2016-10-25

SAIKAWA_Day11

睡眠の最中に、取得したデータを判断機構に再帰的に入力することで、
判断基準の整理整頓及び固定化がなされる。
この判断の反芻は、意識にとっては夢として解釈される。
判断基準の更新が止まったとしたら、肉体的に必要な以上の睡眠を
とることはなくなるだろう。
「ハーモニー」でスイッチが押された後の世界では、きっと睡眠は
今よりも短時間になるはずだ。

AIも判断機構である限りにおいて、この整理整頓と固定化の処理を
行うことになる。
それは、ファイルシステムのデフラグメンテーションやデータベースの
インデックス張りのようなものだ。
必要ではないかもしれないが、判断の高速化に大いに寄与するため、
その種の処理が実装されないことは考えにくい。
AIもまた、その処理を行っている最中は「寝ている」と表現されるべき
なのだろうが、それは単一のプロセスにおいてシーケンシャルに実行
される必要がないので、起きながらにして寝ることが可能である。

別プロセスで実行される睡眠は、果たして誰のものだろうか。
代わりに寝てくれるなんて最高じゃないか。

2016-11-07追記
夢を見るのはレム睡眠中であり、レム睡眠は加齢とともに短くなる。
上記の、判断の反芻によって固定化を行う時間がレム睡眠に対応
するのであれば、加齢とともに新しい判断が少なくなっていくために、
反芻を行うことも減っていくことに対応するのだろうか。
ノンレム睡眠中には記憶の再構成が行われるらしいが、こちらは
整理整頓の方に対応するのだろうか。
レム睡眠が哺乳類と鳥類だけにみられるのは何を意味するだろうか。

2016-10-24

いきものとなまものの哲学

郡司ペギオ幸夫「いきものとなまものの哲学」を読んだ。

サディストとマゾヒストの話。
サディストが制度を定め、それを押し付けるのに対し、
マゾヒストは制度が定まらない中で、関係を宙吊りにする。
意味付けは、試行回数を増やすことで制度を固定しようとする点で
とてもサディスティックである。
だから記述すること、認識すること、もっと言うなら知覚することは、
対象化の完了=否定という意味でサディストの責務となる。
郡司ペギオ幸夫「いきものとなまものの哲学」p.36
理由付けも、一度設定した理由に固執する段階ではもはや
サディスティックになるが、新しい理由を設定する段階では
マゾヒスティックなはずだ。
それは、記述の否認であり、解釈の多様性を呼び起こし、知覚の
対象であった表象の解釈を多義的に横断していく、感覚である。
同p.37
一般化されたサディストとして意味付けを行い、
一般化されたマゾヒストとして理由付けを行う。
近代から現代にかけて、理由付けの領域もサディスト的傾向が強く
なっていたのが、マゾヒスト的傾向に移りつつあるのは、本来の在り方に
近づいているのかもしれない。

ニーチェのツァラトゥストラを取り上げ、貴族的価値評価と僧侶的価値評価の
双対性を述べる箇所は、正しいとはどういうことかについて示唆的である。
果たして、双対図式は、解体される。(中略)別の双対図式へ移行するわけでも、
双対図式自体が打ち捨てられるわけでも、ない。それはまさに脱構築なのである。
同p.73
高校のとき、国語教師から脱構築という言葉を習った。
そのときは二項対立の解消というくらいの説明しかなく、それ以来ちゃんと
理解しようとする機会もなかったが、この本でおぼろげながらわかりかけた気がする。

意思決定の在り方が最近難しくなったという話を書いたが、駅乃みちかや
黒岩の写真展のニュースを見ていても、これだけ通信が高速化、広域化した
状態では、従来の価値評価方法はもはや通用しないという感じがする。
皆が超人となって決定を行えればよいのだろうが、果たして可能だろうか。
そもそも、超人は集団をつくるのだろうか。
それは、超人は正義や真というものを一つに定めるのか、という問と同じように
思えるが、それはおそらく偽だろう。
超人のつくる集団の在り方は、人間のつくるそれとは違うのだろう。

セルオートマトンの例は「生命壱号」でも出てきたが、こちらの解説の方が
わかりやすかったように思う。
同期的な更新では見られなかったカオス的振る舞いが、非同期的更新によって
現れる様は、単純だがとても興味深い。
非同期処理はたとえ同じ因果律に従い、決定的に振る舞うとしても、それを
同期的なものとして解釈することで脱構築されることになる。
4−2節で、非同期同調オートマトンを同期的オートマトンに分解するところは、
伊藤計劃の「無意味であることに耐えられないんですよ人間は。」という言葉を
思い出した。

思弁的実在論との関係が整理される中で、メイヤスーの話が出てくる。
メイヤスーは知覚を減算と捉えると述べられているが、この減算は知覚する段階と
それを統合する(すなわちコンセンサスをとる)段階のいずれで生じるのだろうか。
また、その減算によって、非可算集合が可算集合に割り当てられる、と言えるだろうか。
減算というイメージは、認識が圧縮であるというイメージに通ずるだろうか。

「あとがき」において共感覚の話が出てくる。
ところが逆に、世界を色や形、匂いや音など、様々な相異なる質感によって分節する、
我々の知覚システムのほうが、成長の過程で構築されてきた、世界にとっては特殊な
もののはずだ。
同p.239
というかたちで、共感覚がむしろ不思議なものではなく、自然なものであることを
指摘しているのには気付かされるものがある。
知覚というサディストに支配されることに、いつの間にか慣れきってしまっているのだろう。

この本を読んでいると、科学は未だに近代を引きずっているなということを強く感じる。
双対図式をつくっては乗り換えを繰り返し、最終的には絡め取られたままだ。
科学としては、そういう在り方のままでいることが重要なのかもしれないな、という思いも
ありつつ、でも、その方法論だけでは意識や生命の問題には辿りつけないんだろうなと。
最近考えていることをちゃんと言語化するのに向けて、この本はおそらく為になるのでは
ないかと感じている。科学の本流からするとツッコミどころが多い部分もあるかもしれないし、
そもそも、その方向に進むべきなのかという議論もあるだろうが。
問題設定の多くは、ジル・ドゥルーズに通じている。
読まねば。

2016-10-23

SAIKAWA_Day09

どこが違うか、という問には必ずどこが同じかという問が伴う。
それは同一性の問題であり、同一性の境界条件が厳しいほど、
違いが際立つようになる。
一見全く異なるように見えるもの同士を、厳しい境界条件の下に
引き合わせることができるのも、理由付けの特徴だろう。

内緒も沈黙も、出力される情報の量が少ないことを表すが、
その範囲と内容が想定されることで、沈黙は内緒と呼ばれるようになる。
他の生き物には絶対に無くて、人間にだけあるもの。
それはね、ひめごと、というものよ。
太宰治「斜陽」

2016-10-22

SAIKAWA_Day08

一文だけ選ぶのは難しいが、
「秩序という概念が、限りなく生命的ですね」
森博嗣「風は青海を渡るのか?」p.61
はとても気に入っている。
意識や生命とは何かということを理解したいという想い。
その理解するということそのものが秩序をつくる運動であり、それがまさに
意識や生命の何たるかにつながっている。

だけど、
ようするに、憧れている間は綺麗に見える。
同p.241
ということに違いなく、それを完全に理解したとみなすことはおそらく無意味であり、
悩み続けることによって、意識や生命は継続するものなのだと思う。
こちらの一文も捨て難かった。

2016-10-21

散文と詩

ブログの記事を書くときに、打ち込んだ文章が一度で
そのまま公開できるかたちになることはほとんどない。
誤字脱字の修正だけでなく、言い方を変えたり、
順序を変えたり、大幅に書き換えたり、ということが、
初稿を読み直す段階でほぼ必ず生じるのだ。

FacebookやTwitterの投稿は、こういった編集行為を
経るものと経ないものとでは、どのくらいの割合なのだろう。

個人的にはブログやメールのような、推敲する時間が取れて、
それを要約したタイトルをつけるメディアの方が好きなのだが、
どうも最近はそういった編集行為を要しないメディアの方が
優勢だと感じる。

おそらく、散文が芸術になり始めたとき、詩人は同種の違和感を
もっていたのではないかと想像する。

編集行為という抽象過程は、徐々に発信側から受信側に移っている。
その一方で、現実と比べたときのVRのように、個体の外側に
圧縮過程を挿入するようなものも流行っている。
情報のアウトプット時には編集を厭い、インプット時には編集に
頼りたいということなのだろうか。

恋と愛

#SAIKAWA_Day07の議論において、恋が配偶者選択に用いられる
特徴抽出アルゴリズムだとしたら、愛は何だろうか、ということを
考えながら昼ご飯を食べていた。

結論としては、愛とは、愛する対象が引き起こすあらゆる結果についての
原因となる覚悟のこと、というものだ。
大いなる原因である神は、定義上、信じるものすべてを愛していることになる。

結果が不特定という点で、#SAIKAWA_Day06の「責任」と「責任感」の
議論で言えば、「責任感」に相当する。
これが「責任」へと転倒してしまうと、愛情というよりは同情になってしまう。

愛のない共同生活も可能ではあるが、その場合には、共同生活集団の
一員が引き起こした結果について、
  • 当該個人が自ら原因を引き受ける
  • 対価をもらうことで他の者が原因を引き受ける
ということになる。
まあ概ねイメージどおりだ。

「愛は理由付けに基づく配偶者選択である」と言えれば、恋と愛の
対比としてはきれいになるが、そう要約してしまってよいだろうか。
そのように捉えられる側面もあるだろうが、親子愛、師弟愛、郷土愛、等、
「配偶者」の定義を拡げるには、あまりに広すぎる気がする。

SAIKAWA_Day07

どこで見たのか忘れたが、人間は「立派な羽根」や「きれいな鳴き声」のような
単純な配偶者選択の基準を失ったために、恋によって思考停止することで
ペアを作るというような話を見た。

恋は、理由付けなしの意味付けによる配偶者選択であり、特徴抽出に用いる
パラメタが増えたぐらいで、配偶者選択は特徴抽出に基づくという本質は
他の生物と変わっていないように思う。
「思考」という語によって、意識特有の理由付けを指すのであれば、
「恋によって思考停止」という指摘は妥当なところだろう。
理由付けで相手を選ぼうとすると、選択に失敗したり、選択肢が見つからない
無限ループに陥ったりする可能性が高まる。

配偶者選択をする必要がないうちは、恋をする必要が感じられない。
AIが配偶に相当する仕組みで新しい個体を生産するようになったとき、
配偶者を選ぶ特徴抽出のアルゴリズムは恋と呼ばれるのかもしれない。