2019-04-13

反復性と追体験

ゲンロンβ32-33「反復性と追体験」を読んだ。

何かを反復するというのは、個別的なものから一般的なものへの抽象化である。

一回一回違っているものを同じだとみなすという対称性を導入し、データの自由度を減少させているという点で、ヘーゲルの「次元の縮減」にもつながるように思う。

十分に反復されたものはハードウェアのように固定化し、もはや反復が意識されることはなく、同じであることは自明視される。

ゲームとは、既存のハードウェアとは異なる判断基準に基づく反復を実現する試みである。その反復が共有されずに途切れてしまうか、それが新たなハードウェアとなり反復が意識されなくなるまでの束の間に訪れる、同じ抽象化をしているという追体験の感覚が、
快楽なのではないだろうか。

2019-04-11

新記号論

石田英敬、東浩紀「新記号論」を読んだ。

dataのコヒーレントな振る舞いが、informationという一つの塊へと抽象される過程全般を扱うのが、記号論だと思う。何をdataとするか、どのようにコヒーレントなのか、どのくらいの粒度のinformationとして圧縮するか、などの判断基準の違いに応じて、様々なタイプの抽象過程が考えられる。水分子のコヒーレントな振る舞いが、雲や波や氷山とみなされるのと同じように、突き詰めれば、生命というのも、原子のコヒーレントな振る舞いのうち、判断基準の変化による秩序の更新の仕方が、ある程度人間に近いものを言ったものであり、記号論は実に多様なものを扱うポテンシャルを有している。

生きた抽象過程である世界が、言語とは別の仕方で抽象する状況を捉えるには、言語という抽象過程に特化して展開してきた記号論という抽象過程の判断基準が固定化し、死んだままの状態を放置するわけにはいかない。本書で表明される石田記号論は、そのような意味で、記号論を生き返らせる試みだと言えるだろう。

石田記号論で一番興味深いのは、情報科学や神経学も援用しながら、ハードウェア的・無意識的とでも表現できる抽象過程に着目した上で、それと並行して展開されるソフトウェア的・意識的な抽象過程との関係を丁寧に描いている点だ。

人間や社会を、複数の抽象過程の重なり合いとして捉えたとき、判断基準の変化が比較的緩やかなものによる秩序付けが、判断基準の変化が比較的激しいものによる秩序付けを、ある程度方向付けているとみなすことができる。前者をハードウェア、後者をソフトウェアと呼べば、ソフトウェアにとって、ハードウェアは制限であると同時に、きっかけとなるものだ。ハードウェアとソフトウェアは、無意識と意識、物表象と語表象、イメージとシンボルなどと呼んでもよい。

無意識や情動はハードウェア寄りであり、変化が緩やかであるが故に、個体間で一度コヒーレントな状態になると、意識や理性を遥かに上回る規模や速度でコミュニケーションが成立し、抽象化された個を形成することで甚大な影響を及ぼすようになる。ハードウェアの影響があまりに強力になると、ソフトウェアにとっては制限の側面が強調されることになる。ハードウェア的な部分によって通信可能性を確保し、ソフトウェア的な部分によって応答可能性を確保した上で、判断基準のすり合わせに応えられる状態を自由と言うのであれば、ハードウェアに引きずられてソフトウェアまで固定化した個は不自由である。別の秩序を解体することで己の秩序を維持する過程である消費において、解体する秩序の選択に関する偏りとしての欲動を制御することで、生産と消費の無限循環を形成するアメリカ型資本主義は、まさにそのような意味での不自由さをはらんでいる。ここには、壊死と瓦解の間で揺れる生命にとってのエントロピーの問題が潜んでいる。

意識は、投機的に短絡することで、飛躍や逸脱を含みながらも、理由付けによって縫合しながら連続的に変化する、発散寄りの抽象過程である。理由付けによる理解というのは、所詮は人間の意識だけが必要とする抽象化なのかもしれないが、ハードウェアレベルの影響が、夢見る権利まで侵食ながら、強烈に固定化へと引きずり込もうとする中で、「理解」を通した判断基準の変化を続けなければ、意識は消え失せる他ないだろう。意識にとって、意識の存続の是非を問うことに意味があるのかは不明だが、何かを理解しようとする過程ほど、面白いものはないように思う。

制約としてのハードウェアをソフトウェア的に乗り越えるということではなく、固定化をきっかけとして受け容れながら発散することで、通信可能性と応答可能性を兼ね備えて、壊死と瓦解の間で生き続ける。個になりつづける、自由であるというのは、そういうことなのではないか。

東浩紀自身は言及していないが、「一般意志2.0」につながる考えも垣間見え、とても楽しめる一冊であった。

2019-04-08

奇想の系譜展

日曜日、最終日の「奇想の系譜展」に駆け込んだ。
うららかな春の空の下、上野の山は息の長い桜を楽しむ観光客で溢れかえっていたが、都美は思ったよりも空いていた。

作品から受けるそこはかとないコミカルさが、奇想と呼ばれる所以であるように思う。コミカルcomicalとは喜劇comedy、つまりはディオニュソスの祭礼であり、アポロン的な秩序からの逸脱である。

そのコミカルさに、漫画、アニメ、ライトノベルへと連なる、サブカルチャーの系譜を感じる。

一般意志2.0

東浩紀「一般意志2.0」を読んだ。

人間の生は物理的身体によって制約されている。ある波長の電磁波しか見えず、ある周波数の空気の振動しか聞こえない。もう少し高次の感覚野で言えば、関係ないものまで人間の顔として認識してしまうシミュラクラ現象や、「日本人にだけ読めないフォント」も、そのような制約の一種だと言える。

このように意識されているもの以外にも、人間の行動は様々に制約されており、人間の行動を集積したビッグデータには、人間が想像する以上に構造が埋め込まれている。ルソーの一般意志は、その構造のことを概念化したものだろう。

人間の生の無意識的な構造である一般意志が、コミュニケーションなしに自動的に抉り出されるようになったとき、それだけで行動が決まってしまうとするのであれば、意識は不要である。理性による意識的な判断を併用するのは、端的に言えば、理由を必要とする意識自身のためだ。意識的な理性に頼りがちな現状の民主主義は袋小路に入っている一方で、無意識的な本能に頼り過ぎた民主主義はいつか「生府」を生み出し、不健康・不幸福になる権利を要求するミァハの手によって、壊死と瓦解の二択を迫られることになるだろう。民主主義2.0は、無意識と意識を併用することで、そのいずれでもない民主主義を目指すものだ。

そう言えば、Wシリーズで描かれた真賀田四季の共通思考は、一般意志と同じ概念だろうか。200年以上にわたり世界の在り方に影響を与える存在として、ルソーと真賀田四季の思想を比較するというのも面白いかもしれない。

2019-03-18

腹痛

腹痛の苦痛に不屈の精神で耐え、普通どおりに振る舞う。

ふくつう、くつう、ふくつ、ふつう

2019-03-10

マナーとマンネリ

マナーmannerは守ってほしいけれども、マンネリmannerismは避けたい。

東浩紀がポストモダンとポストモダニズムを峻別していたのに通じる態度だ。

いずれも、固定化と発散の問題である。

イズムの安寧の内に留まる幸福に憧れる一方で、「すばらしい新世界」のジョンのように、不幸になる権利を要求したくなる衝動に駆られるところに、人間らしさというか、生命らしさがあるように思う。

2019-03-08

日本史のしくみ

林屋辰三郎、梅棹忠夫、山崎正和、上田正昭、司馬遼太郎、原田伴彦、村井康彦の対談集「日本史のしくみ」を読んだ。

タテの復興文化である変革はエネルギー論、ヨコの複製文化である情報はエントロピー論。

ある抽象度での詳細を捨象することによって、一つ上の抽象度での情報が現れるという統計力学的視点をもつことで理解されるのは、「歴史は抽象的に繰り返す」ということだ。

こういうものを構造と呼ぶのであろう。