2017-01-09

ゆとり教育

ゆとり教育の理念は正しかった 文科省が目指す21世紀型教育とゆとり教育の類似性

「我々はこれからの子供たちに必要となるのは、いかに社会が変化しようと、自分で課題を見つけ、自ら学び、自ら考え、主体的に判断し、行動し、よりよく問題を解決する資質や能力であり、また、自らを律しつつ、他人とともに協調し、他人を思いやる心や感動する心など、豊かな人間性であると考えた。たくましく生きるための健康や体力が不可欠であることは言うまでもない。我々は、こうした資質や能力を、変化の激しいこれからの社会を[生きる力]と称することとし、これらをバランスよくはぐくんでいくことが重要であると考えた。」

上記は、その後「ゆとり教育」と呼ばれることになる教育について、1996年に中教審から出された答申のようだ。この内容自体はとても優れているし、「正しい」という言葉を避けるならば、「極めて妥当だ」と評価できる。

ゆとり教育の理想形は、灘で橋本武先生が行っていた「銀の匙」を使った授業のようなものだろう。問題設定が必ずしも一意的には定まらない対象に対して、基準を設定し、問を立て、理由を組み立て、相手に説明し、理解を得る。そして、設定した基準が絶対的なものでないことを知るからこそ、時には譲歩することで、コンセンサスとしての判断が下せるようになる。

結局、教師は教師で文科省や中教審に対して受け身にとどまり、保護者は保護者で学校に対して受け身にとどまったままでは、ゆとり教育の理念は達成しようがなかったというだけだ。次の世代の人間を、そういう人間ではなく、引用文に掲げたような人間に育てるために、真っ先に変わろうとしなければならなかった前の世代の人間が、案の定変われなかったことが最大の敗因だろう。

ある世代に新しい教育をすることの一番のネックは、その教育を受けなかった前の世代だ。21世紀型の人間に育てようとするのに、育てる側の人間が20世紀型のままでよいわけがない。教育なんていう行為が本当に存在するのかはわからないが、存在することを信じてそれを行うからには、せめて己も変われるようでありたい。

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