2016-01-30

教育

そして二人だけになったの教育に関する話を読んでいて、
魔法の色を知っているか?でラジオを使ってSOSを発信する
シーンを思い出した。

教育とは、受信側のスイッチが入っていることと、
発信した信号が受信可能であることを期待して
発信する以外にないという勅使河原の話が、
もはやラジオが廃れた世界で、ごくまれなアマチュア無線家の
存在を信じてSOSを発信したシーンに重なる。

昨今流行りのディープラーニングでは、
データセットから特徴を抽出し、プログラム自身が
判断のルールを決めていく。
プログラムに抽象が可能になったわけだ。
ここに至るともはや教育とはデータを与える行為に収束していく。

Wシリーズの描く二世紀先の世界では、
教育という幻想が崩れているという様を、
ラジオによる通信の難しさに重ね合わせたのかもしれないと思った。

2016年現在、GoogleやAmazonは無料無制限のかざりをぶら下げて
世界中のユーザを教師にすることで、人工知能の教育に邁進している。
教師というよりも環境や入力あたりの言葉が近いかもしれないが。
一方で、日本の教育現場では学習指導要領の変遷(ゆとり教育から脱ゆとり)、
モンスターペアレントの誕生、学習塾の普及等、もはや家庭と学校の役割とは
何なのかがよくわかならくなってきている。

何のために教育をするのか。
さらによい教育を受けるため?
その先には収入の高い職業が待っている?
その収入でまた自分の子によい教育を受けさせる?
自分では教育もせずに?

30年後に、家庭や学校という仕組みはどの程度残っているだろうか。

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