「先生にとっての平凡な生活、ってどんなイメージですか」
「どっちを向いても敵と味方の差が少ない状態かな、要は中央値だね」
「味方は多い方がいいんじゃないでしょうか」
「シーソーではね、支点にいるのが一番振り回されないんだよ」
芸能とは共同体の利益のために行われるものであり、それにという鈴木忠志の言葉が引用されている。
対して芸術とは「信仰を等しくせざるものが現れ、他者の
視線が出たとき」に生じるものである
共同討議1「記号から触覚へ」
「ゲンロン5」p.41
「ほかの答えがなければ、それひとつで良い答えなんてないの」インタビュー「人間は足から考える」の中で、西洋が忘却している
オルダス・ハクスリー「島」p.76
型とはつねに過去から来たアナクロニックなものであり、という東による鈴木忠志「演劇とは何か」の読みは、時間軸上の
現在に入り込んだ別の時間である
共同討議2「演劇の起源と幽霊の条件」
「ゲンロン5」p.68
古典芸能における幽霊は、過去をあぶり出すための装置である。型を行う物理的身体と物語る心理的身体の共存が、そのまま同時に
同時に、〈過去そのもの〉である。
(中略)
歌舞伎には常に複数のレイヤーがかけられ、観客は、それらの
層の襞の中で、時間軸を超越しながら遊ぶ。
木ノ下裕一「幽霊としての歌舞伎」
同p.145
不気味さの経験というのは、たんに疎遠さへの嫌悪や熱素やエーテルという幽霊が除霊されたのと同じように、
警戒感だけではなく、親しさの経験とも混ざっている。
共同討議2「演劇の起源と幽霊の条件」
同p.69
いま自分が「そうではなかった可能性」を半分は内包しつつ生きる。と述べていることでもある。
それが演劇がやっていることです。
対談「演劇とは「半々」である」
同p.99
むしろ積極的に、意識を超えた意識、意識でない意識も
含めた形で、意識なるものを統合的に構造化しなおそう
とする努力を経てはじめて新しい東洋哲学の一部としての
意識論が基礎付けられるのであろう。
またそこにこそ東洋的意識なるものを特に東洋的意識論
として考察する意義がある、と私は思う。
井筒俊彦「意識と本質」p.101
東洋哲学一般の一大特徴は、認識主体としての意識を
表層意識だけの一重構造としないで、深層に向かって
幾重にも延びる多層構造とし、深層意識のそれらの
諸層を体験的に拓きながら、段階ごとに移り変わって
いく存在風景を追っていくというところにある。
同p.316
理由とは、コンセンサスの名残である。サルトルの言う「嘔吐」は、人間がコンセンサスの名残りを欲し、
An At a NOA 2016-11-15 “理由”
人間はどこまで充足理由律を緩めることができるだろうか。
An At a NOA 2017-5-10 “比較可能律あるいは樹状律と充足理由律”
「而今の山水」は、現にそれぞれ山と川として本来はつなぎ替え可能である投機的短絡としての
分節されているにもかかわらず、山であること、
川であることから超出して(すなわち、それぞれの
「本質」に繋縛されることなしに)自由自在に
働いているのだ
井筒俊彦「意識と本質」p.144
真理なしには集団は存在できない。山が、山というものとして、山という言葉によって抽象
集団なしには真理は存在する資格がない。
An At a NOA 2016-06-27 “集団と真理”
パラでは抽象的物質主義よりも具体的物質主義がよしとされ、
さらにそれを具体的精神性まで変容させることを目指している。
「ことばとことがらのちがい」である。
An At a NOA 2017-01-28 “島”
「ことばになったことがら」は、シンボルとして抽象される
ことで、同一な部分だけが残り、差分は棄てられてしまうため、
再現性の代償としてその対象への集中力を損なう。
処理能力の向上には向いているかもしれないが、すべてが
シンボル化された世界はある種のディストピアである。
An At a NOA 2017-01-29 “ことばになったことがら”
「先生とお話ししていると、面白いです」オーロラは言った。Wシリーズの面白さは、そのような面白さだ。
「それはですね、私が面白くしようと思っていないから
なんですよ」
「はい、私の結論も同じです」
森博嗣「青白く輝く月を見たか?」p.274
頭脳回路の局所欠損によるニューラルネットの回避応答が、回路に生じたちょっとしたエラーによって、抽象過程
偶発的な思考トリップを起動する。
同p.267
なんと、ぼんやりとした思考、行き当たりばったりのと形容される、ある種の人間らしさにつながる。
行動だろう。
同p.241
この種の純粋な人工生物たちにとって、人間は投機的短絡はつなぎ替え可能であるところに利点が
いわば病原菌のようなものかもしれない。
同p.181
そうそう、君たちが学ぶのは、言葉になったデータなんだ。というハギリの指摘を、どのようにクリアしていくかが、
そこが、ラーニングの最も大きな落とし穴といえる。
同p.248
「なるほどね」僕は頷いた。「わからないでもない」
「わからないでもない、という判断がかなり高度な
認識処理です」
同p.103
そう考えると、道徳というのは、抽象過程の破綻を避ける道徳は、技術とともに常に変化する可変性の殻である。
ための、発散する特性を制御する枠組みだと言える。
An At a NOA 2017-06-10 “技術の道徳化”
おたがい、相手から学ぶものがなにもないと〈中央コンピュータ〉が体現する、
思いこんでいる状況は―どちらもまちがって
いることの証ではありませんか?
アーサー・C・クラーク「都市と星」p.282
“いかなる機械も、いかなる可動構造を持たない”という機械の理想像も、固定化の末路の一つであり、
同p.289
人類がさまざまな種属との接触によって知ったのは、としているあたりには、ユクスキュルの
各種属の持つ世界観が、それぞれのそなえる肉体構造と
感覚器官に深く依存しているということでした。
同p.435
理由付けに相当する判断機構をAIに実装したとして、
そんな機構は自己正当化を続けるバグの塊のように
みえるだろう。
An At a NOA 2017-01-09 “勘”
きみの精神には、外界に対する恐怖、都市に
閉じこもりたいという強迫観念、都市の住民
全員とダイアスパーを分かち合っているという
意識などが植えつけられていた。
しかし、いまのきみは、その恐怖が根拠のない
ものであることを知っている。
(中略)
いま、その軛からきみを解き放とう。
わたしのいう意味がわかるね?
同p.452
情報の抽象過程の新規性に芸術の可能性は存する。
An At a NOA 2017-04-30 “芸術と技術”
そこではページの一枚一枚、本の一冊一冊ごと、
異なる読者に向けて内容をカスタマイズする
ような製本も可能になっている。それを文化的な
合意として「出版物」(publication)と呼びうる
かは議論があるだろうが。
阿部卓也「杉浦康平デザインの時代と技術」
日本記号学会「ハイブリッド・リーディング」p.75
秩序からの振れ幅を、犯罪と創造のいずれと呼ぶのかという
境界線は極めて曖昧であり、常に恣意的に決めるしかない。
An At a NOA 2016-11-14 “犯罪と創造”
犯罪と創造は多様性の同義語であり、一枚の硬貨の表裏のようなものです。
小坂井敏晶「社会心理学講義」p.269
要素の抽象特性の変化によって、同一性という集合の抽象特性も
変化を促される。
これが起きない集合は熱的死と呼べる状態である。
抽象特性の変化が大きすぎると集合は瓦解し、小さすぎると
集合は壊死する。
An At a NOA 2017-06-10 “技術の道徳化”
秩序を秩序のままに取っておきたいという思いと、完全な固定化こういった議論を放棄して、責任を置き去りにした
という最大の挑戦の間で、生命は常に矛盾を抱えている。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス”
表現の自由に限らず、あらゆる自由には責任が伴う。例えば、シャルリー・エブドの風刺画と今回の漫画を
より精確には、責任を問いたいがために自由が想定される。
裏に、問う必要がない責任については、自由が想定されない、
という命題もまた、この一件の報道を見ていると真だと感じられる。
An At a NOA 2016-09-05 “表現の自由”
だからこそ、人間は必ずしもcorrectではない判断を
共有するために、rightというコンセンサスに基づく
基準を採用するのだろう。
An At a NOA 2016-11-15 “correctであり続けるのは難しい”
自由を謳歌したいのであれば、集団の巨大さに頼らず、
自らに責任を回収するのがよい。
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団”
専門分化とは責任の外部化であり、住環境、食品、物理的身体によって規定された個人の代わりに、
医療等を専門家に任せることと、その安全性に対する
責任を専門家に負わせることは表裏一体であった。
何もかもが専門分化した世界では、人間は個としては
まったく不自由で、何かの専門家としてだけ自由を
手に入れることになってしまう。
それを理想とする考え方もあるだろうが、それは
やはり個の意識を消す方向に行ってしまうように思う。
An At a NOA 2017-05-12 “自由と集団”
技術は、延長スルモノとしての人間を、育種することができるだけでなく、調教することもできるという話は、AlphaGoとの対戦を通じて柯潔の囲碁もまた変化したという話を彷彿とさせた。
ピーター=ポール・フェルベーク「技術の道徳化」p.67
絶対的な正というものは存在しないが、人間全体にとっての絶対的な正というものは存在しえ、それを追求する学問は倫理学と呼ばれる。という倫理学を、技術に媒介された人間や人間に媒介された技術という領域まで拡張することで、技術を道徳の枠組みに組み込んだのがポストヒューマニズムだとすれば、そこからさらに、技術に媒介された技術の道徳化は可能か、という次の段階の議論にも興味が出てくる。第7章の話題や自動運転車の事故の責任論はその領域に差し掛かっている。
An At a NOA 2015-11-22 “論理と倫理”
秩序を秩序のままに取っておきたいという思いと、完全な固定化という最大の挑戦の間で、生命は常に矛盾を抱えている。目的論は、上記のような過程を、充足理由律に従う存在が眺めたときに、不可避的に綴ろうとしてしまう物語である。
An At a NOA 2016-08-09 “ホメオスタシス”
このような人工知能が引き起こす人間にとっての不利益は、
いつか自然災害として扱われるようになるだろう。
An At a NOA 2016-04-07 “自然災害”
株式会社と同じようにAIが法人になる未来も、前者は理由付けを諦める代わりに、意識のカテゴリを
選択肢としてはあるだろう。
An At a NOA 2017-05-08 “法人としてのAI”
2以上の個人から採取したデータが1つのかたまりとして振る舞うように、各個人から「この自動運転車に乗った」という
An At a NOA 2015-03-19 “ポストモダンの思想的根拠”
創造するということは、これまでも常にコミュニケーション発散したノードは一時的にコミュニケーションの網から
とは異なる活動でした。そこで重要になってくるのは、
非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、
管理からの逃走をこころみることだろうと思います。
ジル・ドゥルーズ「記号と事件」p.352
理解しようとしてはいけない―ただあるがままを見守れば
いいのだ。
理解はその後に訪れるか、もしくはまったく訪れないかだ。
アーサー・C・クラーク「幼年期の終り」p.362
あらゆるユートピアの最大の敵―退屈―に侵されてしまい、
同p.135
「われわれはこの先どこへ行くのだろうか?」を問うことに疲れてしまったからかもしれない。
同p.203
生存条件の維持にとって決定的なことは、エネルギーの枯渇という視点を提示した。
ではなくあくまでもエントロピーを増加させないメカニズムが
エネルギー(熱)を媒介として作動していることにある。
山本義隆「熱学思想の史的展開」p.335
子として死ぬだけでなく、親としても生きろ。と言っていたのを思い出す。
東浩紀「ゲンロン0」p.300
自分の大きな夢を追うことが恋が配偶者選択における特徴抽出アルゴリズムである
今迄の僕の仕事だったけど
君を幸せにするそれこそが
これからの僕の生きるしるし
財津和夫「青春の影」
恋のよろこびは愛のきびしさへの喜びしかない状態のことをハッピィエンドとするなら、
かけはしにすぎないと
財津和夫「青春の影」
他者は他者であることによって不可避的に私と物語を部分的に共有しており、つねに完全な他者では有り得ず、不完全な他者となる。抽象特性の可変性を高く保つことで、入力される情報の変化に対応できる状態を維持することが、心理的身体を実装していることの最大の利点である。おそらく、答えることよりも問うことが大事に思われるのは、答えは抽象特性の変化なしに行えるのに対し、問いは抽象特性の変化の兆しになるからだと思われる。
An At a NOA 2016-05-29 “心という難問”
外史の「名著」だが、直観主義(命名としては構成主義のと書いてあったのは、このような公理の設定と世界観の
ほうがよいと思う)の論理を心の論理、ノイマン環の
量子論理を物の論理、古典的なブール論理を神の論理と
しているのに感心した。
森毅「ゲーデル、つかず離れず」
現代思想2017年6月臨時増刊「ゲーデル」p.57