2017-06-07

管理社会と田舎

監視カメラが増加することで管理社会が訪れる、
みたいな話のときに想像されているのは、
ドゥルーズの言葉を借りれば、管理型ではなく
規律型であり、近代のイメージを引きずっている
ように思われる。

管理社会と呼ぶべきものは、日本の田舎だったり、
twitterやFacebookのようなかたちで実現している
ような、互いが互いの行動を見張ることで成立する
中心のない監視体制である。
それは次第に固定化していく運命にある。

創造するということは、これまでも常にコミュニケーション
とは異なる活動でした。そこで重要になってくるのは、
非=コミュニケーションの空洞や、断続器をつくりあげ、
管理からの逃走をこころみることだろうと思います。
ジル・ドゥルーズ「記号と事件」p.352
発散したノードは一時的にコミュニケーションの網から
弾き出される。
その弾き出されたノードを、上手く吸収して網に組み込み
直すことで、網の固定化を免れられれば、当該ノードだけ
でなく、網全体が管理から逃走できるようにも思われるが、
田舎にも都市にもそれはできていない。
それをめざすのが「観光客の哲学」だろうか。

2017-06-05

幼年期の終り

アーサー・C・クラーク「幼年期の終り」を読んだ。

文庫版で約400ページなのだが、3つも4つも小説を
読んだような感覚が残るくらい、ストーリィが
凝縮されている。

伊藤計劃「ハーモニー」とはまた別の仕方で、
人間が意識から解放される未来を描いているが、
むしろ興味深かったのは進化の袋小路に追い込まれた
存在として描かれたオーバーロードだ。
理由付けに拘泥することで人類よりも遥かに進んだ
科学を手に入れた一方で、〈全面突破〉の可能性を
失い、意識をなくしてオーバーマインドに吸収される
道が閉ざされたオーバーロードは、とても近代的な
存在である。
オーバーロードにとって、神は既に死んでいるかも
しれないが、それでも充足理由律に従って究極の理由を
追い求めた末に置かれたのがオーバーマインドであり、
それは神の代理とも言える。
オーバーロードや最後の地球人類ジャンだけでなく、
アーサー・C・クラークも読者も、充足理由律に囚われた
存在は皆、オーバーマインドというストーリィを必要とする。
オーバーマインドは理由の連鎖の果てにある不可視の大いなる
原因として、ただそこにあるだけだ。
理解しようとしてはいけない―ただあるがままを見守れば
いいのだ。
理解はその後に訪れるか、もしくはまったく訪れないかだ。
アーサー・C・クラーク「幼年期の終り」p.362

ニーチェが神の死を宣言した後でも、充足理由律を棄却しない
限り、大いなる原因の座には科学における真理や道徳における
人間性のようなものが、常に鎮座し続ける。
棄却できなかったオーバーロードは、進化の袋小路にいることを
自認し、未だ幼年期にとどまっていた人類を棄却するほうへと
誘導したが、なぜ自我を確保するルートをハズレとみなしたのか。
それはもしかすると、
あらゆるユートピアの最大の敵―退屈―
同p.135
に侵されてしまい、
「われわれはこの先どこへ行くのだろうか?」
同p.203
を問うことに疲れてしまったからかもしれない。

人間もまたその状態に陥り、人工知能をつくる過程で意識を
実装することを回避するだろうか。
それとも、人工知能がオーバーロードとなり、人間を意識から
解放することになるだろうか。

2017-06-02

パリ協定

アメリカのパリ協定離脱は、イギリスのEU離脱よりも
歴史的な事態になり得る。

今回の決定はトランプ大統領一人の判断ではないはずだが、
Google、Apple、Tesla、Facebookといったテック企業
だけでなく、GEのような企業も反対しているらしいというのに、
一体どこが賛成しているのだろうか。
あるいは、誰も賛成していないとしても、常に単調に増加する
という資本主義の前提がそうさせるのかもしれない。

山本義隆は「熱学思想の史的展開」の中で、
生存条件の維持にとって決定的なことは、エネルギーの枯渇
ではなくあくまでもエントロピーを増加させないメカニズムが
エネルギー(熱)を媒介として作動していることにある。
山本義隆「熱学思想の史的展開」p.335
という視点を提示した。
地球もまた一つの抽象過程=生命であり、太陽放射や
潮汐によって入力されたエネルギーと宇宙へ放射される
エネルギーのエントロピー差によって地球上のエントロピー
増大を防いでいる。
エネルギー収支のバランスの崩れはエントロピーの変化を
もたらし、本来はエネルギーよりもこちらの方が抽象過程
にとっては致命的になる。

現状では代替のきかないハードウェアである地球という
抽象過程のためなら、国民国家一つくらい割とあっさり
なくしにかかれるのではなかろうか。
United States Climate Allianceを組織する対応の早さに、
何かしらの再編成を伴う可能性を感じる。
さて、切り捨てられるのは大統領か、アメリカか、
資本主義か、国民国家か、人間か、地球か。
決断が先延ばしになればなるほど、選択肢はより大きな
ものだけを残してなくなっていく。

青春の影

「青春の影」を聴くと、「ゲンロン0」で東浩紀が
子として死ぬだけでなく、親としても生きろ。
東浩紀「ゲンロン0」p.300
と言っていたのを思い出す。
自分の大きな夢を追うことが
今迄の僕の仕事だったけど
君を幸せにするそれこそが
これからの僕の生きるしるし
財津和夫「青春の影」
恋が配偶者選択における特徴抽出アルゴリズムである
のに対し、愛は「あちら」だったものを「こちら」と
して引き受ける、「こちら」の拡張である。
前者が同一性の引き起こす喜びを伴うのに対し、
後者はあらゆるものとともにある。
恋のよろこびは愛のきびしさへの
かけはしにすぎないと
財津和夫「青春の影」
喜びしかない状態のことをハッピィエンドとするなら、
この歌はハッピィエンドではないかもしれないが、
健やかなるときも病めるときもともにあることが
できずして、いかなるハッピィエンドがあり得ようか。

副題「I'll always remember you」のyouが指すのは、
何も知らなかった過去の二人のことだという解釈が
とてもよい。

好奇心

好奇心とは、通信できる差異を望むことである。

自分と全く同じ抽象をする対象との通信には差異がなく、抽象特性の変化を引き起こさない。逆に、全く違う抽象をする対象との間には通信プロトコルがないため、そもそも通信できない。通信できる程度の共通部分を有し、かつ、抽象特性の変化を生じ得る程度の差異を有する対象が他者であり、それを求めるのが好奇心である。
他者は他者であることによって不可避的に私と物語を部分的に共有しており、つねに完全な他者では有り得ず、不完全な他者となる。
An At a NOA 2016-05-29 “心という難問
抽象特性の可変性を高く保つことで、入力される情報の変化に対応できる状態を維持することが、心理的身体を実装していることの最大の利点である。おそらく、答えることよりも問うことが大事に思われるのは、答えは抽象特性の変化なしに行えるのに対し、問いは抽象特性の変化の兆しになるからだと思われる。

抽象特性の変化を拒み、思考を固定化することは、好奇心の減退、心理的身体の機能不全、意識の死であると言える。願わくは、物理的身体が機能停止するまで、好奇心が続きますように。

2017-06-01

ゲーデル

現代思想2017年6月臨時増刊「ゲーデル」を読んだ。
森毅や竹内外史のエッセイが載っていて不思議だった
のだが、2007年2月臨時増刊号を再刊行したものらしい。

遠山啓が「現代数学入門」で書いていたように、数学は
構造の科学であり、抽象そのものの在り方を扱う。
幾何学における平行線公準の真偽が、ユークリッド幾何学と
非ユークリッド幾何学の違いを生み出し、ニュートン的な
世界観と相対論的な世界観に対応していたように、
選択公理や連続体仮説、排中律の真偽もまた、異なる
抽象の仕方に対応するというだけであるとも言える。
森毅のエッセイで、
外史の「名著」だが、直観主義(命名としては構成主義の
ほうがよいと思う)の論理を心の論理、ノイマン環の
量子論理を物の論理、古典的なブール論理を神の論理と
しているのに感心した。
森毅「ゲーデル、つかず離れず」
現代思想2017年6月臨時増刊「ゲーデル」p.57
と書いてあったのは、このような公理の設定と世界観の
対応を表している。
これらの真偽に対して中立を保ち、真である場合と偽である
場合について思考することもできるが、意識や無意識を実装
した人間として、自らが身を置く抽象過程がそれらの公理の
真偽いずれの場合に相当するのかを決定することにこだわる
という姿勢もわからなくもない。
ゲーデルが連続体仮説の決定不能性に満足しなかったのは、
そこにこだわったためだと思われる。

公理の真性は予め決まっているのではなく、決めるべきものである。
それを決めるのは、人間にとっては物理的身体のセンサ特性かも
しれないし、心理的身体の特性かもしれない。
人間だけに話を限るのであれば、物理的身体のセンサ特性に対して
真である公理は、単に真だと形容してもよいのかもしれない。
しかし、真偽は抽象過程を経ることで決まるものであり、もし
絶対的に真にみえるものがあるとしたら、それは同じ抽象過程を
経た情報を、その抽象過程を超えた後だけ眺めるためである。
無相の情報それ自体には、真理という概念すら存在しないはずだ。

リズムとテンポ

音楽には音の三要素以外にもリズムやテンポが関係する。

リズムrhythmはギリシャ語のῥυθμός(any measured flow
or movement)に由来し、時間的なパターンを表す。
一方、空間的なパターンは周波数特性として音の三要素の
うちの音色や音程に分類される。
テンポtempoの語源はtempus(ラテン語で「時」)であり、
同じように時間に関わるが、こちらは速度に対応している。
tempusがさらにギリシャ語のτέμνω(to cut)に関係している
というのは興味深い。

上記は一般的に受け入れられているリズムとテンポのイメージ
に近いと思われるが、リズムと音色や音程の違いを時間と空間の
違いとして捉えるのは妥当なのだろうか。
ある瞬間に鳴っていると人間が知覚する音ですら、空気の振動
であることを考えれば、時間的な幅なしでは音として聴こえず、
空間的なパターンとしての音色や音程という表現はあまり適切
でないように思われる。
音自体がある周波数で生じる空気の振動なのだとすれば、
音色や音程とリズムの差はどこにあるのか。

人間の耳で知覚される最低音は約20Hzであるから、テンポに
換算すると20×60=1200BPMで、1000BPMのオーダーである。
一方、人間が音楽として鑑賞するもののテンポは10〜100BPMの
オーダーであり、これを周波数に換算すると0.1〜1Hz程度である。
その開きはおよそ10倍であるが、人間の耳のセンサ特性に応じて、
空気の振動パターンの周波数が20Hzよりも小さいものはリズム、
大きいものは音色や音程として知覚されると言えるだろうか。
通常、音をフーリエ変換したときには可聴域に対応する20Hz〜
20000Hzしか問題にならないのかもしれないが、0.1〜1Hz付近に
リズムに対応するスペクトルは現れるのだろうか。

聴覚センサのセンサ特性が異なる場合には、人間にとってのリズムが
音程になって音色の一部を構成したり、逆に音程の一部がリズムを
刻んだりして聴こえるということもあるのかもしれない。