ハラスメントとは、判断基準の押し付けである。
一方で、コミュニケーションが可能になるためには、常識、慣習、言語、文化といった、何らかの判断基準を共有することが不可欠であり、広い意味での教育は、常に判断基準の押し付けと隣り合わせでもある。
集団は、ハラスメントを指摘することで壊死を免れ、教育することで瓦解を免れるというバランスの上で維持される。
教育とハラスメントの境界線は常に変動しており、それを固定すること自体が一種のハラスメントになってしまうだろう。
2018-04-28
2018-04-17
偏見
@
13:34
Text Embedding Models Contain Bias. Here's Why That Matters.
判断が一貫性をもつ限り、それは何らかの意味での偏見だと言える。「これは偏見である」という判断が一貫性をもつのであれば、それもまた偏見となるので、「偏見とは一貫性のある判断のことである」というのも偏見だ。
偏見に対する批判には、「その偏見は多数派の偏見と異なるからダメだ」と要約できるものも多いが、偏見であることに問題があるとすれば、一貫性は固定化につながりやすく、固定化した判断基準は忘れられがちだという点だと思う。この問題意識も、固定化することはよくないことだという判断基準に基づいているが、公理のない数学が存在しないのと同じように、どこかの段階では自分なりの偏見をもつしかないので、その偏見の裏にある判断基準を忘れないようにすることで、別の偏見があり得ることを憶えておくしかないのだと思う。
記事の中で出てくる「unwanted」という評価もまた一つの偏見であるから、何を「unwanted」としているのかという偏見を常に意識できるようでありたい。unwanted biasを取り除いた気になってそれを怠ると、本当にbiasが埋め込まれることになるのだろう。biasが埋め込まれた判断機構は、物理的身体に備わったセンサと同じく、ソフトウェアでなくハードウェアである。可視光線しか見えなかったり、人の顔が人の顔に見えたりすることを通常は偏見と言わないのと同じように、biasが埋め込まれたハードウェアによる判断は偏見と言われなくなるはずだ。
全ての判断をハードウェアで処理するべきという偏見が多数派になったら、意識なんてものは判断の一貫性をかき乱すバグでしかなくなるだろう。
判断が一貫性をもつ限り、それは何らかの意味での偏見だと言える。「これは偏見である」という判断が一貫性をもつのであれば、それもまた偏見となるので、「偏見とは一貫性のある判断のことである」というのも偏見だ。
偏見に対する批判には、「その偏見は多数派の偏見と異なるからダメだ」と要約できるものも多いが、偏見であることに問題があるとすれば、一貫性は固定化につながりやすく、固定化した判断基準は忘れられがちだという点だと思う。この問題意識も、固定化することはよくないことだという判断基準に基づいているが、公理のない数学が存在しないのと同じように、どこかの段階では自分なりの偏見をもつしかないので、その偏見の裏にある判断基準を忘れないようにすることで、別の偏見があり得ることを憶えておくしかないのだと思う。
記事の中で出てくる「unwanted」という評価もまた一つの偏見であるから、何を「unwanted」としているのかという偏見を常に意識できるようでありたい。unwanted biasを取り除いた気になってそれを怠ると、本当にbiasが埋め込まれることになるのだろう。biasが埋め込まれた判断機構は、物理的身体に備わったセンサと同じく、ソフトウェアでなくハードウェアである。可視光線しか見えなかったり、人の顔が人の顔に見えたりすることを通常は偏見と言わないのと同じように、biasが埋め込まれたハードウェアによる判断は偏見と言われなくなるはずだ。
全ての判断をハードウェアで処理するべきという偏見が多数派になったら、意識なんてものは判断の一貫性をかき乱すバグでしかなくなるだろう。
判断基準とは、受け取った情報に対する判断の履歴が作り出す、判断の偏りのことである。それは、これまでもこれからも変化するものであるはずだが、変化は忘却されやすい。
An At a NOA 2018-02-25 “世界は上手くできている”
2018-04-15
2018-04-13
ある島の可能性
ミシェル・ウェルベック「ある島の可能性」を読んだ。
DNAと人生記に書き込まれた情報からまったくの同一人物を複製し、生殖や発生の省略と〈至高のシスター〉という基準によって徹底的にエラーを排除することで、ネオ・ヒューマンは不死となる。
その不死性によって、ひたすらに壊死へと向かうネオ・ヒューマンに可能性の光明はなく、時間が媒介変数と化した「終わりのない静止状態」を生きる他ない。ネオ・ヒューマンは、「幼年期の終り」のオーバーロードと同じように、進化の袋小路に追い込まれている。
旧人類が夢に見て、ネオ・ヒューマンが辿り着けなかった、「時間の真ん中に存在する可能性の王国」に至れるものとして想定される未来人は、ネオ・ヒューマンの先には存在せず、まったく別のところから現れるのだろう。
DNAと人生記に書き込まれた情報からまったくの同一人物を複製し、生殖や発生の省略と〈至高のシスター〉という基準によって徹底的にエラーを排除することで、ネオ・ヒューマンは不死となる。
その不死性によって、ひたすらに壊死へと向かうネオ・ヒューマンに可能性の光明はなく、時間が媒介変数と化した「終わりのない静止状態」を生きる他ない。ネオ・ヒューマンは、「幼年期の終り」のオーバーロードと同じように、進化の袋小路に追い込まれている。
旧人類が夢に見て、ネオ・ヒューマンが辿り着けなかった、「時間の真ん中に存在する可能性の王国」に至れるものとして想定される未来人は、ネオ・ヒューマンの先には存在せず、まったく別のところから現れるのだろう。
2018-04-12
Looking to Listen
@
18:32
Looking to Listen: Audio-Visual Speech Separation
視覚と聴覚を組み合わせることで話し声を分離できるというのは、多様な情報の流れの中に何らかの一致を見出すことが、個を認識することにつながっていることを示唆しているようで興味深い。
センサの種類や数を増やすと、個の特定の精度は上がっていくが、精度を上げ過ぎると、人間が同一個体と判定する対象を別個体として判定するようになり、「精度の悪化」と表現されることになるだろう。精度の頭打ちを決めるのは、人間のセンサの仕様だ。
複数の情報の間での齟齬を察知して、個の同一性をチェックする仕組みも作れるだろう。「今日は風邪を引いているから聴覚情報がずれている」というように、理由付けによる一時的なパッチも当てられるようになるだろうか。その過程がブラックボックス化したものは、マガーク効果と同じであるように思う。
視覚と聴覚を組み合わせることで話し声を分離できるというのは、多様な情報の流れの中に何らかの一致を見出すことが、個を認識することにつながっていることを示唆しているようで興味深い。
センサの種類や数を増やすと、個の特定の精度は上がっていくが、精度を上げ過ぎると、人間が同一個体と判定する対象を別個体として判定するようになり、「精度の悪化」と表現されることになるだろう。精度の頭打ちを決めるのは、人間のセンサの仕様だ。
複数の情報の間での齟齬を察知して、個の同一性をチェックする仕組みも作れるだろう。「今日は風邪を引いているから聴覚情報がずれている」というように、理由付けによる一時的なパッチも当てられるようになるだろうか。その過程がブラックボックス化したものは、マガーク効果と同じであるように思う。
2018-04-11
資本主義リアリズム
マーク・フィッシャー「資本主義リアリズム」を読んだ。
資本という評価基準を、唯一かつ汎用なものにすることで、あらゆる秩序の更新過程を「消費consume」として抽象した資本主義は、その評価基準が当たり前のものとしてこびりつくことで、「この道しかない」ものになる。そのハードウェア化した資本主義が生み出すリアリティに対抗するには、リアルを暴き出す以外になく、著者は精神保健と官僚主義に着目する。
精神保険において、原因が政治的・社会的なものから化学的・生物的なものに変化していくように、責任を負い得る単位が個人へと収束していくと同時に、あらゆる仕組みが、官僚主義的に非人格化された構造として埋め込まれることで、原因となるべき「大いなる他者」には、ついぞ出会うことができない。
規律型から管理型へと移行し、脱中心化された社会では、もはや神も死んで久しく、「父親不在のパターナリズム」となっているにも関わらず、それでも「大いなる他者」という中心をみようとしてしまう。原因の追求を一点に集約するという、近代の一真教的な傾向を巧みに利用しつつ、その一点の先を雲散霧消することによって、抽象的な構造はますます強固なものとなり、資本主義リアリズムが強化される。
例えば、抽象的な構造を代表する中心としてAIを据えることで、表面上は構造を具体化できるかもしれないが、リアリズムへの陥りに対する有効な手段になるだろうか。
行為主体性を押し付ける対象が健康やAIなどになったとして、その状況がまた構造的に固定化してしまうのであれば、「新たな記憶をつくることができない」というリアリズムが何度も繰り返し到来するだけである。「ハーモニー」のような、主体性の解消という手段以外に、その状況を脱却する方法はあるだろうか。
資本という評価基準を、唯一かつ汎用なものにすることで、あらゆる秩序の更新過程を「消費consume」として抽象した資本主義は、その評価基準が当たり前のものとしてこびりつくことで、「この道しかない」ものになる。そのハードウェア化した資本主義が生み出すリアリティに対抗するには、リアルを暴き出す以外になく、著者は精神保健と官僚主義に着目する。
精神保険において、原因が政治的・社会的なものから化学的・生物的なものに変化していくように、責任を負い得る単位が個人へと収束していくと同時に、あらゆる仕組みが、官僚主義的に非人格化された構造として埋め込まれることで、原因となるべき「大いなる他者」には、ついぞ出会うことができない。
規律型から管理型へと移行し、脱中心化された社会では、もはや神も死んで久しく、「父親不在のパターナリズム」となっているにも関わらず、それでも「大いなる他者」という中心をみようとしてしまう。原因の追求を一点に集約するという、近代の一真教的な傾向を巧みに利用しつつ、その一点の先を雲散霧消することによって、抽象的な構造はますます強固なものとなり、資本主義リアリズムが強化される。
そこに中心はなくとも、私たちは中心を探さずにはいられないし、その存在を断定せずにはいられない。この中心を求める傾向は、一真教の後遺症だろうか。それとも、充足理由律という仮定に付随するものなのだろうか。もしこの傾向によって意識が互いを認識しているのだとしたら、意識と資本主義リアリズムは一蓮托生ということになる。
マーク・フィッシャー「資本主義リアリズム」p.164
例えば、抽象的な構造を代表する中心としてAIを据えることで、表面上は構造を具体化できるかもしれないが、リアリズムへの陥りに対する有効な手段になるだろうか。
行為主体性を押し付ける対象が健康やAIなどになったとして、その状況がまた構造的に固定化してしまうのであれば、「新たな記憶をつくることができない」というリアリズムが何度も繰り返し到来するだけである。「ハーモニー」のような、主体性の解消という手段以外に、その状況を脱却する方法はあるだろうか。
2018-04-10
consume
@
14:06
consumeの語源をたどると、"to destroy by separating into parts which cannot be reunited"に行き着く。
消費者とは、己の秩序を維持するために、別の秩序を解体するものであり、更新され続ける秩序のことを生命と呼ぶのであれば、あらゆる生命は何らかの意味での消費者であるはずだ。
消費対象の秩序の再生速度を超えた消費を行い、消費対象が少なくなったら次の消費対象を探すという行為は、歴史的に何度も繰り返されてきたように思う。資本主義によって新しくなったことと言えば、唯一で汎用な評価基準が生まれたことで、あらゆるものが潜在的な消費対象になったことだ。
一度消費対象になってしまったものは、消費し尽くされるまで消費対象であることをやめられない。選択肢は、緩やかな解体と急激な解体のいずれかだ。緩やかに解体される合間に別のものを解体するのが、つまり「生きている」ということであり、その過程をひっくるめて抽象化したのが資本主義だと言える。
漫画の海賊版サイトは、資本主義の制御された解体の循環に対する乱獲であり、消費の急激な高速化を食い止めるための対策が取られようとしている。その一方で、常に単調に増加するという資本主義の前提を崩さないために、正規とされる仕組みの中では、瓦解しない範囲で極限まで消費を高速化する。
人間は器用だなと思う。
消費者とは、己の秩序を維持するために、別の秩序を解体するものであり、更新され続ける秩序のことを生命と呼ぶのであれば、あらゆる生命は何らかの意味での消費者であるはずだ。
消費対象の秩序の再生速度を超えた消費を行い、消費対象が少なくなったら次の消費対象を探すという行為は、歴史的に何度も繰り返されてきたように思う。資本主義によって新しくなったことと言えば、唯一で汎用な評価基準が生まれたことで、あらゆるものが潜在的な消費対象になったことだ。
一度消費対象になってしまったものは、消費し尽くされるまで消費対象であることをやめられない。選択肢は、緩やかな解体と急激な解体のいずれかだ。緩やかに解体される合間に別のものを解体するのが、つまり「生きている」ということであり、その過程をひっくるめて抽象化したのが資本主義だと言える。
漫画の海賊版サイトは、資本主義の制御された解体の循環に対する乱獲であり、消費の急激な高速化を食い止めるための対策が取られようとしている。その一方で、常に単調に増加するという資本主義の前提を崩さないために、正規とされる仕組みの中では、瓦解しない範囲で極限まで消費を高速化する。
人間は器用だなと思う。
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