2016-05-27

0.5ゲーム差

昨日の時点で全ての勝ち星が広島に集まった。
勝ち星7つというのがドラゴンボールみたいでよい。

今日、下3つが勝つと2位から6位までが
0.5ゲーム差におさまる。
そして20:16現在、中日-ヤクルト戦以外は
そこへ収束しようとしている。
7回表、5-4で死球、四球、四球の末に絶賛ピンチの様子。
面白いので今日は負けてもいいぞ。

20:20 追記
追いつかれた。

馬のように聞き、兎のように見る

少し前に考えた充足的視覚空間の話。

馬の目と同じように、人間の耳は頭の側面についている。
兎の耳と同じように、人間の目は頭の正面についている。

馬の視覚による空間把握は、人間の耳によるそれに近く、
兎の聴覚による空間把握は、人間の目によるそれに近いだろうか。

解像度は大きく違うだろうが、指向性に関しては良い線ではないかと思う。

2016-05-26

ヴィダルサスーン

ヴィダルサスーンの名言
The only place where success comes before work is in a dictionary.
とその対訳
成功が努力より先に来るのは辞書の中だけだ。
はどちらもよく出来ている。

言語によって辞書順(日本語文字列照合順番)が変わってしまうから、
success<workを保つように、成功<努力としている。
日本語から原文を推測するとsuccess>effortになってしまうため、
workが使われているが、どちらかと言うと日本語の単語の組み合わせの方が
自然な感じがあってよい。

日本語でもいろは順だと努力の方が先に来てしまうが、いろは順だと「せ」の後は
「すん」しかないので、難易度が飛躍的アップする。

中国語やアラビア語なんかでも上手いこと対訳が作れるだろうか。

時計回り

北半球に置かれた日時計の影は、
上から見ると時計回りに動く。
というよりも、その方向を時計回りと
呼び始めたというのが実際のところだろう。

地球の自転の方向は、北極側から南極側に向かって
回転軸方向に見たときに反時計回りだというふうに
習った気がするが、上記のように考えるとこれはむしろ逆で、
地球の自転が東向きであり、地軸が傾いているために
北半球では太陽が東→南→西の順に移動し、それに対応する
日時計の影の動きの向き(西→北→東)を時計回りと呼ぶように
なった、というのが時系列的にはより忠実なのかもしれない。

南半球で文化の発展が先行すれば、時計回りは逆転していただろう。

もったいない?

「京大出て専業主婦なんてもったいない」と言う人は、じゃあわたしが何をすれば許してくれるのか


数日前に話題になったらしいエントリィ。
家事が「サイコーにクリエイティブ」かどうかについては肯定も否定も
しないが、そんなこととは無関係に、最も重要なのは
わたしは、京大に、勉強をしに行っただけだ。
という箇所だと思う。
これは大学、というかすべての教育機関あるいは教育という行為そのものの
行き着く究極である。ただ知識を欲するがために知識を得る。

仕事をするしないなんてどちらでもよい。勤労の美徳というものは、仕事を
することがよいことだという正義を掲げないと人間社会が成立しなかった
時代の名残に、いつかなっていく。

就職するためだけに必要以上に多くの人間が22歳まで高等教育機関に
所属している現状ははっきり言って異常だ。
仕事が機械化されることを危惧する向きが多いが、自動運転と同じで
人間がやる方が様々な点で悪いという状況になるのは時間の問題だ。
しかもそれはそう遠くない未来に実現し得るし、一番のボトルネックは
人間側の仕事を手放したくないというこだわりだ。

そういう時代が来たとき、現状に慣れ親しんだ多くの人間はあまりの
やることのなさに、自我が崩れていく可能性すら有り得ると思う。
若年性認知症の蔓延だ。
それはもはや意識を実装しなくても生き残れる程に人間が発達したという
ことなのかもしれない。
その時代において、意識を保ち続けるためのおそらく唯一の方法が、
常に新しい情報に触れ、新しい意味を構築していくような行為だと思う。
生命体としての三大欲求は睡眠欲、食欲、性欲だが、その上に実装された
意識を維持するためにはさらに知識欲が不可欠に違いない。

2016-05-25

責任

今年の御柱祭では建て御柱で死者が出た。
こういった際に、現代社会はどういった対応がとれるだろうか。

当然、死者がなるべく出ないように最善の努力を
するということは連綿となされてきただろうが、
それでもリスクはゼロにはならない。

現代社会では責任を追求するために主体の自由が想定されるが、
御柱祭は1000年以上前から続くお祭りであり、
警察機構どころか、近代的な人間像が誕生する以前から
存在している。
かつては大いなる原因である神に転嫁することで、
死を受け入れてきたと考えられる。
神が死んだ後、それに代わる虚構として個人や国家が生まれ、
原因は分散処理されるようになった。
そういった世界観をバックポートするのは果たしてどこまで
可能なのだろうか。技術的には可能かもしれないが、
それを正当化するだけの論理を受け入れるのはとても困難だと
思われる。

一方では、Googleがフランスで脱税というニュースも流れている。
次の虚構を作り出し隠蔽するべき段階にきているのかもしれない。

Allo

Google I/Oで発表されたAlloについてギズモードに
こんな記事が出ている。

Googleの新メッセージアプリで、人は感情を失う


既にInboxにも搭載されている自動返信の機能に対する
危惧のようなものを述べている。
「メッセージ受け取った側は、それが心から思って1つ1つ
タイプされたメッセージなのか、それともアプリが提案した
メッセージなのか、それを知る術はあるのか?」と問いかけています。
との文言があるが、とても的外れだと感じる。

社会心理学講義」や「責任という虚構」で展開された話、そもそもは
デュルケムの「社会学的方法の規準」かもしれないが、個人の行動
というのはかなりの程度、集団の影響を受ける。
ここでの例で言えば、相手のメッセージや写真を見たときに、どのような
反応を示すかという原因が、完全に個人に由来していると思い込むのは錯覚だ。

むしろこういった機能の嫌なところというのは、その個人が影響を
受ける集団についての情報を機能提供側が完全には得られないため、
影響元になる集団が縮小され、歪められたかたちで再現されることで、
思い浮かぶ文面と提案される文面に微妙な(ときには大きな)ズレが生じる点だと思う。
もし集団が完全に再現されるのだとすれば、人間がタイプしようとした文面と
提案された文面は一致するはずだ。

その再現性が飛躍的に上がったために、不気味の谷にはまっているだけだよね、
というのが率直な感想である。