2017-04-06

プロスポーツ

科学の研究が何の役に立つのかという問題は、
プロスポーツは興行なのか競技なのかという
問題に近いように思う。

プロスポーツは観客あってこそ成立するという
意味では興行である。
しかし、何かの筋書きどおりに動くというのは、
演劇のような別の種類の興行になってしまい、
プロスポーツでは八百長と呼ばれることになる。
いくら面白かろうと、それが真剣勝負の競技で
あるからこそ、プロスポーツという興行として
成立し得る。
競技だからこそ興行として成立するし、興行として
収支が合うからこそ競技が継続できるのだ。

科学は、資本主義の名の下にお金が注入されるから
こそ継続できる。
そして資本主義もまた、科学の成果によって無限の
成長という幻想を維持できるからこそ成立する。
この文脈で言えば、研究が役に立つかという問いは
すなわち、その研究は如何にして資本主義に与する
のかという問いになる。

おそらくこの手の質問が嫌いな研究者がいるのは、
なぜ資本主義を前提にしなければいけないのかに
ついて納得がいかないからだと思われる。
資本主義、あるいはもっと一般に、経済や政治と
切り離した科学は可能だろうか。
そもそも、人や物にお金がかかるとはどういうことか。
産官学連携という言葉をかざして、資本主義と科学の
相互駆動を止めないために続けられる努力とは逆行
するかもしれないが、そこを考えるのをやめてしまう
のであれば、研究はすべて産と官に任せ、学は教育に
専念すればよくなってしまうように思う。

ブロックチェーンとしてのSNS

コンセンサスに基づく履歴が連なった記憶は、
ブロックチェーンとしての役割を果たす。
facebook、twitter、InstagramなどのSNSは
その代表格だ。

個々のアカウントは、複数の人間が管理して
いるかもしれないし、一人の人間が管理する
複数のアカウントの一つかもしれないし、
ボットかもしれない。
しかし、そんなことは関係なく、投稿された
内容にいいねがついたりリツイートされたり
することでその内容が履歴としての濃さを
獲得し、ブロックチェーンの一端を担う。

twitterは中央集権的にアカウントの真性を
示すようになったが、本来は〈監視〉ではなく
〈環−視〉によって担保されるはずのものである。
フェイクニュースの問題も同じであり、
Googleやfacebookが裁定することはブロック
チェーンとしての在り方を崩すことになる。
情報は、その発信元ではなく、共有履歴によって
真性を得ることになる。
正しいからコンセンサスに至るのではなく、
コンセンサスが得られている様を正しいと
形容するというのは、そういうことだ。

ブロックチェーンが個として抽象されるには
何かしらのハードウェアを手がかりにする
必要があると思われ、個の同定され方にも
依存するハードウェアの影響が出る。
人間の物理的身体とロボットの躯体が異なる
のであれば、〈環−視〉する者によって区別が
見出されるかもしれないが、同種のハードウェア
上に実装されるのであれば、個は同じように
同定されるはずだ。

あるいは、ソフトウェア的なハードネスは、
言語によっても獲得できるように思われる。
文法の正しさ、てにをはの自然さ、単語の
選び方、その個が言いそうな内容、などに
よって「固さ」が確保され、公開鍵暗号の
「固さ」の代わりを果たす。
この「固さ」が〈環−視〉に耐えられなければ、
そのアカウントが乗っ取られたとみなされ、
当該アカウントに紐付けられた個は、一時的に
解体される可能性もある。

人間の心理的身体と人工知能の差というのは、
ソフトウェア的にはおそらく解消可能なもの
だと思われる。
すなわち、同種のものとして〈環−視〉される
ことに耐えるだけの精度のブロックチェーン
として複製や再現し得る。

人間と機械を究極的に分け隔てるのはハード
ウェアの方であり、人間側からでも機械側から
でも歩み寄ることができるのであれば、人間は
妊娠、出産以外の方法で人間を複製できるように
なるはずだ。

2017-04-05

ビットコインとブロックチェーンの思想

現代思想2017年2月号「ビットコインとブロックチェーンの思想」
を読んだ。

ビットコインやブロックチェーンの技術的な解説としては、
小島寛之「ブロックチェーンは貨幣の本質か」がわかりやすい。
コチャラコータの「Money is Memory」という論文を取り上げ
ながら、ブロックチェーンを貨幣として用いる発想が、以前から
経済学の分野に存在していたと指摘しているのは興味深い。

ブロックチェーンというのは、あらゆるコミュニケーションの
履歴を含んだ記憶のことである。
藤井太洋はブロックチェーンのことを「かつて、こんな風に
データを保存する方法はなかった」と書いているが、
コミュニケーションの履歴に関する記憶が真正性を担保する
という意味では、「わたし」という個が同定される仕組みは
ブロックチェーンの仕組みと本質的に同じだと言える。

ブロックチェーンはある種の「固さ」をもち、それが物理的な
ハードウェアの「固さ」に依存できないサイバースペースの
心理的身体にとっての依拠すべき「固さ」になる。
その「固さ」によって、貨幣、国家、著作権、意識といった
既存の物質世界の秩序と置換可能な秩序がサイバースペースの
中に形成し得ると思われる。
物質世界における物理的身体上の心理的身体と同期した経験を
ブロックチェーンの形式で記録できれば、そこに個が生じる
ことも可能だろう。
ただし、ビットコインが既存の貨幣と接続することの困難以上の
困難が待っているとは思うが。

ブロックチェーンの有する、修正不可能性や暗号解読の困難さ、
PoWのコストといった諸性質は、いずれも上記の「固さ」を
実現するために必要不可欠だと思われる。
斉藤と中山の議論において、修正不可能性を解消したり、PoWの
コストを下げる話が出ているが、それでは本末転倒であり、
塚越が危惧するようなビットコインが既存の政治や経済の一部門
として吸収される事態につながるような気がする。
すなわち、ビットコインが電子マネーに堕してしまうのである。
むしろ、PoWが“労働”としてビットコインの〈モノ〉性を強化
するという大黒の指摘の方が妥当だと感じられる。
ただし、人間の記憶において忘却が可能であるのと同じように、
ブロックチェーンにおいても何かしらの「忘却」が可能になる
ことは考えられ、それはむしろ必要なことなのかもしれない。

大黒による、
ここにおいて暗号技術は、「公開鍵方式」の登場によって、
〈秘匿〉のテクノロジーから〈同一性〉証明のテクノロジー
へと変容を遂げる。
大黒岳彦「ビットコインの社会哲学」
現代思想2017年2月号「ビットコインとブロックチェーンの思想」p.164
という指摘は、上述のブロックチェーンと個が同定される
仕組みが本質的に同じだということと繋がる。
「暗号」空間において間主観的に承認されるハッシュ値の
経歴であるブロックチェーンは個そのものと言ってもよい。
ただし、ビットコインの利用者はハッシュ値として現れる
という意味では、「暗号」空間においてはイベントであり、
個と同一視されるのはブロックチェーンの方だと言うべき
かもしれないが。

大黒は信用と対比させるかたちで、信頼のことを
行為の相手方の一定の反応を期待した、リスクの引き受けを伴う、
相手方に対する行為者の〈投企〉である。
同p.170
と説明する。
ハイデガーの〈投企〉に加え、ルーマンの「信頼」の概念も
取り上げているが、個人的に投機的短絡と呼んできたものは、
これらの言い換えであったように思う。
共同体における「信頼」は「人格信頼」であり、それは個に
依存していたが、共同体が社会になることで「システム信頼」
へと変化する。
人格信頼がシステム信頼になる過程は、「暴力と社会秩序」で
述べられた非属人化と同じであり、大黒が指摘するように、
システム信頼において信頼されているのがシステムではなく
権威であるからこそ、ネットワークの非属人性がアクセス開放型
社会という権威への戸口条件となるのだろう。

属人的でもなく、権威も存在しない状況で“誠実”を調達し、
「アノニム信頼」を実現する様を形容して、
「ブロックチェーン」は〈欲望〉を〈誠実〉に転換することで
「アノニム信頼」を技術的水準で産み出す「信頼」“機械”である。
同p.176
と描写している箇所はとても気に入っている。
システム信頼がアノニム信頼へと変化することで、経済だけでなく
政治や宗教、あるいは個についても、権威に依存しない秩序形態
へと移行できるだろうか。
個はそもそもブロックチェーンのような仕組みで同定されている
のであれば、既に中央集権的でないのかもしれないが、人間を
ある種の特別な存在と考えてしまうこと自体、何かしらの権威に
依存していることの証左とも思える。
個はシステム信頼に拠っているだろうか、アノニム信頼に
拠っているだろうか。

サイバースペース上のブロックチェーンとして実装される個は、
ハッシュ値を供給する〈環−視〉する者の欲望を原動力にして
存続する。
〈環−視〉する者の役割は、物理的身体に実装された個が担う
こともできるが、果たしてそういった存在なしに、自律的に
駆動することもできるだろうか。
物理的身体に実装された個も当然同じ問題に直面しているはずだが、
もしかすると充足理由律こそが〈監視〉あるいは〈環−視〉する者
であり、その捉え方次第でシステム信頼とアノニム信頼のいずれの
形態でも存在できるのかもしれない。

2017-04-04

端末形態

インターネット端末のシェアでスマートフォンがPCを上回ったというディストピア

AndroidのシェアがWindowsを上回ったことについての記事。

記事中でデスクトップやラップトップに対してスマートフォン
が比較されているように、端末の形態によってできることは
異なる。
スマートフォンでもソフトウェアを開発することはできるのかも
しれないが、少なくとも個人的にはブログの記事すら書く気が
起きず、基本的には情報を取得するための端末になっている。
プログラミングや文章執筆といった、情報を抽象する作業は
ほとんどデスクトップで行う。

WindowsとAndroidの違いは必ずしもデスクトップとスマート
フォンの違いには一対一で対応しないかもしれないが、スマート
フォンに偏ることで、情報の取得方法だけが普及することに対する
危惧には概ね共感できる。
折角情報を発信する側に回れる機会なのに、結局のところ、
新たな形態のプロパガンダを促進するだけになってしまうの
だろうか。

記事からリンクされているTechchrunchのページには引用されて
いないのだが、この話でさらに考えさせられるのは、OS普及の
地理的な分布だ。
StartCounterのサイトにあるOS market share mapをみると、
その国で最も普及しているOSが、先進国と発展途上国で
WindowsとAndroidにきれいに分かれている。
怖いなーと思いつつ、この地図が緑に塗りつぶされることの
方が怖いのかもなーとも思いつつ。

ディザインズ

Amazonのおすすめに、五十嵐大介の「ディザインズ」という漫画が挙がっていた。Google Booksでサンプルを読んでみたところ、これは紙の本で読んだほうがよさそうだと思い、久々に漫画を紙媒体で購入した。

細かい線の集合が絵という一つの秩序をなしている感じがすごくよい。境界を明確に描くことで秩序を作るよりも遥かに難しいと思うが、生命という秩序を隔てる境界が本来的に多分に含む、ある種の曖昧さを上手く表現しているように思う。
境界は常に脆く不安定で曖昧である。維持するための不断のエネルギー摂取が不可能になったとき、その灰色の境界は崩壊する。
An At a NOA 2017-03-22 “灰色の境界
浦沢直樹の漫勉」の五十嵐大介特集において本人や浦沢直樹が語ることも、そういったあたりに繋がっているように思われる。
ある季節の、ある時間帯を体感した自分の感動、感覚をどう人に伝えられるか。それを、一枚の絵で描くよりも、シーンやセリフを連ねていって、自分の体験を、漫画を読んだときに、体験できるようにならないかな、みたいなことで描いている。(五十嵐)
自然物って、枝がどうなっているかなんて、分からないことだらけだし、そういうものを、分かる物として描いちゃうとダメなんですよ。分からない物として描く、そうすると自然物になるんですよね。(浦沢)

言語も本来は曖昧さを含んでいるはずが、送り手や受け手の使い方によって、明確なものになってしまうことがある。言葉によって抽象できない、というよりは、言葉で抽象することで、意図しない秩序に固定されてしまう、というのが、本当のところなのかもしれない。そこに陥らないために、物理的身体のセンサに頼るというのは健全な対応だと思う。物理的身体によって抽象されることで秩序は形成しつつ、心理的身体と物理的身体の距離感によって境界の曖昧さが残る、というか。

「ディザインズ」はストーリィ的にもSFを含んでいて興味深い。動物の人化、感覚の共有、環世界。哲学的だ。他の作品も読んでみようか。

Noto Serif

Noto Serif CJKが公開された。

サンセリフ体のNoto Sansは結構前に公開されていて、
Linux Mintだとデフォルトで入っている。
これまでも英数字はNoto Serifがあったのだが、
これでやっと日本語でも使えるようになった。

論文のフリーフォントには、日本語にIPA明朝とIPAゴシック、
英語にFreeSerifとFreeSansを使っているが、Notoフォントで
揃えられるのであれば、Noto SerifとNoto Sansに移行しても
よいかもしれない。

Noto Sansは早期アクセスでウェブフォントが公開されて
いるが、Noto Serifも公開してくれないだろうか。

2017-04-03

暴力と社会秩序

ダグラス・C・ノース、ジョン・ジョセフ・ウォリス、
バリー・R・ワインガスト「暴力と社会秩序」を読んだ。

暴力というのは、広義で解釈すれば発散のことであり、
その制御が秩序形成と関連するのは当然とも言えるが、
狩猟採集社会からアクセス制限型の自然国家、さらには
アクセス開放型の社会へと秩序のタイプが変化していく
様をとても滑らかな論理で繋いでおり、期待以上に
面白く読めた。

個人という、時間的にも空間的にも有限の発散の源から、
発散の構造を抽象することで、その制御が可能になる。
それは、人間が自らの物語を伝記から神話へと変換する
過程であり、燃焼や爆発といった急激な酸化から、錆の
ような緩やかな酸化へと移行することを彷彿とさせる。
三つの戸口条件、
  • 非属人的な関係
  • 永続的な組織
  • 暴力のコントロール
を満たし、厳密な移行と呼ばれる過程を経たアクセス開放型の
社会は、シュムペーターが創造的破壊と呼ぶ、緩やかな発散を
実現させるための檻を抽象したとみなせる。
その檻はコミュニケーションを抽象したものであり、
ノードとしての個人よりも、エッジの方が重要になる。
ノードは非属人化されることで代入可能な場所となり、
金融、運輸、通信といった何かが動くこと自体の方に
重きが置かれるようになってきた。
単一アクターモデルは内部で生じるコミュニケーションを
省略するために、本質を捉え損ねているという指摘は
的を射ているだろう。

本書を読んでいると、どことなくニック・レーンの
生命、エネルギー、進化」を思い出した。
アクセス制限型社会の中で戸口条件が形成され、
次第にアクセス開放型社会へと移行していく過程は、
アルカリ熱水噴出孔のまわりで生じていた地球化学的
プロセスが、対向輸送体の誕生によって生化学的プロセス
へと移行していく過程に通ずるものがある。
それは、社会も生命も同じように秩序として説明できる
ことを意味するだろうか。
それとも、人間の抽象過程のバリエーションは、結局のところ
同じようなものだということを意味するだろうか。

自然科学の分野との関連については触れられていないが、
その方面に展開するのも面白そうだ。
本書で「信念」という言葉で表現されるものには、当然
人文科学だけでなく、自然科学の知見も入ってくるはずだ。
地動説や進化論といった物の見方は直接的な影響を与えるし、
熱機関や医療といった技術によって、個体の領域が空間的にも
時間的にも拡がったことも、何らかの影響を与えているだろう。

18世紀の政治学者や経済学者がアクセス開放型としての在り方を
想像できず、自然国家の論理の中で社会のあるべき姿を描いたのと
同じように、今の人間はアクセス開放型の論理に縛られる。
Post-truthに対抗しようとしている21世紀初頭の社会は、23世紀の
人類の目にはどのように映っているだろうか。