2016-08-05

知の編集工学

松岡正剛の「知の編集工学」を読んだ。松岡さんの書き物としては、千夜千冊をよく読むのだが、いつもあの知識量の多さと広さに驚く。そして、自分が読んだ本が取り上げられていると、松岡さんの書評を読むのがちょっと楽しい。


意味付けや理由付けという抽象がまさに情報の編集であり、その圧縮過程によって生命や自己が特徴付けられているという点において、この本に書かれていることのほとんどに同意できる。

一点疑問があるとすれば、情報のルーツについてだ。
「情報」は生命とともに生まれ、「編集」は生命とともに開始した
からである。
松岡正剛「知の編集工学」 p.78
個人的には、情報とは情報科学的な定義における、取りうる状態の数と関連付けられた量であるから、それは生命とは無関係に、端的に存在すると思っている。そこには何の秩序も意味もない。後に原子や分子へと分節される情報は、ただ在ることができる。それを秩序あるものへと「編集」することが生命そのものであるから、引用文の後半には賛成できる。でもその後で、
つまり、生命はもともと情報のプログラムを“ネタ”にして形成されたのだ。このことが超重要である。先に生命があって、あとから情報が工夫されたのではない。先に情報があって、その情報の維持と保護のために、ちょっとあとから“生命という様式”が考案されたのだ。
同p.80
と書いているので、順序としては同意見だ。

記憶の問題については、
私たちは「記憶の構造に情報をあてはめている」のではなく、おそらく「編集の構造を情報によって記憶していく」のではないか
同p.95
と書いている。これは、野矢先生的に言えば、自分の生きている物語を情報によって随時修正している、というようなイメージだろうか。編集によって抽象されたもの自体を記憶するのではなく、編集=抽象の繰り返しによって、その仕方を記憶している、という捉え方は、神経系の構造ともマッチするように思う。つまり、神経系では回路の接続は、その回路の使用頻度によって強化されるようだが、この回路のパターンの強化のされ方が、個々の事象ではなく、情報の処理方法と対応している方が自然だと考えられる。

第五章2節「物語の秘密」で展開される物語論が興味深い。ここで〈マザー〉と呼ばれている物語の原型は、理由付けにおける抽象パターンの原型であり、これが意識を意識たらしめていると思われる。さらに、
見落としてはならないのは、〈マザー〉から言語体系や国語がつくられていったということだ。
同p.255
として、例えば「平家物語」が語られていく中で日本語というシステムができあがっていったと書いている。理由付けの抽象パターンから言語のあり方が決まるのだとすれば、言語により意識が作られるのではなく、むしろ意識が言語を支えているということになるだろうか。

確かに、言語により思考することで意識は支えられているのだが、では何故言語が生まれたのかというと、それは理由付けという投機的短絡による秩序の生成自体に見出された秩序=〈マザー〉が大本であり、理由付けのウロボロスは意識となった後で、自身を表現するために言語を生み出し、言語を用いて自身を表現することを通して、さらに自身を強化してきた、ということになる。

第五章3節では、フレーゲや西田幾多郎を取り上げ、編集の述語性を強調している。
これは、「特殊」としての主語にたいして、述語が「一般」であることを強調したものである。そのため、人間の知識は、この「一般」の無限の層の重ね合わせとして理解されるしかないのだととらえられた。
同p.278
これは帰納と演繹の違いとして捉えてしまってよいのだろうか。意味付けにしろ理由付けにしろ、外部からの情報を抽象することは帰納による一般化であり、それを基に判断することは演繹による特殊化である。西田哲学が、
「意識の範疇は述語性にある」というとびぬけてすばらしい結論を出したのだ。
同p.278
とすれば、意識の本質は情報を抽象することにあるのだと理解できる。その後にどういう判断を下すかも、当然この抽象=帰納過程の影響を受けるので、全く不要ということではないのだろうが、どちらかというと情報を受けとり、抽象する段階の方がセンサ特性の影響を大きく受けるはずなので、イメージは共有できる。

第六章2節に出てくる7つの問題、
(1)自然「なぜ、自然は階層をもつように見えるのか」
(2)生命「なぜ、いつから、生命は相互作用の中に入ったのか」
(3)人間「なぜ、人間は自己を知ったのか」
(4)社会「なぜ、社会は組織を必要としたのか」
(5)歴史「なぜ、歴史は混乱を好むのか」
(6)文化「なぜ、文化は固有の言語を保持しようとするのか」
(7)機械「なぜ、機械は自立的にふるまおうとするのか」
同p.313
は常に考えていることと大部分が共通する。

(4)について、
そもそも組織とは「情報編集システムを体制化したもの」であるからだ。
p.317
としているのは、
集団を抜きに真理が存在しないのと同程度に、真理の共有なしには集団は存続できない。
An At a NOA 2016-07-05 “随想録1
という意味において、真理とはすなわち情報編集システムのことだと解釈できる。

(5)について、
それは、結局のところ国家や民族や企業が、なぜ自己編集性を完結できないのかということにかかわっている。ようするに内部に矛盾が生じ、それが外部に流出したときに、執拗な交換を要求するために、そこに経済混乱と戦争混乱がおこるのだ。
同p.318
と書いているのを読んで、ゲーデルの不完全性定理が思い出された。
第1不完全性定理
 自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、ω無矛盾であれば、
 証明も反証もできない命題が存在する。
第2不完全性定理
 自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば、
 自身の無矛盾性を証明できない。
Wikipedia “ゲーデルの不完全性定理
意味付けや理由付けによる体系を「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論」と呼べるのかはわからないが、もしそうだとすれば、無矛盾性により判断不能な命題が存在してしまうことは、厄介な問題になるはずだ。これを回避するために、矛盾性をはらむことを許容しているという可能性はあるだろうか。

(7)について、
それは人間が何かを節約したかったからだった。しかし、その節約をしたぶん、じつは機械が何かを過剰にためていく。ではいったい、そのことが私たちの望んだ編集性なのかどうか、ということだ。
同p.321
というのは、これから先の意識のあり方を自問することの必要性を説くものとして、意識の存続にとって非常にクリティカルだと思う。

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