2016-10-05

kagome

pure golangな形態素解析プログラムとしてkagomeがある。
そこで、いつぞやの「の」構文を解析してみた。

テーブルとグラフはデモページで作成。
5種類ある「の」のうち1つ(10588)が抜けているのが非常にくやしい。


Input納豆の糸の引くのを見ているの
ModeNormal

Surface Part-of-Speech Base Form Reading Pronounciation
納豆 名詞,一般,*,*,* 納豆 ナットウ ナットー
助詞,連体化,*,*,*
名詞,一般,*,*,* イト イト
助詞,格助詞,一般,*,*
引く 動詞,自立,*,*,五段・カ行イ音便 引く ヒク ヒク
名詞,非自立,一般,*,*
助詞,格助詞,一般,*,*
動詞,自立,*,*,一段 見る
助詞,接続助詞,*,*,*
いる 動詞,非自立,*,*,一段 いる イル イル
助詞,終助詞,*,*,*

2016-10-04

不気味の谷

センサが情報を圧縮することが認識であるという
理解に基づくと、いわゆる「不気味の谷」と呼ばれる
現象は、外部過程による圧縮が当該センサの圧縮過程
との齟齬を起こしている状態だと理解できる。

外部過程がある記号を付与するために圧縮した情報が、
受信側のセンサにおけるその記号に対する圧縮方式と
完全に一致していれば、それはもはや現実と見分けが
つかない。
そこに差異がある場合には、差異が大きすぎる場合には
その記号として認識されず、ある程度近づくと、その記号
として認識されるが、齟齬が生じるという段階に至る。
この段階において、その差異がさらに小さい領域では、
受信側が圧縮過程の修正を施すべきかという判断に迫られる。
その判断に迫られつつ、棄却されるケースを指して、
「不気味の谷」と呼んでいると言える。

近さの尺度を設定するには距離空間である必要があるが、
適切なノルムは人によっても、その情報の形式によっても変わる。
例えば、精巧につくられた人間の模型は、写真で見る場合と
直接見る場合とではノルムの取り方が変わるだろう。
視覚センサによって規定されるノルムに対しては不気味の谷を
超えて実物と見紛うものでも、聴覚、触覚等の他のセンサで
測った距離が大きすぎているのであれば、実物とは認識されない。

果たしてそういった尺度は一意に存在するだろうか。
その尺度の一意性が成立する範囲のことを、個人と呼ぶのかもしれない。

圧縮過程の齟齬が認識の不具合を引き起こすのだとすれば、
どれだけ精巧に作られたCGよりも、一節の文が勝ることが
あるというのも無理からぬことである。

役に立たない

「日本に必要なのは、社会全体でサイエンスを支えるという意識」
- 東工大・大隅良典 栄誉教授


私はこのごろ、そういった質問に対しては「役に立ちません」と答えたほうが
正しいのではないかと考えるようになりました。
という大隅先生の言葉、私は森博嗣を読んで最初にその考えに至った。

なぜ勉強しなければならないかと反語的に訊かれたら
・「どうして意味がなければいけないのか。意味がないことが贅沢なのだ」
・「うるさい、勉強中だからあとで」
と答えられるようでありたい。
An At a NOA 2011-01-07 “もし子どもがいて
そうやって世界をモデル化して得心しようとする行為の、
何と役に立たないこと。
そこに意味を見いだせるとは、何と人間的だろう。
An At a NOA 2011-12-08 “numerical models
ただひたすらに、意識自ら理由付けを施し、世界を「理解」する。
生活する上で役に立たないと言われることに価値を見いだせることが
最も人間らしい側面に見える一方で、そもそも抽象によって情報に
秩序が生じること自体がもうほとんど生命と同義だという点で、
あらゆる意味付けと理由付けは、等しく生きることに直結している。
「役に立つ」って何なんですか。
(いかんな、酔っている。)

それはそうと、「理解」という語は理によって解きほぐすと書き下せる。
理由付けという抽象によって情報を圧縮する行為が、何故
解きほぐす行為として把握されるのだろうか。
それは、人間の意識の大本に、大いなる原因を設定したいという
欲求が存在することを示唆しているように思われる。
理由付けは常に投機的に施され、それが大いなる原因の候補、
つまりは神の候補者となる。
その投機の度合いが理由付けの積層とともに低減することで神が解体
されていく過程が、解きほぐす過程として把握されるのかもしれない。

圧縮情報

この夏、ポケモンGOとともに歩きスマホが問題になったが、
歩いていない時間でもスマートフォンを操作する時間は
大分長いように見受けられる。

大学の学食でふと見渡すと、一人で食事している人の
少なくとも半分はスマートフォンを眺めており、食後だけでなく
食事中に操作している人もいる。
複数人で来ている人でも、食後はスマートフォンを操作
しながら会話する姿がちらほら。

この状況についてここ数日考えており、最初に思ったのは
現実という境界条件の厳しさを示しているのではということだ。
物理的身体に拘束された意識が、より多くの時空に存在し、
より多くの情報を摂取することを目指して、スマートフォンを
見やることでその拘束具から逃れようとしているとも思える。

次に考えたのは、意識から無意識へと移行するための
必須条件である試行の大量生成を行うために、同じ操作を
繰り返すゲームに没頭したり、同じウェブサイトを巡ったり
するというルーチンに自ら絡め取られようとしているのでは
ないかということだ。

また別の話だが、現実において物理的身体が受け取る
情報に比べて、スマートフォン経由で摂取する情報には
多くのバイアスがかかっているとも言える。
ここで、バイアスというのは、政治的な立場によるもの等に
限らず、一般的にある外部圧縮過程によって認識および解釈
されることにより、特定の同一性のもとに情報が整理されること
全般について言っている。
認識とは、入力された情報を圧縮することであるから、
個人的にはそれを「より圧縮された情報」と表現したい。

自らの物理的身体に入力された情報には、自らの処理系による
圧縮のみが施される。
それに対して、誰かが書いた何かの情報に触れるときには、
少なくともその情報を発信した人間と自分という2段階の
圧縮過程が挟まり、もしその情報が何かの情報を伝える情報
だとすれば、圧縮過程は何段にもパイプされていることになる。

個人的には外部圧縮過程は可能な限り排除したいと思うが、
VRが流行ったりするのを考えると、そういった既に圧縮された
情報に浸るという安心感というのは一定程度共通するもの
なのだなとも思う。
スマートフォンへの依存というのも、そういった、より圧縮された
情報に浸ることによる安心感という側面があるのかもしれないな、
ということを先ほど歩きながら考えていた。

これは、同じ同一性という正義を共有できることから生まれる
安心感だろうか。
それとも、単に自ら圧縮する手間を厭うことによるものだろうか。

2016-10-03

所有

アマゾン「キンドル アンリミテッド」サービスにおける
講談社作品の配信停止につきまして


「定額無制限」を掲げて失敗しなかったサービスって
未だかつてあるんだろうか。
オンラインストレージに関しては、現れては去りという
死屍累々の状況が数年前にあったように思う。

このところ思うのは、いろいろな面で所有から共有への
移行が進んでいるなということだ。
紙の書籍から電子書籍への移行や、CDから音楽配信
サービスへの移行といった、データの世界での話は
もちろんそうなのだが、車や自転車のシェアリングのように、
実世界においても進んでいる。
住居は大分昔から賃貸というかたちの共有がされて
きたが、通時的な共有だけでなく、ルームシェアのような
共時的な共有もかなり一般的になった。
UberやAirbnbのようなサービスも同じ流れだろう。

みんな、何かを所有するという負担を避けるようになって
きたということなのだろうか。
貨幣の発明によって物理的な所有のコストはかなり軽減
されたように思うが、データのみだとしても維持コスト
というのは相変わらずかさむ。
自由というのは責任を追求したいがために想定される
ということを書いたが、所有においても、当該対象を
所有する自由というのは、それを管理する責任と表裏一体
であり、これまで喧伝されてきた自由の側面が縮小し、
責任の側面ばかりが目に付くようになってしまったのかもしれない。

物理的身体というのは果たして所有対象だろうか。
個人的な認識としては、それは物理的身体というセンサの上に
生じたコンセンサスが意識や無意識であるから、意識が身体を所有
するというのは文字通り本末転倒でちゃんちゃらおかしいのだが、
意識による理由付けのストーリィとしては、まあ無碍に否定するほどでもない。


2016-10-05 追記
昨夜発表されたGoogleのPixelには画像と映像の無制限ストレージが
ついてくるらしい。
本体が$649するため、そこである程度フィルタリングされるとはいえ、
Googleですら定額無制限で失敗するとしたら他にできるところは
まずないだろう。
Googleはそれをユーザと共有することにメリットがあるから無制限を
掲げられるのだろうが、物理的なコストを上回る利益を上げられるだろうか。

2016-10-02

経験の総和

科学が経験の総和だという見解には賛成できるが、
むしろ、科学ほど人間の何故という問を先鋭化した
ものもないと思う。

科学が究極の原因を設定しないのは、神という
大いなる原因を設定した宗教への対抗であり、
常に次なる原因を追い求め、理由律の連鎖を
決して止めないことにその存在意義があるからだ。

科学は何故という問を、時に問を発した人間が
必要とする以上に積み重ね過ぎるが故に、
こういった印象がもたれるのではないかと思う。

「変な宗教に騙される」ことが究極の原因という
回答を設定することなのだとすれば、
もはやその人間は科学者ではない。

2016-10-01

思い出

「思い出と記憶って、どこが違うか知っている?」
(中略)
「思い出は全部記憶しているけどね、記憶は全部は思い出せないんだ」
森博嗣「すべてがFになる」p.289
このシーンはとても好きで、何故かページ番号まで記憶している。
それは、289=17^2というインパクトが強かっただけだからなのだが。

思い出と記憶の違いは、理由付けと意味付けの違いのようにも思われる。
思い出すたびに、思い出は理由付けされることで補強される。
メモリアクセスとしての記憶の呼び出しは必ずしも理由付けを要さず、
意味付けのみでも行えるという点で、思い出すこととは異なる過程として
理解されるべきだ。