えることと、リンゴという単位で捉えることの違いは、依拠する判断基準の差であり、後者を優位とするのは単に歴史的経緯によるものでしかない。しかし、仮に後者が物理的身体というハードウェアに依拠した技術であり、人間が物理的身体から逃れられないのであれば、その技術の完成を拒否するのは妥当なのだろうか。まさにこの歴史的経緯こそを頼りにすることで、人間というカテゴリが維持されているようにも思われる。

2018-11-01

U.S.A.

今更ながらDA PUMPの「U.S.A.」を聴いて感心している。

1990年代。アメリカはバリバリに世界の警察官をやっていて、音楽はCDという形態で爆発的に売れていた。ソ連の崩壊、湾岸戦争、オスロ合意、EUの誕生、WWWの誕生、Windows95発売。20世紀の後片付けがドタバタで進められる裏で、21世紀の準備が着々と進んでいた。インターネットはまだまだ縁遠い世界だった。

そんな時代を取り戻そうする大統領がいる時代に、そんな時代に書かれた曲を、そんな時代に生まれた歌手が、そんな時代のJ-POPを席巻したAvex調のアレンジで歌ったものが、音楽パッケージメディアを殺したインターネットの上でバズりながら、巻き込まれているほとんどの人に批評的な素振りがみられない。

多くのことが変わってしまったと思っていたところに現れた、ちょっとしたものだけど身体に染み付いた思い出。久々に実家に帰ったときに開けた引き出しの奥から出てきた、初代ゲームボーイのずっしりとした重みのような。単に懐かしいだけでなく、ある種の安堵感に溢れている。とても喜劇的だ。

q~b(゚∀゚)カモンベイビーアメリカ