2016-05-11

一堂に会する

Google I/O 2016基調講演のライブストリーミングがあるらしい。
INTERNET Watchの記事


正直、Googleというテック企業の中でも先端中の先端の企業が、しかもその先端性を示すためのイベントを開催するにあたって、わざわざ人間を一箇所に集めるようなことをするのはとてもがっかりだと感じる。これは、ちょっと前にニュースになっていた、N高等学校の入学式でも同様であった。

森博嗣の小説、特に最近のものでは、現実と夢の描写を敢えて曖昧にしている箇所が多い。スカイ・クロラシリーズなんかは顕著だ。近作だと、「χの悲劇」において、すっかり真賀田四季の思想に染まった島田さんは、しきりにリアルの限界を意識していた。そこでのリアルの対義語は夢やドリームではなくバーチャルである。

少し前まで、身体の物理的運動を伴わない運動体験というのは夢以外には存在しなかった(少なくともメジャではなかった)。インターネットの誕生後、コンピュータの処理速度や通信速度の急発展により、バーチャルという選択肢がそこに加わった。原理的には、移動のみならず身体を変形させることすらなく、あらゆる運動体験は可能だと考えられる。

Googleのような会社には是非ともそちらの方向を突き詰めて欲しい。大勢が一堂に会するライブビューイングは、はっきり言って疑似体験のためにリアルの力を借りすぎているように思う。参加者の各々は一人でいるのに、もはや全員がマウンテンビューにいるかのような疑似体験を如何に創りだすかは、テック企業としての腕の見せ所である。それは、単なるリアルの模倣や再現でなくてもよい。せめて、HMDを参加者全員に装着させるというような愚行には走らないで欲しい。懐古趣味を超えて悪趣味である。

2016-05-09

電子書籍の引用

森博嗣のXシリーズで文庫化されていない
「ムカシ×ムカシ」と「サイタ×サイタ」を読みたくなり、
電子書籍版をGoogle Booksで買ってみた。

PC上のブラウザでもスマートフォンでも読めるし、
スマートフォン側ではPCで読んだ分も同期してくれるので便利だ。
PCでは上手くいかなかったが、スマートフォンでは検索もできる。
読み返すのにとても便利である。

さて、1つ気になったのが、電子書籍からの引用方法である。
紙の書籍はページという概念が固定しているため、ある書籍の中での
位置を指定するのにページ数が使える。
文字サイズや行間が可変である電子書籍ではページという概念は
かなり曖昧である。
(そもそも電子書籍にページという概念を含めておく必要はないと思うが、
現状ではそのままになっている。)

Google Booksでは文字サイズ等によらず、ページに相当する量が
設定されているようだ。
「ムカシ×ムカシ」では総数が213で、その中での現在位置が数字で示される。
文字サイズによっては1ページが数画面にわたって表示されることになるため、
画面遷移回数と数字はもちろん一致しないものの、書籍の中での位置特定を
するためにはこの形式がよい。
他のソフトウェアによっては%表示をしている場合もあるだろう。

%表示や節番号等、何でもよいが、電子書籍の引用形式を定めて、
電子書籍リーダ上で選択したテキストから自動生成できるようにしておくのが
よいだろう。
引用元も引用先も電子書籍なのであればリーダ内で<a>タグと同じように
直接リンクできる。
しおりやマーカの機能用に、ある箇所を同定する仕組みは既にあるのだろうから、
それをhrefに使い、タグの中身を人間にとってリーダブルな形式にするだけで
そのまま使えるはずだ。

2016-05-08

χの悲劇

「χの悲劇」を読んだ。
Gシリーズも最初は文庫版を買っていたのだが、
ここ3冊くらいはノベルス版を買っている。

懐かしい話がいろいろと出てきた。時系列や人物関係が整理しきれていないけど、自分でやるとなると億劫だな。海月くん目線のシリーズとかやってくれないだろうか。

個人的なハイライトは、島田さんとカイが初めてリアルで会ったシーンでの会話。
でも、気付いたんだけど、私たちって、理由のないものを受け入れない文化に染まっているのよ。
(中略)
そういうのの上に科学というものが築かれていて、私たちはずっと、その科学を信仰しているわけ。その神髄は何かと言えば、物事には説明ができる理由があるってことなの
森博嗣「χの悲劇」p.185
あとは、これを受けるように、エピローグ手前の夢の中。
その問いが、すなわち命なの。
同p.286

メイヤスーの「有限性の後で」の主題である理由律の問題は、個人的には森博嗣の著作で、真賀田四季の思想として触れたのが最初だったと思う。

それにしても、島田さんの能力は凄まじい。ホテルを脱出してから山の中の小屋に4日、沖縄で2日、カナダで1年+3日+3週間+2週間+4週間+8週間+数日+1週間と1日だから、入院するまでおよそ1年と5ヶ月だ。入院からカイが訪れるまで1ヶ月半で、その2週間後に亡くなったとき享年89歳なのだから、事件時には−1歳半だとすると87〜88歳だったことになる。その歳でリアルでもネットでもあれだけ動き回れるとは驚異的だ。

「すべてがFになる」では島田さんは「まだ若そうである」と表現されているので、20〜30代だとすると、それから約60年後の話ということか。あと2作もこの時代のストーリィなんだろうか。


2016-05-09 追記
ミナス・ポリスはつまり、百年シリーズのルナティック・シティということか。森ぱふぇにある年表を参照すると、
 ・1997年、「有限と微小のパン」の時点で島田さんが32歳
 ・2013年、ルナティック・シティ建設
とある。「χの悲劇」の舞台が1997+89-32=2054年であるから、既に建設後のはずだ。カイ=海月及介?はミナス・ポリスのプロジェクトに関わっている。「女王の百年密室」に出てくるカイ・ルシナとは関係あるんだろうか。

そういえば、真賀田研究所にいたという小山田真一のアカウント名はジェリィjellyであり、クラゲはjellyfishである。小山田=保呂草潤平で、保呂草さんと各務亜樹良の息子が海月くんということなんだろうか。同年表によれば海月くんの生年は1979年頃で、そのとき保呂草(34)、各務(39)だからあり得なくはないか。

あと、金さんは飛行機事故で姉を亡くしたと言っているから、金子勇二と同一人物で、奥様がいると言っていたのはラヴちゃんのことだろうか。というか、島田さん以上に西之園萌絵を知っていると言っているんだから間違いないだろう。このとき、金子くんは2054-1991+17=80歳である。

プロトコルの統一

2016年現在、英語ができることはある一定の優位性をもつものとして
扱われている。
これは、現時点での人間間の通信プロトコルの中で、英語が最も汎用性が
高いものと認識されていることによると思われる。

将来的には、しかもかなり近い将来という意味において、
この優位性は漸減していく可能性が高いと見積もるのは妥当に思える。
それは、翻訳というプロトコル変換が技術的に可能であり、またそこに
リソースが割かれるだけの理由が十分にあるように思えるからである。

遅く見積もっても100年もすれば母国語の如何によらず、
コミュニケーションによる不利益を被らない世界は実現できる。
主要な言語にとっては50年もあれば十分過ぎる。
現在はどちらかというとプロトコルは統一される傾向が強調されるが、
プロトコル変換のコストが下がった世界ではむしろ個々人の使用する
プロトコルはコミュニティ毎に多種多様であっても不便が生じにくく、
発散する可能性も十分にあると考えられる。

ただ、このような世界における異種プロトコル間での通信では、
最大公約数的な意味しか伝達できないと考えるのが妥当だ。
一方のプロトコルではその像に含まれるものが、他方のプロトコルでは
含まれないということは有り得る。
その場合、両プロトコルの像の積集合のみを像とするしかない。

以前、単一プロトコルへの危惧についての記事を書いたが、
自動翻訳が完璧なまでに普及し、ユーザ層以外の部分でプロトコル変換により
その単一性が実現される場合にも、同種の懸念は生じるものと思われる。

2016-05-05

通信方式

通信がその役割を果たすために重要なことに下記2点があると思う。

  1. 送信者が送信した内容と受信者が受信した内容が同一であること
  2. 送信者が一意に定まること、必要であれば受信者も同様であること

もちろん、通信の種類によってはセキュリティに関する性質が追加されること等が
あると思うが、上記2点の性質を満たせない通信は、通信としての用をなさない。

1に関しては、送信者が意図した意味と受信者が受け取った意味がずれることは
仕方がないものの、その間、つまり通信プロトコルにのっている間に変化がおきない
ことが重要である。
2に関しては、単一でも複数でもよいが、送信者を特定しようと思ったときに
特定が行えない通信というのは通信内容の意味がなくなる。
受信者に関しては、不特定の相手への通信という形態があるため、必ずしも特定
しなければならないわけではないが、特定の受信者へ送信したいときにそれが
できないというのでは双方向性が得られない。

会話、電話、FAX、電子メール、SMS、LINE、どれも通信を担う一プロトコルである。
電子メール以降に挙げた3つはインターネット経由でのデータ送受信がメインであり、
上記2性質を備えているかが長く不審がられてきたように思う。
最近では電子メールはもう克服しただろうか。
仕事での利用となると、通信の秘匿性の問題、送受信内容の保存の問題、送受信履歴の
検索の問題等も出てくる。そういう用途ではプロプライエタリなプラットフォーム上でしか
通信できないものは避けるのが無難だ。

ということを、上記のツイートを見たときに思ったのだが、生まれたときから
インターネットが普及していた世代とは通信観が違う可能性は大いにある。
それはもしかしたら、会話に用いるプロトコルで上記2点が当然担保されていると
無条件に前提していること、むしろそれを前提することで通信が成功していると
半ば信仰していることと、本質的には同じなのかもしれない。

無意味に耐える

伊藤計劃の「ハーモニー」の文庫版に付いている佐々木敦による
解説には、伊藤計劃へのインタビューが抜粋されている。

その中で、伊藤計劃は
無意味であることに耐えられないんですよ人間は。
絶対何かを見ちゃうじゃないですか。ランダムなパターンや
砂嵐にも何かが見える、みたいな。科学が差し出すものに
意味がなければないほど、そこで耐える力をみんなで
勉強すべきだと(笑)。
伊藤計劃「ハーモニー」p.375
と述べている。

意識というものが情報に意味を与えることで成立しているのだとすれば、
意識は正に自己の存続のために意味を与え続けることをやめられない。

五感から入力される情報にも、絶えず意味付けがなされ、それは視覚に
おいて顕著だ。日常で接する光景は、それを「見た」ときには常に何らかの
意味が付随してしまっている。
聴覚や味覚、触覚や嗅覚では、多くの人間は視覚ほどに訓練されていない
ために、意味抜きの情報として受け取る機会も多いと感じられる。


理由付けはとても遠回りな意味付けである。遠回りでもそれをしてしまうのは、
「無意味であることに耐えられない」ために、多少遠回りでもあらゆることに
意味を付けておこうとする、ある種の定めだ。
それは、判断不能な状況から如何に逃れるかという、生命としての本能に
起因するのかもしれない。

意識をなくすには2通りの解がある。
1つは、試行回数を増やすことで、理由付けによらない意味付けをすることだ。
これは短絡であり、痴呆、習慣、常識、宗教、本能等が該当すると考えられる。
もう1つは、判断不能を受け入れることだ。

ありとあらゆることの判断ができないとしても、生命を維持するだけであれば、
1つ目の範囲の判断ができるだけで、かなりの程度事足りる。
しかし、そこに留まらずに判断不能な領域を狭めようと、解空間を拡げようとして
きたのが人間であり、つまりは意識である。

ハーモニーのラストは、もう解空間を拡げることをやめた世界だ。
解空間を有限とみなすことで初めて「合理的」の意味が定まる。
訓練データの外に出られない人工知能もまた、有限な解空間の中にいるのだろうか。
そこから外に出るためには、何をしたらよいのだろうか。
そこから外に出る必要はあるのだろうか。
人間の意識は果たして訓練データの内外どちらにいるのだろうか。

2016-05-02

自動化

自動化による雇用減少の話。
AI・ロボット活用しないと30年の雇用735万人減 経産省試算
労働人口の日本49%、米国47%、英国35%がAI・ロボットに取って代わられる?


雇用自動化の適用範囲は技術的な問題よりも人間の都合により
決まると思われる。
なので、技術的なコストの低さで言えばホワイトカラーの仕事が
自動化しやすいとしても(これはおそらく真だ)、自動化はたぶん
ブルーカラーの仕事から始まっていく。
なぜなら、自動化を適用する人間の仕事はホワイトカラーに分類
されるからだ。

仕事をしなくて済むのがよいと口では言うものの、やはり仕事を
していたいと思うのが、意識を保ちたい人間の性なのだろう。