反射光と透過光について調べてみると、紙の本やプロジェクタで
映した映像のような反射光で得る場合と、ディスプレイのように
透過光で得る場合では、視覚情報の処理のされ方が違うという
記事が結構ひっかかり、研究例まであるらしい。
イメージとしてわからなくはないのだが、反射光と透過光を
スペクトル特性等の光学情報のみから判断することは可能
なのだろうか。
もし可能なのであれば、反射光の光学特性を有する透過光を
発する媒体が作れるだろうし、もし不可能なのであれば、
反射光と透過光の差は受け取った側の思い込みの問題になる。
透過光を用いる媒体が不可避的に反射光も含むのに対し、
反射光を用いる媒体は通常透過光を含まない。
例えば、ライトボックスに対してプロジェクタで投影した場合は
透過光を含む反射光媒体が出来上がるが、この場合はどちらの
特性に近づくのだろうか。
あるいは単純に、反射したか否かではなく、周囲との輝度差の
問題だけなのかもしれない。
だとすれば、暗い部屋の中で、指向性の高い照明を用いて紙の本の
ページ部分だけ明るくした場合には、反射光媒体と言えども、
透過光媒体と同じ特性になるのだろうか。
この問題はちょっと考えただけでも怪しい点がたくさんある。
ブラインドテストで比較した資料があるのであれば見てみたい。
とりあえずマクルーハンの「グーテンベルクの銀河系」を
読んでみよう。
p.s.
この件については、以下の記事のような意見の方が個人的には
飲み込みやすい。
「書き手だけが読む特殊な形式」と「誰もが読む一般的な形式」の違い
つまり、形式が同じままだとその形式での抽象に慣れてしまうせいで
見落としやすく、同じものを違う形式で新しく抽象するときには
注意深くなる、という説明である。
2017-02-27
呼吸
@
14:32
合唱をやっていると呼吸の訓練をすることが多い。
胸でなくお腹に入れるとか、背中に入れるイメージとか
いろいろと言われることが多いが、結局のところ空気が
入るのは肺であり、肺は胸にしかない。
では胸式呼吸と腹式呼吸で何が違うのかと言えば、
吸気時に主に使う筋肉なんではないかと理解している。
吸気には横隔膜、外肋間筋、胸鎖乳突筋、前斜角筋、
中斜角筋、後斜角筋が使えるらしい。
このうち、横隔膜を主に使うものを腹式呼吸、外肋間筋を
主に使うものを胸式呼吸と呼んでいるんではないかと思う。
合唱では腹式呼吸というよりも腹胸式呼吸であることが
多いと思うが、これは両方を使うということだろう。
後ろ4つの筋肉は首周りの筋肉であり、これに力が入ると
声帯にも影響してしまうので、首の力は抜くように言われる。
呼気は基本的には肺の受動的反跳によって行われるらしい。
つまり、横隔膜や外肋間筋から力を抜くと、肺が自動的に
しぼむことで息が吐かれるということだ。
筋肉というのは力を入れるときよりも抜くときの方が圧倒的に
難しいものだが、力を抜く速度をどれだけコントロールできる
かが呼気の要であり、声を安定させるためには不可欠になる。
こういう理屈を考えながらやっている間は、いまいち上手くは
いかないものだが、横隔膜が随意筋であることを知るだけでも
だいぶ感覚がつかめる。
そして、繰り返し試行することで次第に理屈を考えなくても
できるようになり、上達を実感できるようになる。
この理屈を抜く過程は、対象を自然化する過程であり、訓練と
呼ばれる。これは呼吸に限らず制御一般に通ずる考え方であり、
個人的には認知症も同じメカニズムだと思っている。
胸でなくお腹に入れるとか、背中に入れるイメージとか
いろいろと言われることが多いが、結局のところ空気が
入るのは肺であり、肺は胸にしかない。
では胸式呼吸と腹式呼吸で何が違うのかと言えば、
吸気時に主に使う筋肉なんではないかと理解している。
吸気には横隔膜、外肋間筋、胸鎖乳突筋、前斜角筋、
中斜角筋、後斜角筋が使えるらしい。
このうち、横隔膜を主に使うものを腹式呼吸、外肋間筋を
主に使うものを胸式呼吸と呼んでいるんではないかと思う。
合唱では腹式呼吸というよりも腹胸式呼吸であることが
多いと思うが、これは両方を使うということだろう。
後ろ4つの筋肉は首周りの筋肉であり、これに力が入ると
声帯にも影響してしまうので、首の力は抜くように言われる。
呼気は基本的には肺の受動的反跳によって行われるらしい。
つまり、横隔膜や外肋間筋から力を抜くと、肺が自動的に
しぼむことで息が吐かれるということだ。
筋肉というのは力を入れるときよりも抜くときの方が圧倒的に
難しいものだが、力を抜く速度をどれだけコントロールできる
かが呼気の要であり、声を安定させるためには不可欠になる。
こういう理屈を考えながらやっている間は、いまいち上手くは
いかないものだが、横隔膜が随意筋であることを知るだけでも
だいぶ感覚がつかめる。
そして、繰り返し試行することで次第に理屈を考えなくても
できるようになり、上達を実感できるようになる。
この理屈を抜く過程は、対象を自然化する過程であり、訓練と
呼ばれる。これは呼吸に限らず制御一般に通ずる考え方であり、
個人的には認知症も同じメカニズムだと思っている。
2017-02-26
31
@
16:33
年は地球の公転周期、月は月の公転周期、日は地球の自転
周期を基準にして決められる。
太陰暦は月、太陽暦は年が優先されるが、地球の公転周期と
月の公転周期がちょうど12倍ではないので調整が必要になる。
そういう意味では、太陽暦における月は便宜的なものだと
言えるが、ひと月あたりの日数が28日と30日と31日となって
いるのはどういった経緯だったのだろうか。
古代ローマのロムルス暦までは情報を辿れるのだが、そこから
先はよくわからない。
朔望月の約29.5日を基準にした29日や30日でもなく、週を
基準にした7×4=28日でもなく、31日が使用され、32以上の
日数が使われなかったことには何かしら理由があるはずだ。
31は二進数表記だと11111であり、片手の指で数えられる
最大の数だが、何か関係あるんだろうか。
p.s.
暦については国立天文台の暦Wikiに詳しく書かれている。
結構面白い。
2017-02-24
野沢温泉
10年振りに野沢温泉でスキーをした。
10年前に泊まった宿はまだあったけど、
10年前にはなかった北陸新幹線を使ったし、
10年前にはなかった里武士でビールを飲んだ。
街中もゲレンデも外国人が増えており、アジア圏よりも
欧米人の方が多いのが特徴的だ。発音から判断するに、
オーストラリアかニュージーランドあたりから来ている
のだと思われる。
東京から2時間くらいで着くし、スキーも温泉もお酒も
あるのだから魅力的なはずだ。
(でも、外湯は彼等には熱すぎるようで、もっとぬるい
ところはないのかと聞かれた)
そのうち、スキーやスノボもVRで体験するようになって
しまうのだろうか。それを言ったら、温泉やお酒だって
VR化することは可能であろう。
でも、そういうことではないのだ。
10年前に泊まった宿はまだあったけど、
10年前にはなかった北陸新幹線を使ったし、
10年前にはなかった里武士でビールを飲んだ。
街中もゲレンデも外国人が増えており、アジア圏よりも
欧米人の方が多いのが特徴的だ。発音から判断するに、
オーストラリアかニュージーランドあたりから来ている
のだと思われる。
東京から2時間くらいで着くし、スキーも温泉もお酒も
あるのだから魅力的なはずだ。
(でも、外湯は彼等には熱すぎるようで、もっとぬるい
ところはないのかと聞かれた)
そのうち、スキーやスノボもVRで体験するようになって
しまうのだろうか。それを言ったら、温泉やお酒だって
VR化することは可能であろう。
でも、そういうことではないのだ。
抽象化をしないままのその行為に耽りたいのである。
それが趣味というものだ。
An At a NOA 2017-01-24 “何かを抽象化する”
2017-02-23
より抽象的であること
@
23:12
より抽象的なものが好きである。
より抽象的というのは、抽象された構造からより幅広く
多種の具象へ落とし込むことができるような特性である。
単に多くの具象化の可能性を有しているだけでは不十分で、
その潜在的な具象化を実現できることができる必要がある。
抽象を怠り、個々の表現をそのまま構造と言い張るのは
問題外であるが、抽象された構造が極少数の具象にしか
対応していない場合も、言わば具象としての表現が構造と
膠着してしまっている状態であり、あまり興味がわかない。
抽象芸術にはあまり詳しくないのだが、あれはおそらく
具象化された対象としての作品を多く見ることで、その
作品群としての抽象性が把握できる種類のものなのだろうと
想像する。少数の作品を見ただけでは、少数の具象化可能性
しか有しないものとの差を見極めるのが難しい。
おそらくこういったことが、抽象abstractを曖昧obscureと
混同させる原因になっているのではなかろうか。
より抽象的というのは、抽象された構造からより幅広く
多種の具象へ落とし込むことができるような特性である。
単に多くの具象化の可能性を有しているだけでは不十分で、
その潜在的な具象化を実現できることができる必要がある。
抽象を怠り、個々の表現をそのまま構造と言い張るのは
問題外であるが、抽象された構造が極少数の具象にしか
対応していない場合も、言わば具象としての表現が構造と
膠着してしまっている状態であり、あまり興味がわかない。
抽象芸術にはあまり詳しくないのだが、あれはおそらく
具象化された対象としての作品を多く見ることで、その
作品群としての抽象性が把握できる種類のものなのだろうと
想像する。少数の作品を見ただけでは、少数の具象化可能性
しか有しないものとの差を見極めるのが難しい。
おそらくこういったことが、抽象abstractを曖昧obscureと
混同させる原因になっているのではなかろうか。
2017-02-22
時間の非実在性
ジョン・エリス・マクタガート「時間の非実在性」を読んだ。
永井均による注解と論評は未読だが、こちらも面白そうだ。
時間が実在しないことについては同意できる。
しかし、A系列よりはB系列の方が時間にとっては本質的
なのではないかと思う。
それは、エリオット・リーブとヤコブ・イングヴァソンの
「エントロピー再考」における議論から、B系列のような
向き付けられた順序構造とエントロピーが関係しており、
時間とはつまり常に増大するエントロピーのことなのかも
しれないと思われるからである。
最終的には棄却されるとはいえ、A系列のような、過去・現在
・未来というモデルを展開すること自体、かなりの無理を
抱えているように思う。
事象は常に過去として抽象されるのであり、それが未来である
状況はあり得ない。そういった描像は、過去として抽象された
事象を眺める視点をその事象以前に置いたり、媒介変数としての
時間のみを扱ったりするといったシミュレーションの中でしか
現れない。
現在とは、過去として抽象された事象が、抽象されたという事実を
基にして、当然あるべきものとして想定され、便宜的に名付けられた
ものに過ぎない。
その点では、現在は自意識と同様である。
(おそらく空間における「ここ」もそうである)
個人的な時間観については
An At a NOA 2016-11-18 “思い出への補足”
An At a NOA 2017-01-02 “意識に直接与えられたものについての試論”
に書いた。
実在においては、C系列、つまり向きを有しないB系列が存在し得る
ということには同意できる。
意味付けは空間、理由付けは時間にそれぞれ対応するという予想が
妥当だとすると、物理的身体は事象をC系列としてしか認識せず、
B系列として認識するのは心理的身体だけということになるが、
どうだろうか。
An At a NOA 2016-07-07 “情報の割り振り”
C系列がB系列として向き付けられることは、エントロピーを導入することと
同値であるはずだが、それは何故、どのようにして起こるのだろうか。
それは充足理由律と何か関係があるだろうか。
p.s.
この論文は1908年に書かれたものだが、折しもアインシュタインが
特殊相対性理論を発表した当時である。
マクタガートは特殊相対性理論についてどのくらい知っていたのだろうか。
永井均による注解と論評は未読だが、こちらも面白そうだ。
時間が実在しないことについては同意できる。
しかし、A系列よりはB系列の方が時間にとっては本質的
なのではないかと思う。
それは、エリオット・リーブとヤコブ・イングヴァソンの
「エントロピー再考」における議論から、B系列のような
向き付けられた順序構造とエントロピーが関係しており、
時間とはつまり常に増大するエントロピーのことなのかも
しれないと思われるからである。
最終的には棄却されるとはいえ、A系列のような、過去・現在
・未来というモデルを展開すること自体、かなりの無理を
抱えているように思う。
事象は常に過去として抽象されるのであり、それが未来である
状況はあり得ない。そういった描像は、過去として抽象された
事象を眺める視点をその事象以前に置いたり、媒介変数としての
時間のみを扱ったりするといったシミュレーションの中でしか
現れない。
現在とは、過去として抽象された事象が、抽象されたという事実を
基にして、当然あるべきものとして想定され、便宜的に名付けられた
ものに過ぎない。
その点では、現在は自意識と同様である。
(おそらく空間における「ここ」もそうである)
個人的な時間観については
An At a NOA 2016-11-18 “思い出への補足”
An At a NOA 2017-01-02 “意識に直接与えられたものについての試論”
に書いた。
実在においては、C系列、つまり向きを有しないB系列が存在し得る
ということには同意できる。
意味付けは空間、理由付けは時間にそれぞれ対応するという予想が
妥当だとすると、物理的身体は事象をC系列としてしか認識せず、
B系列として認識するのは心理的身体だけということになるが、
どうだろうか。
An At a NOA 2016-07-07 “情報の割り振り”
C系列がB系列として向き付けられることは、エントロピーを導入することと
同値であるはずだが、それは何故、どのようにして起こるのだろうか。
それは充足理由律と何か関係があるだろうか。
p.s.
この論文は1908年に書かれたものだが、折しもアインシュタインが
特殊相対性理論を発表した当時である。
マクタガートは特殊相対性理論についてどのくらい知っていたのだろうか。
2017-02-21
私たちは生きているのか?
「私たちは生きているのか?」を読んだ。
1作目 彼女は一人で歩くのか?
2作目 魔法の色を知っているか?
3作目 風は青海を渡るのか?
4作目 デボラ、眠っているのか?
Wシリーズのテーマについて、
知恵を駆使して構築したシステムが如何に上手くいっていようとも、
それが生命の樹という石として固定化してしまうこと自体が、
結局は死んでいる状態とみなされてしまう。
ディストピアは、エントロピィ最大という特別の場合だけでなく、
エントロピィ生成速度最小の状態全般のことを言うのであり、
ウォーカロンが頭脳だけで生きているテルグという村も、そういった
石の一つとみなされるのだろう。
その中において、フーリのような発散の要素が生じたのは、
テルグがシステムとして完全ではなかったことを示している。
外部からフーリやハギリというエネルギィが供給され、テルグ
という系のエントロピィが下げられたのだとみれば、このストーリィ
全体がテルグという生命が生きた過程ともみなせる。
最終的にテルグは固定化を免れ、外部からエネルギィを供給される
ことで、より多くのエントロピィを吐き出せるようになっていったと
思われるが、比較的生きている状態になったと言えるだろうか。
ハギリは夢の中で生命と複雑さを関連付けていたが、 より複雑で
あろうとするのは、パラメタを増やすことが定常状態を回避する
ことにつながる可能性があるからだと言えるだろうか。
そうだとすれば、制限ボルツマンマシンでモデル化したシステムは
隠れ層の幅と深さを増せば増すほど、より生きている状態に
近づけるだろう。
そして、それだけ複雑にしたモデルの中に組み込まれたショート
サーキットによる単純化が、投機的短絡=理由付け=意識として
人間を特徴付けるのではないかと思う。
表れていると感じる。
十分な複雑性を有することで適度に固定化を回避した上で、
理由付けというつなぎ変え可能な短絡によって、自分という
対象を獲得することで初めて問うことができる。
テルグが富を築いていた仕組みをどこかで見た気がしたのだが、
おそらく攻殻機動隊S.A.C 2nd GIGだ。
サラミ法という名前が付いているらしい。
1作目 彼女は一人で歩くのか?
2作目 魔法の色を知っているか?
3作目 風は青海を渡るのか?
4作目 デボラ、眠っているのか?
Wシリーズのテーマについて、
バナナ型神話において、獲得した知恵を使うことによる、ということを書いた。
石とバナナの再選択は可能なのだろうか。
An At a NOA 2016-08-28 “バナナ型神話”
知恵を駆使して構築したシステムが如何に上手くいっていようとも、
それが生命の樹という石として固定化してしまうこと自体が、
結局は死んでいる状態とみなされてしまう。
ディストピアは、エントロピィ最大という特別の場合だけでなく、
エントロピィ生成速度最小の状態全般のことを言うのであり、
ウォーカロンが頭脳だけで生きているテルグという村も、そういった
石の一つとみなされるのだろう。
その中において、フーリのような発散の要素が生じたのは、
テルグがシステムとして完全ではなかったことを示している。
外部からフーリやハギリというエネルギィが供給され、テルグ
という系のエントロピィが下げられたのだとみれば、このストーリィ
全体がテルグという生命が生きた過程ともみなせる。
最終的にテルグは固定化を免れ、外部からエネルギィを供給される
ことで、より多くのエントロピィを吐き出せるようになっていったと
思われるが、比較的生きている状態になったと言えるだろうか。
どこからが生きていて、どこからは生きていないと一線を引くことは
困難だ。(中略)比較的生きている、比較的生きていない、といった
評価をするべき事象だということ。
森博嗣「私たちは生きているのか?」p.115
ハギリは夢の中で生命と複雑さを関連付けていたが、 より複雑で
あろうとするのは、パラメタを増やすことが定常状態を回避する
ことにつながる可能性があるからだと言えるだろうか。
そうだとすれば、制限ボルツマンマシンでモデル化したシステムは
隠れ層の幅と深さを増せば増すほど、より生きている状態に
近づけるだろう。
そして、それだけ複雑にしたモデルの中に組み込まれたショート
サーキットによる単純化が、投機的短絡=理由付け=意識として
人間を特徴付けるのではないかと思う。
「コーヒーを飲んだからだ」ローリィが言った。というシーンを始め、理由を気にする場面にそのことがよく
「何が?」
「トイレにいきたくなった」
「あそう……」そういうのは、人間の証拠ではないのか、
と問いたかったが、その質問はやはりやめておいた。
同p.48
表れていると感じる。
「その……、思考の複雑性が、数学を生んだのです」というのも、興味深い指摘だ。
「単純な思考装置は、物事を単純に考えようとは思わない、
ということですね」
同p.194
十分な複雑性を有することで適度に固定化を回避した上で、
理由付けというつなぎ変え可能な短絡によって、自分という
対象を獲得することで初めて問うことができる。
生きているものだけが、自分が生きているかと問うのだ。p.s.
同p.262
テルグが富を築いていた仕組みをどこかで見た気がしたのだが、
おそらく攻殻機動隊S.A.C 2nd GIGだ。
サラミ法という名前が付いているらしい。
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