2019-05-01

統計思考の世界

三中信宏「統計思考の世界」を読んだ。

統計的手法というのは、人間がすべてを理由付けによって把握するにはあまりに大量なデータを、何とか理由を保持しながら扱うためのものだと思う。
An At a NOA 2017-05-05 “統計
大量のバラバラなデータのうち、それとなく揃っている部分を一つの塊とみなすことで、データサイズが小さくなり、データ処理にかかるコストは減少する。これはデータ圧縮の過程である。適切な圧縮ができれば処理能力の向上につながる一方で、不適切な圧縮をしてしまえば処理自体が破綻する。処理の破綻を可能な限り免れ続けるには、データの変化に合わせて圧縮方法の適切性を常に検証し、必要に応じて別の圧縮方法を試し続ける他ない。

この一連の試行錯誤はつまり「何をsignとするか」についての試行錯誤である。人間というのは、何かを見たり聞いたりする知覚のレベルでの「自然な」signだけでなく、言語、宗教、科学など、様々なかたちで結実している「不自然な=人工の」signによる圧縮を、半ば投機的に試みることで、他の存在に対する相対的な処理能力を向上させてきたのだと思われる。その様を伊藤計劃は「人間は無意味に耐えられない」と表現した。

不用意に行われればバグのようなものになるであろう投機的な圧縮に、「理由」を付けることで暫定的な適切性の検証とし、その成功率を上げるというのが、思考や意識と呼ばれるものの特徴なのだと思う。統計学は、「これをsignにすることができる」という意味でのsignificanceに理由を与える試みである点で、まさに意識的な分野である。

そのまま把握するにはあまりに膨大なデータである世界というものを「理解=理由付けて圧縮」するにあたり、数式もグラフも駆使しながら、どのようにして圧縮や理由付けできるのか、あるいはすべきかについて試行錯誤するプロセスである統計思考。その面白さの伝わってくる本であった。

2019-04-30

映画と漫画

映画と漫画の共通点は、時間と空間のコラージュにあるように思う。

いわゆるコラージュは、20世紀初頭のパピエ・コレに由来する絵画技法のことであるが、既存の秩序ではバラバラであったものを新たに組み合わせ、別の秩序をつくるという点では、およそすべての芸術は広義のコラージュである。

映画は時間的な配置によって空間をつくり出し、漫画は空間的な配置によって時間をつくり出す、という違いはあるかもしれない。

自明

ある判断をするにあたり、判断基準が既に一致しており、その基準を採用することについて、別段の意識的な理由付けが必要とされない状態のことを、自明trivialと言う。

自明性の採用は部分的な思考停止であり、それによって、当該自明性に支えられた別の思考を展開することが可能になる。一方で、自明性には、どの集団や状況にとって自明なのかという問題が常につきまとう。

自明性によって思考に埋め込まれるバイアスは、思考にとって、指針であると同時に制限でもあるということだ。ハードウェアとソフトウェア、通信可能性と応答可能性の話と同じである。

2019-04-19

宇宙の暗黒問題

日経サイエンス2019年5月号の特集「宇宙の暗黒問題」を読んだ。

元々もっている物理的身体の範囲を大きく超えて広がる観測事実の集合を基にして、整合的な説明を与える閉じたモデルを構築する試みには、意識らしさが現れていて好きだ。

スワンプランド予想、暗黒物質理論、修正重力理論のいずれにしろ、自らのいる宇宙なるものを理解したいという衝動に後押しされており、そこに意識特有の傾向があるように思う。

暗黒エネルギーや暗黒物質は、周転円やエカントと同じ運命を辿るだろうか。そもそも宇宙universeはuniなのか。

オッカムの剃刀を振るわないといけないという考えもまた、それはそれで一つの信念に過ぎない。

p.s.
そう言えば、「宇宙が膨張する」という文脈において、距離概念はどういう扱いになっているのだろう。
暗黒物質の影響として想定されている現象を、距離空間の変化として説明することは、つまりは修正重力理論と同じということになるだろうか。

古典的、あまりに古典的

ノートルダム高額寄付に怒り

独楽の回転と停止。
回した独楽が安定した回転運動を始めた後で、それが停まる前に手を加えるのはためらわれる。長く続いてきたものを是とするのは、生存戦略としては妥当であるとする態度だ。

古典的classicとは、分類体系classificationを維持しようとする傾向のことである。ホメオスタシス、固定化、収束と同類であり、行き過ぎればアリジゴクの中心へと壊死する。

宗教的、政治的、経済的な上層階級同士が互いの階級秩序を支え合う様に映ることで、いずれの階級制度においても下層に分類される集団から反発を受けているという点で、ノートルダムへの高額寄付への反発の一件は、かつてこれら3つの階級制度が一体のものだった時代と同じことの繰り返しに見える。

秩序的であることを維持することは、特定の秩序体系を維持することとは別のことである。後者に固執することで壊死した集団が革命revolutionによって刷新されても、結局は同じところに戻ってくるのは、あまりに人間的な、というよりも、あまりに生命的な現象なのだろうか。

2019-04-16

対称性人類学

中沢新一「対称性人類学」を読んだ。

対称性論理と非対称性論理という区別は、抽象過程における同一視の基準の変化の緩急の違いに対応しているのだと思われる。

非対称性論理では、同一視の基準を固定化し、抽象の仕方を不変・普遍なものにすることが目指されるのに対し、対称性論理においては、場面に応じて基準が変化する。ただし、対称性論理においても、基準が全くランダムに変化してしまえば、「対称性論理」という一つのものとして維持されないため、許容される変化の仕方にも、何らかの傾向が現れざるを得ない。宗教、神話、科学、意識、無意識、などとして概念化されるのは、その傾向である。

結局、対称性論理と非対称性論理の区別も、「どのような同一視の基準の変化の仕方を是とするか」という同一視の基準に基づく抽象化の現れである。「非対称性」や「形而上学」として批判されているのは、「同型」であることの基準を一途に固定化しようとする傾向であり、何らかの基準に基づいて同一視すること自体は避け難いように思う。それは、何かを認識したり、理解したりすることそのものである。

2019-04-14

ニッポン制服百年史

弥生美術館で「ニッポン制服百年史」を観てきた。

似通ったもののうち、特定のものにだけ目印がつくことで、新しい集合が形成される。ここには構造と装飾の関係が現れているように思う。差異の導入によって、既存の同質性が解消され、別の同質性が生じるとき、導入された差異は装飾、元の同質性の基準は構造と呼ばれる。装飾だったものは次第に構造となり、いつかまた次の装飾が現れるまで、同質性は維持される。それはあたかも生命のようである。

軍服というコンテクストは捨象され、和装の文化、経済的な都合、耐久性の条件などを反映しながら「制服」というカテゴリが形成される。同質なものとして固定化しつつある一方で、タータンチェックやコギャルファッションなどの逸脱が時折装飾として導入され、その時々の通信媒体によって伝搬されながら、空間を超えて新しい同質性を形成していく。流行っては廃れる過程の中で淘汰された同質性も、このような展覧会を通して、時間を超えて束の間でも生き返るだろう。

一つのuni+かたちformを志向しながらも、固定化した一に留まることなく、また、いたずらに瓦解してしまうこともなく、常に変容しながら存続していく「制服」は、とても生命的な文化だと思う。