初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この「言(ことば)」の原文はギリシア語のλόγος (ロゴス)であり、ゲーテの「ファウスト」や種々の日本語訳を取り上げながら、この語をどのように訳すかといったエピソードが紹介されている。
「ヨハネによる福音書」
Wikipediaでロゴスの項を引くと、
1. 概念、意味、論理、説明、理由、理論、思想などの意味。とある。
2. キリスト教では、神のことば、世界を構成する論理としてのイエス・キリストを意味する。
3. 言語、論理、真理の意味。
転じて「論理的に語られたもの」「語りうるもの」という意味で用いられることもある。
Wikipedia “ロゴス”
ロゴスは理由付けによる抽象過程のことだと言える。
言葉自体、無意識や意識という抽象過程の抽象から生じる類のものである。から、ロゴスを「言(ことば)」と訳してよいのかは悩みどころだ。「語(ことば)」、「意(こころ)」、「力(ちから)」、「業(わざ)」、「理(ことわり)」等と、いろいろな訳出案が出てくるのも頷ける。
An At a NOA 2016-08-11 “文体の科学”
ロゴスが神であるということはつまり、大いなる原因としての神というのは、理由付けそのものということだ。原因を追うというあらゆる行為の最果てにあるものが、まさにその原因を追うという行為であるということは、これもまたウロボロスとなっており、古今東西の宗教というのはそういった構造をしているのかもしれない。
p.s.
そう言えば、髙田三郎作曲、高野喜久雄作詩の合唱曲「水のいのち」は宗教の循環パターンそのものだ。
おお 川は何かというのは、輪廻からの解脱と同じ構造である。髙田三郎による「演奏上の注意」の最後に、
川は何かと問うことを止めよ
高野喜久雄「川」
尚、この組曲は、(中略)全五曲をこの順序で演奏し、この組曲本来の形をとることの方が、はるかに望ましいことを附言する。とあるのももっともだ。
2016-08-13 追記
神=ロゴスがすべてを創造したという考えは、強ち間違いとも切り捨てられない。意味付けや理由付けという抽象過程抜きには、ただ情報しか存在しないのだとすれば、私達が認識するような有様として世界を形づくっている根源の一部は間違いなくロゴスだからだ。ただし、理由付け以外の抽象過程としての意味付けを見落としてしまったのでは片手落ちになってしまう。
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