一つの人体の中でのコンセンサスがとれなくなる状態を
統合失調症と呼ぶのであれば、社会としてコンセンサスが
取りづらくなっている現代は、統合失調症的な状況に
あるのかもしれない。
政治は唯一絶対の正義というものを振りかざしがちな気がしてならない。
その幻想を解き、次の行動に向けてどういったコンセンサスをとるのかを
決め、統合失調症に陥らないようにしないといずれ瓦解する。
これまでは政治家の間でそのような運用がされてきたのかもしれないが、
通信速度の向上、あるいは範囲の拡大に伴う弊害が出ているように感じる。
比較手段の発達の遅れが著しいあたり、センサと同じ状況なのかもしれない。
2016-06-06
consensus
@
16:57
コンセンサスconsensusは、wiktionary英語版によれば、
consentio=con+sentio、つまり「知覚の共有」から来ている。
共有するには二つ以上の知覚するもの(センサ)が必要になり、
大ざっぱに言えば、共有は通信段階と比較段階に分けられる。
センサは別個のものとして意味付けられるものである必要はなく、
結果としては同一視されるものであってもよい。
同一のセンサが異なるタイミングで知覚したものの共有もまた、
コンセンサスを形成しうる。
逆に、孤立した単一の知覚からはコンセンサスは生まれない。
人間というセンサに意識というコンセンサスが実装できたのは、
神経系という通信路に発生する、異なる二つ以上の知覚を
共有するだけのバッファを手に入れることができたためだ。
あるいは、社会というコンセンサスを実現できているのは、
知覚を共有するための通信手段があるからだ。
それはもちろん言語に限らないし、どちらかと言えば、言語は
後発の共有手段のように思われる。
このように考えると、あらゆるセンサに意識や社会のようなものを
実装することが可能だと考えられる。
知覚の共有方法がそのあり方を決めることになるが、
現時点でのいわゆるセンサの多くは、通信手段の実装に比べて、
知覚同士の比較手段の実装が遅れていると感じられる。
比較手段の決定とは、同一性の決定である。
真理、正義等も、ある同一性の上に築かれるコンセンサスでしかないが、
だからと言って悲観あるいは軽視するようなことではないと思う。
次の行動に対する指針としてコンセンサスが役に立つのであれば、
それを利用して行動を続けるということがつまり生きるということなのではないか。
consentio=con+sentio、つまり「知覚の共有」から来ている。
共有するには二つ以上の知覚するもの(センサ)が必要になり、
大ざっぱに言えば、共有は通信段階と比較段階に分けられる。
センサは別個のものとして意味付けられるものである必要はなく、
結果としては同一視されるものであってもよい。
同一のセンサが異なるタイミングで知覚したものの共有もまた、
コンセンサスを形成しうる。
逆に、孤立した単一の知覚からはコンセンサスは生まれない。
人間というセンサに意識というコンセンサスが実装できたのは、
神経系という通信路に発生する、異なる二つ以上の知覚を
共有するだけのバッファを手に入れることができたためだ。
あるいは、社会というコンセンサスを実現できているのは、
知覚を共有するための通信手段があるからだ。
それはもちろん言語に限らないし、どちらかと言えば、言語は
後発の共有手段のように思われる。
このように考えると、あらゆるセンサに意識や社会のようなものを
実装することが可能だと考えられる。
知覚の共有方法がそのあり方を決めることになるが、
現時点でのいわゆるセンサの多くは、通信手段の実装に比べて、
知覚同士の比較手段の実装が遅れていると感じられる。
比較手段の決定とは、同一性の決定である。
真理、正義等も、ある同一性の上に築かれるコンセンサスでしかないが、
だからと言って悲観あるいは軽視するようなことではないと思う。
次の行動に対する指針としてコンセンサスが役に立つのであれば、
それを利用して行動を続けるということがつまり生きるということなのではないか。
2016-06-04
2016-06-02
ベーコン
書籍部でフランシス・ベーコンの「随筆集」を買う。
フランシス・ベーコンの訳書は岩波文庫の青にいくつか
出ているのだが、どれも絶版のようで、仕方なく中古を発注した。
中公クラシックス版「随筆集」についている一ノ瀬正樹氏による冒頭の
解説を読んでいるが、フランシス・ベーコンの経験論の考え方は、先日読んだ
野矢先生の「心という難問」にも共通するところがあるように思われる。
してきたように思うが、それもまた必要な寄り道だったというように
回想される日がくるだろうか。
フランシス・ベーコンの訳書は岩波文庫の青にいくつか
出ているのだが、どれも絶版のようで、仕方なく中古を発注した。
中公クラシックス版「随筆集」についている一ノ瀬正樹氏による冒頭の
解説を読んでいるが、フランシス・ベーコンの経験論の考え方は、先日読んだ
野矢先生の「心という難問」にも共通するところがあるように思われる。
一定の排除をした後には、なにも断定的な結論はできないとしてこの400年の間、哲学はこの観点からすると不健康な歩みも
混乱したままでいるより、自然の解明という仕事を肯定的な仕方で
試みることを知性に許してやる方が有益だ、というのである。
フランシス・ベーコン「随筆集」成田成寿訳 p.18
してきたように思うが、それもまた必要な寄り道だったというように
回想される日がくるだろうか。
OS
@
21:04
この差はローカルへの依存度に因るものだと思う。「MSがWindows 10にアップデートさせるのは消費者保護の観点からだめだ」— fkm (@fkm) 2016年6月1日
vs
「キャリアがAndroid OSのアップデートをしないのは消費者保護の観点からだめだ」
Fight!
スマートフォンはローカルファイルへのアクセスを意識することが少ない。
iOSはわからないが、Androidに公式のファイラがないあたりにも
そのことが表れている。
しかし、データ以上に違いが顕著なのはアプリケーションの方だ。
Androidのアプリケーションは一般的にはGoogle Playからダウンロードして
インストールすることが多い。
Windowsのアプリケーションも最近ではウェブからダウンロードする形式の
ものが増えているが、データがリモートで完結するものはまだまだ一般的ではない。
そして何よりローカルにしばられているのがOSそのものだ。
既にWindowsもローカルには縛られていないとは言え、歴史的経緯により、
WindowsPCはローカルと強く結びついている。
それは、Windows95以来の伝統だ。
1995年当時、ネットワークは規模と速度の点で圧倒的に性能が足りていなかった。
その時代に個人個人の端末として普及させるには、PCは手元に存在するものであり、
ネットワークはそこから繋がるものというイメージで売られる以外になかったはずだ。
ローカルをネットワークから切り離すというイメージ戦略は、近代的な人間像と通ずるところがある。
PCの世界では、Windowsは大苦戦中だと言ってよい状況だ。
人間が近代的な人間像から抜け出すのも、同程度以上の困難をはらんでいるに違いない。
もしこの比喩が妥当なものであるなら、通信速度の爆発的上昇は、人間のシンクライアント化を
もたらすだろうか。
p.s.
Twitterの埋め込みに対してBloggerからHTTPSでないという警告が
出るようになった。次から別の方法を検討しよう。
2016-06-01
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