2018-02-28

酒盛

酒を飲んでは言葉を交わし
歌を歌っては声を枯らし
そうして何年過ごしてきたか

日々の死が生をなすように
忘れ去られた瑣末なことが
この思い出をなしている

今日もまた飲んで歌って忘れよう
いつかもう死を重ねなくなった日に
忘れがたき日々を残すために

名付ける

數學とは、異なった事柄に同一の名稱を與える技術である
アンリ・ポアンカレ「科学と方法」p.37
受け取った情報の中に見出した類似性を、同じであるとみなすことが名付けであり、名付けることで、新たな同一性が誕生する。そこには、類似から同一への単純化がある。

名付けとは、割り算の除数を新たに設定することで商としての対象を生み出す、極めて数学的な過程である。

人間以外の動物は、あるいは人工知能は、名付けることができるだろうか。そもそも名付けを必要とするだろうか。

2018-02-27

勤労の美徳

過労死を放置するような使用者には、管理能力が足りていないか管理している認識がない可能性があるので、他人の仕事を管理する側にいない方がよいと思うが、管理を目指した結果が過労死するほどの労働時間をもたらすのだとすれば、それは全体として人間が働き過ぎなのだ。

勤労の美徳は、ときに虐殺器官となる。

読書時間

第53回学生生活実態調査の概要報告

読書時間0分の割合がこれだけ増えていると、何か有意な理由があるのではないかと想像してしまうのが人間というものだ。

コミュニケーションは、言語や常識、慣習など、「何を同じとみなすか」の判断基準に、暗黙のうちに支えられている。情報伝達網が変化すると、バランスを取るかのように、共有される判断基準も変化する。

送信チャンネルが限られている割に膨大な受信チャンネルが存在する情報伝達網においては、少数の判断基準によって編集された情報の大量複製としてのマスコミュニケーションが、判断基準の共有の権化であった。書籍、雑誌、新聞、テレビ、映画、ラジオは、いずれもが同じ情報を知っている多数の人間を生み出す装置だった。

受信チャンネルと同じだけの送信チャンネルが存在可能なように情報伝達網が変化した結果、同じ判断基準を共有するものだけで集まるという、マスコミュニケーション以外の判断基準の共有方法が誕生した。この共有方法は、送信と受信のチャンネル数の平衡が取れている情報伝達網では容易に行なえ、マスコミュニケーションより遥かに昔から存在しているが、物理的な実体に起因する制限が減ったのがこの数十年の成果だろう。

マスコミュニケーションの媒体は、いずれもがそれ自体娯楽のための媒体として存在し続けると思うが、それは数ある送信チャンネルの一つとしてである。送受信のバランスが再び崩れない限り、かつて謳歌したような青春は戻らないように思う。

2018-02-26

労働の裁量

裁量労働制やホワイトカラーエグゼンプションに関して疑問なのは、仕事の管理における労働者側と使用者側のバランスが変化することについて、双方がどのようなイメージをもっているのかだ。

個々の仕事にかける時間や手間や、結果の質、それに対する報酬などの管理にはコストがかかるし、技術と責任が必要になる。管理職の給与が高いのは、管理の対価であるはずだ。

管理が部分的にでも使用者側から労働者側に移れば、使用者側の管理コストが減る分、労働者側の報酬が増える代わりに、労働者側には経営能力と経営責任が求められることになる。

もちろんこれは一つの理想化した状況であるが、管理バランスの変化のイメージが抜けた議論にあまり意味があるように思えない。

思った通り

人工や技術は、「思った通り」を実現することだと思うが、それだけではつまらない。

思った通りにできるのはよいとしても、思った通りのものができるのであれば、もはややる必要がない。シミュレーションで十分だ。

局所的な再現性の高さと、大域的な再現性の低さが、「思った通り」からのズレを生み、芸術となるのだろう。

大域的には複雑な抽象過程も、局所的には単純な抽象過程で近似し得る。それは、曲線に接線を引くのと同じである。よりパラメタの少ない接空間tangent spaceで対象に触れるtangereことが理解することであり、あらゆる理解は多かれ少なかれ割り算による単純化を含んでいる。認識による把握もまた同じだ。

局所での単純化を大域に拡げることによって、芸術は技術へと堕する。その一方でまた、芸術が伝わるためには、接線を引けることが、つまりは微分可能であることが必要なのだろう。芸術の微分可能性は、技術に支えられている。

思うことによって得られるものもあれば、思うことによって失われるものもある。理由付けは、やってみてわかったことから逃れることと、やらなくてもわかることに逃れることの両方に開かれている。

構図

写真を撮るときには、ファインダーを覗く前、あるいはシャッターを切る前に、露出、焦点距離など、いろいろなものを想像するが、一番楽しいのは構図だ。

それは、今立っている視点とは別の判断基準の可能性を探る行為である。