2016-05-20

責任という虚構

社会心理学講義」に続いて「責任という虚構」を読んでいる。
「社会心理学講義」の方が後に出ており、「責任という虚構」の
おおよその内容は書かれているので、前者だけ読むだけでも
よいかもしれない。
ただ、「結論に代えて」という章で、「責任という虚構」を上梓した
意図を、ストレートな言葉で表現しているあたりは読んでみて
よかったなと思える。
しかしそんなに簡単に世界の虚構性を認めてよいのか。
逆説的に聞こえるかもしれないが、根拠に一番こだわっているのは
私の方なのだ。(中略)人間が作り出した規則にすぎないのに、
その経緯が人間自身に隠される。物理法則のように客観的に
根拠づけられる存在として法や道徳が人間の目に映るのは何故か。
これが本書の自らに課した問いだった。
小坂井敏晶「責任という虚構」p.257

自動車会社のスズキの燃費計測方法の話題は、結果の数値としては
安全側に違っていたらしい。
これが「不正」として取り上げられるのは何故か。
それは、この場合の正や不正の判定は法に基づいて行われるからだ。
エンジニアとしては法で定められている方式よりもよりよいと思われる
方式があれば、そちらをとるのが善だと考える場合もあるだろう。
その場合には善悪の判定は自然法則等に基づいている。

小坂井氏の言葉にあるように、普遍的な真理や正しさが存在するという
信念こそが危険なのである。
正しいからコンセンサスに至るのではない。コンセンサスが
生まれるから、それを正しいと形容するだけだ。
同p.166
規則を守るだけでは善にはならないという教育がよくされる一方で、
正しさや善さというのは規則のようなものによって形成される。
より正確には、「コンセンサスはすべてが明示されるわけではなく、
唯一不変であるわけでもない」といったところか。
真善美は集団性の同意語に他ならない。
同p.257
倫理判断は合理的行為ではなく、一種の信仰だ。
同p.259
「社会心理学講義」の記事に書いたディープラーニングと虚構の話は、
どちらかというと、虚構がないというよりは、人間以外によって作られた
虚構だけがあるということかもしれない。
ベルクソンが社会を「神々を生み出す装置」と言い、デュルケムが
「社会が象徴的に把握され、変貌したものが神に他ならない」と言ったように、
神ですら人間以外から与えられたものではない。
神の死によって成立した近代でも、社会秩序を根拠づける<外部>は
生み出され続ける。虚構のない世界に人間は生きられない。
同p.247
本書で<外部>と呼ばれているものを作り出すのが自分以外になった世界で、
人間は、あるいは意識は生き続けられるだろうか。
それは虚構がある世界なのだろうか、ない世界なのだろうか。
もしかしたら、その状況のことを「支配」と呼ぶのかもしれない。

2016-05-19

Google I/O 2016 keynote

Google I/O 2016のkeynoteを見ている。

Google Homeのデモ映像の未来感はわかるけど、
やはり音声入力というのはかなり冗長なインプットメソッドだ。
それは良い面もあるし悪い面もある。
一人暮らしで使うとなると気が滅入りそうだな、という感想を
もったのが正直なところだ。
でも、「すべてがFになる」に出てきたデボラのようなものが
個人レベルで使えるようになるのはいいかもなー。
「OK, Google」とか「Hi, Google」だけじゃなくて、名前が
付けられたらいいのにと思った。

このまま最後まで見てしまいそうだ。

2016-05-18

五輪開催権

2020年の東京五輪開催権が剥奪になるかもという話が出ているらしい。どこまで本気なのかよくわからない。

正直なところ、建築業界全体としては先細りになり始めて久しい。そこに、東日本大震災があり、東京五輪招致があったことで、建設機会が一時的に増加し、謎の好況が発生しているのが現状だと感じている。数年前はゼネコン各社とも儲かる仕事で床が埋まっており、公共建築が不調に終わる事態が続出していた。

仮に五輪開催権が剥奪された場合、現在建設中あるいは建設予定の五輪用施設は竣工するだろうか。あるいは、既に建っているものも含めて、五輪に期待していた収入がゼロになって採算が合うだろうか。ゼネコンも今回の施工費はもらえるだろうが、施主の経済的な体力が弱ると次の工事を発注してもらえないことになる。

アトリエ事務所の仕事はどちらかというとそういう状況の影響を受けにくく、工事費をふっかけられなくなるというよい面もあるが、業界全体の元気がない状態というのは仕事がしづらいだろう。

こういう状況が、2020年の数年後には訪れるだろうと思っていたが、予定を前倒ししてやってくることになりかねない。

成長曲線が狭義の単調増加であることを期待するのは、資本主義の最大の弱点だと思う。これから数十年は、無理な成長戦略の下での格闘が続くのかもしれない。どの集団が一抜けするだろうか。それはどこぞの国家だろうか。それともミナス・ポリスのような団体だろうか。

2016-05-17

熊本地震被害調査速報会

土曜日に建築学会主催の熊本地震の速報会に参加してきた。

ニュースでは五十田先生のコメントが取り上げられているものが
多いが、ややずれたかたちで伝えようとしているあたり、まあ
こんなもんか、という感じである。

現行の設計体系では、二次設計において気象庁の震度で言うと
6強〜7程度の地震に対して倒壊しないことが求められる。
設計ルートによって計算の仕方は様々だが、どれも検討対象とする
地震動が一回分というのは同じだ。
今回の熊本地震のように、数日おきにレベル2の地震が立て続けに
起こるということは想定していない。

こういうことをもって、現行の設計体系の不備を指摘するのは
的外れだと思うが、やはり建築の構造設計の考え方が一般に
知られていないんだなというのは痛感する。
技術的な話にはエンジニアリング的な考え方が多分に含まれる。
リスクはゼロにはならないし、リスクを減らそうと思うとコストが
飛躍的に上がっていく。
そういった話を感情を爆発させずに冷静に対話することが必要である。

医者の世界はどうやってその辺りをこなしているんだろうか。
あちらはあちらで問題があるのかもしれないが、少なくとも建築に
比べると、ある治療方法にかかるリスクやコストを伝えた上で、
必要に応じてセカンドオピニオンも交えながら、患者が納得した状態で
医療行為に臨んでいるようなイメージがある。

建築の設計もそういった部分をもっと重視していく必要があるのではないか。
建築基準法では震度7クラスでは倒壊しないことが求められるが、
地震後に部分的な補修だけで使い続けたり、資産価値が残るような
状態に留めたりすることまでは求めていない。
そこまで求めようと思うと、構造体にかかるコストは増大していくから、
仕上げ等の構造体以外のグレードを落とすなり、建設費を増やすなり
する必要がある。
構造設計の考え方や、施主としてどういったレベルの構造体を求めるのか
といった話ができていれば、地震後に自宅に戻るのが安全なのかどうか
という判断はずっと容易になるだろう。

といった感じで、もう少し建築士と施主が対話をしましょうというのが
五十田先生の話の中で一番よかった所だと思ったが、それよりも
現行基準の甘さを指摘したり基準を厳しくすべきだという方が目立つような
伝え方が見られるのは残念だ。

こういう対話をするようになることで、建築士の立場も少しはよくなっていく
ような気もする。そもそも世の中の建築士で構造が専門でない人達は
ちゃんと一次設計と二次設計の思想がわかっているんだろうか。
まずはそこからか。

まあ、医者と違って一生に一回世話になるかどうかという職業だから、
建築士側も施主側も何となく専門的なことは曖昧なままに任せておくという
状態が続いてしまっているが、もう少しなんとかしないとね。

2016-05-16

社会心理学講義

小坂井敏晶「社会心理学講義」を読んだ。
有限性の後で」のp.s.に書いたが、書籍部で手に入れた
UP4月号に掲載された連載を読んで氏に興味をもった。
よい考えに出会えたと思う。


少ない言葉で要約するのがとても難しい本だが、
共感できる内容がいくつも出てくる。
そのうちのいくつかはここ最近考えていたことでもあるし、
また他のいくつかは自分にとっては新鮮であった。
〈私〉とは社会心理現象であり、社会環境の中で脳が不断に
繰り返す虚構生成プロセスです。
小坂井敏晶「社会心理学講義」p.106
自由意志は責任のための必要条件ではなく、逆に、因果論的な
枠組みで責任を把握する結果、論理的に要請される社会的虚構
に他ならない。
(中略)人間は責任を負う必要があるから、その結果、自分を自由
だと思い込むのだ。
同p.126
悪い行為だから非難されるのではない。我々が非難する行為が
悪と呼ばれるのです。
同p.129
科学的真理とは科学者共同体のコンセンサスにすぎない。
同p.133
意志が行動を決めると我々は感じますが、実は因果関係が逆です。
外界の力により行動が引き起こされ、その後に、発露した行動に
合致する意志が形成される。
(中略)つまり人間は合理的動物ではなく、合理化する動物である。
同p.162
正しい社会ほど恐ろしいものはありません。社会秩序の原理が完全に
透明化した社会は理想郷どころか、人間には住めない地獄の世界です。
同p.216
正しい答えが一つしかないと信じるからこそ、(中略)安定した規範が
生まれるのです。
同p.236
犯罪と創造は多様性の同義語であり、一枚の硬貨の表裏のようなものです。
同p.269
犯罪のない社会とは理想郷どころか、(中略)人間の精神が完全に圧殺される
世界に他ならない。
同p.270
失業者の存在は資本主義経済の論理的帰結です。
同p.272
システムを壊す要因がシステム内部から生まれてくるだけでなく、システムの
論理構造自体にすでに組み込まれている。普遍的価値は存在しない。
開放系として社会を把握するとは、こういう意味です。
同p.276
人や物に対して、これは友人だとか、あれは机だとかいった判断をする際に
我々を支えている確信は、そのような解析的方法からは決して生まれない。
単なるデータの集積と合理的判定を超えた何か、宗教体験に通じるような
質的飛躍がここにあります。
同p.279
対象の異なる状態を観察者が不断に同一化する。これが同一性の正体です。
同p.320
集団を実体化するから、同一性の変化などという、表現自体が形容矛盾に
陥ったような状況の前で右往左往するのです。発想を転換しましょう。
世界は同一性や連続性によって支えられるのではない。反対に、断続的な
現象群の絶え間ない生成・消滅が世界を満たしている。虚構の物語を無意識に
作成し、断続的現象群を常に同一化する運動がなければ、連続的な様相は
我々の前には現れません。
同p.323
世界が同一構造の繰り返しだから比喩が有効なのではない。人間の思考パタン、
世界を理解するためのカテゴリーが限られているからです。
同p.346
最終的根拠は論理的演繹によっては成立しない。根拠は社会心理現象です。
同p.366
「虚構」という表現がよく用いられているが、まさにこの「虚構」をつくることによってしか、
社会を形成し得ないし、そもそも意識すら成立しない。
「虚構」をつくるだけの余力が脳にできたから意識ができたのだろうか。
それとも、「虚構」は必要とされてできあがり、それに合わせて脳が増大したのだろうか。
人間は他の動物に比べると弱く、高度に集団化することでしか生き残れなかったのかも
しれない。その集団形成の中で、不断の同一化が起こり、意識や社会が生まれたというのは
ありうる説明だと感じられる。
こういう説明を欲するのもまた人間らしさの一つだ。

p.279から引用した内容はディープラーニングにも通じるところがあるように思う。
ディープラーニングが一つのブレイクスルーたり得たのは、それが人間にとっての合理性の
説明を敢えて捨て去ったからだ。それによって、ここで言われているような「確信」の
レベルでの判断が可能になる。
結果として得られるものは、ある部分では虚構を含んでいないがために、人間が拒否反応を
示す場合もあるだろうが、それは多分、人間の無意識的な虚構への慣れのせいだとも思う。

p.320、p.323、p.346からの引用は、何を同一とみなすかが認識の、ひいてはそれぞれの意識の
特徴のキーになるというイメージに通じる。

こういう本を読む度に、伊藤計劃の射程の遠さが感じられる。
ハーモニー」で、意識という虚構を後天的に獲得したミァハが、老人たちにスイッチを
押させることで虚構生成プロセスを終了させる。その後に成立する「合理的な社会」は
もはや今でいうところの社会ではなく、虚構性は持ち合わせていないだろう。

p.s.
序においてポアンカレの「科学と仮説」が引用されているが、引用箇所が
ちょうど「事実の集積が〜」のところであった。結構有名な言葉らしい。

2016-05-11

充足的視覚空間

ポアンカレの「科学と仮説」の第四章「空間と幾何学」において、
「充足的視覚空間」という言葉が出てくる。
視覚が二つの次元の概念を生じさせ、筋肉感覚が第三次元を
生じさせるという。

二つの網膜により、ずれた二次元の像を観測することで三次元を
獲得しており、それは感管の教育によることから、光が複雑に
屈折するような媒質中を通過した光に慣れていれば四次元の
充足的視覚空間を獲得するという例は大変興味深い。

もし二次元の網膜が三つあったら四次元を観測可能だろうか。
これは、独立なベクトルの数は空間の次元より大きくはならない
ことから、偽かもしれない。
あるいは、一つの網膜だけでも、上記のように時間的な位相が
ずれた像を観測できれば、空間二次元+時間一次元の三次元空間を
得られるだろうか。

そんな世界も見てみたい。
後者であれば、おそらくVRで再現可能だろう。

そういえば、ライオン等のように両目が近い動物では、空間の把握の
仕方は自然と人間に似てくると思うが、シマウマ等のように両目が遠く、
視野の共通部分が少ない動物ではどうなんだろうか。

科学と仮説

アンリ・ポアンカレの「科学と仮説」を読んだ。

誰から聞いたのか覚えていないのだが、アンリ・ポアンカレには最後のユニバーサリスト(多くの学問に通じていた人物)というイメージがついている。おそらく高校時代の数学教師にサイバーグ・ウィッテン理論を習ったときだ。

この書で最も強調されているのは、科学とは充足理由律に基づいたモデル化であり、それ以上でもそれ以下でもない、ということだ。

実験物理学と数理物理学の関係を述べた第九章で、
事実の集積が科学でないことは、石の集積が家でないのと同様である。
ポアンカレ「科学と仮説」p.171
と述べているのがとても気に入った。

経験それ自体は高次元空間に分布する。しかし、充足理由律により、その分布はある低次元の多様体上に分布することが期待される。元の高次元空間を眺めているだけでは石を積んでいるだけである。その次元はあまりに高く、石はいつまで積んでもかまくらにすらならないが、低次元の多様体を見出し、積み方を心得ることで、大伽藍は可能になるのだ。

それにしても驚くのはポアンカレの先見性だ。初版の1902年は相対性理論も量子力学も確立される以前である。当然、ラーモアやローレンツによるローレンツ変換やプランクによる量子仮説の影響により、これらができつつある壌土は整いつつあっただろうし、数回の改定の中で修正されたものもあるのかもしれないが、20世紀物理学の2大理論を予見する内容を、その世紀の初頭に書ける人間がどれだけいるだろうか。
数学的理論は事物の本性を我々に解き示すことを目的とするものではない、(中略)そのただ一つの目的は実験が我々に知らせる物理法則に座標を与えることである。しかし数学の助けがなければ、我々はその法則を述べることさえできないであろう。
同p.241
という言葉に続き、
  • エーテルの実在性は物理学の関知する範囲ではなく哲学者の畑であること
  • (当時の)物理学にとってはエーテルの存在を仮定するのが便利であること
  • エーテルが放棄される日がもちろんいつかくること
を述べた上で、それでもなお、科学はあるモデル化に過ぎないということのおかげで、エーテルを仮定していた時代の科学が(少なくとも第一次近似としては)真であり、有用であり続けるとしているのは、相対性理論が確立された現代から見て鮮やかである。

さて、「有限性の後で」においてメイヤスーは数学が祖先以前性を記述する能力について触れていた。このあたりは、第一章で数学的帰納法を例にとった数学の無限性に触れているところと関わりがあるのではないかと思う。メイヤスーはどこかでポアンカレの思想について言及しているだろうか。残念ながらフランス語はわからない。