2017-06-29

ゲンロン5

「ゲンロン5」を読んだ。
特集は「幽霊的身体」である。

「幽霊的」という言葉は、何かしらのズレに関連している。
ズレと言うからには複数のものがあって、そこには差がある
はずだが、何かを基準にとって「共通部分+差分」と分けて
差分だけを扱うのは「幽霊的」ではない。
複数のものを同時に捉えたときにみえてくるズレを、そのまま
扱うのが「幽霊的」なのではないかと思う。

共同討議1「記号から触覚へ」の中で、東浩紀が提起した
  • 仮想現実
  • 死者の追悼
  • 政治やイデオロギー
という三つの問題、あるいは演劇や舞踊といったテーマは、
過去と現在、物理的身体と心理的身体、現実と虚構、現状と
理想、といったいろいろなものの間にあるズレが「幽霊的」
に捉えられ得ることを示す。
これらの間にいくらでもあるズレを、差分として切り出す
ことで「幽霊的」なものを除霊しようとしたのが近代で
あったが、それはことがらをことばで置換し尽くすことと
同義であった。
ズレを「幽霊的」なままに扱うということは、ことばに
ならないことがらを受け容れることであり、ユートピア=
ディストピアに陥らないユートピアの在り方にも通ずる。

共同討議1で梅沢が述べるように、確かに震災後に現実の
情報がインターネット上に溢れるようになった感がある。
おそらく、震災時の連絡手段としてtwitterが機能したあたり
から堰を切ったように流れ込み始めたのだと思うが、それは
同時にプライバシー等のいろいろな問題を引き起こしている。
現実はもはやインターネットを虚構として切り分けていられ
ないし、インターネット(あるいは広く情報技術)も物理的
身体の影響を無視できないはずなのだが、これらを支えている
国家や科学といった枠組みが、近代を引きずらざるを得ない
ところに限界があるのかもしれない。

共同討議1の注5で
芸能とは共同体の利益のために行われるものであり、それに
対して芸術とは「信仰を等しくせざるものが現れ、他者の
視線が出たとき」に生じるものである
共同討議1「記号から触覚へ」
「ゲンロン5」p.41
という鈴木忠志の言葉が引用されている。
信仰とは、心理的身体に固定化した部分をもつことで行われる
真への短絡であり、同じ正義を共有することで集団が出来上がる。
その集団の中では、信仰を守るための芸能は技術として発展し、
複製の完全性が求められる。
技術としての芸能が芸術になるには、複製の不完全性によるズレが
必要であり、それをもたらすのが他者の視線である。
鈴木忠志の言葉を踏まえ、幽霊的なものを失うことで芸術は芸能に
堕ちてしまうと東は述べており、これはまさに「ゲンロン0」の
観光客の哲学と通底する話だろう。
あらゆることがらをことばに置き換え、芸能という技術だけに
頼るというのは、皆が同じことを信仰する状況であり、それは
ユートピア=ディストピア以外の何ものでもない。
「ほかの答えがなければ、それひとつで良い答えなんてないの」
オルダス・ハクスリー「島」p.76
インタビュー「人間は足から考える」の中で、西洋が忘却している
として鈴木忠志が批判する下への意識も、同じ文脈のように思う。
直立二足歩行から始まり、どんどん地面から離れていく中で、
物理的身体と心理的身体の関係は崩れてきた。
心理的身体が物理的身体を制御しようとするのでもなく、心理的
身体をなくそうとするのでもなく、両者がどのように「幽霊的」
に共存し得るかを実践するのが、演劇や舞踊の醍醐味であり、
難しさでもあるように思う。

共同討議2「演劇の起源と幽霊の条件」ではまた別の視点として
時間のズレの話が出てくる。
型とはつねに過去から来たアナクロニックなものであり、
現在に入り込んだ別の時間である
共同討議2「演劇の起源と幽霊の条件」
「ゲンロン5」p.68
という東による鈴木忠志「演劇とは何か」の読みは、時間軸上の
「幽霊的」な在り方に対応している。
木ノ下裕一が語る、歌舞伎における〈名跡〉や〈型〉、幽霊の話も
これに関連している。
古典芸能における幽霊は、過去をあぶり出すための装置である。
同時に、〈過去そのもの〉である。
(中略)
歌舞伎には常に複数のレイヤーがかけられ、観客は、それらの
層の襞の中で、時間軸を超越しながら遊ぶ。
木ノ下裕一「幽霊としての歌舞伎」
同p.145
型を行う物理的身体と物語る心理的身体の共存が、そのまま同時に
時間的な共存でもあるという構造自体もまた、「幽霊的」に共存
しているというのがとても面白い。

そこからさらにフロイトの「不気味なもの」の話に発展して、
不気味の谷現象の話が出てくるが、物理的身体の抽象に耐える
ためのディテールをいくら精緻化しても、心理的身体の抽象
とのズレがある限り、不気味の谷は埋まらないのだと思う。
不気味さの経験というのは、たんに疎遠さへの嫌悪や
警戒感だけではなく、親しさの経験とも混ざっている。
共同討議2「演劇の起源と幽霊の条件」
同p.69
熱素やエーテルという幽霊が除霊されたのと同じように、
「わたし」という自意識が幽霊として除霊される未来も
あり得るだろうか。

複数の集団に同時に属することができるのが人間の特徴であり、
演劇の起源かもしれないという平田オリザの指摘は興味深い。
人類、国家、都市、家族といったいろいろなスケールの集団に
同時に属しているために、集団ごとに振るまい分けるところから
演劇が始まるというのは、鈴木忠志が指摘する他者の視線の話
とも通ずるところがあると思う。
それはまた、飴屋法水が演劇を「半々」なものと表現し、
いま自分が「そうではなかった可能性」を半分は内包しつつ生きる。
それが演劇がやっていることです。
対談「演劇とは「半々」である」
同p.99
と述べていることでもある。
建築にとっては、ビルディングタイプの多様さと関係する
かもしれない。
近代は、住宅の機能を括り出すことで公共の施設を生み出して
きたが、それは各集合が直和になるような切り分け方であり、
人間が複数の集団に属していることの現れというよりは、
人間をプロパティの集合とみなすことの現れだったように思う。
プロパティに解体されることなく、複数の集団に属しながら
「幽霊的」でいる人間のための建築はどのようなものだろうか。

2017-06-27

意識と本質

井筒俊彦「意識と本質」を読んだ。

一言に「本質」と言っても、立場によってその意図
するところは異なる。
イスラーム哲学では「本質」は「マーヒーヤ」と
「フウィーヤ」に区別される。
前者は「それは何か」という問いへの答えとして、
XをしてXたらしめるX性に対応する普遍的「本質」、
後者は「これであること」=「これ性」を意味し、
具体的なXのリアリティに対応する個体的「本質」。

いずれの「本質」も実在しないとする立場、
フウィーヤこそが実在するとする立場、
マーヒーヤこそが実在するとする立場。
マーヒーヤを実在する「本質」とする中でも、
意識のどの層で受け止めるかについて、
  1. 深層意識とする立場
  2. 1よりもさらに深層にあるとする立場
  3. 表層意識とする立場
というように、いろいろな「本質」の捉え方があり、
朱子やマラルメ(1)、密教やカッバーラー(2)、孔子や
プラトン(3)を取り上げながら、マーヒーヤの捉え方に
ついては詳述されている。
マーヒーヤだけでなくフウィーヤも含めて、何が
「本質」なのか、何が「実在」するのかを問うのが
意識とは何かという問いであり、あるいはむしろ、
意識そのものですらある。
どれが正解かという話は出てこないし、文脈的にも
あまり意味のない話である。
むしろ積極的に、意識を超えた意識、意識でない意識も
含めた形で、意識なるものを統合的に構造化しなおそう
とする努力を経てはじめて新しい東洋哲学の一部としての
意識論が基礎付けられるのであろう。
またそこにこそ東洋的意識なるものを特に東洋的意識論
として考察する意義がある、と私は思う。
井筒俊彦「意識と本質」p.101
東洋哲学一般の一大特徴は、認識主体としての意識を
表層意識だけの一重構造としないで、深層に向かって
幾重にも延びる多層構造とし、深層意識のそれらの
諸層を体験的に拓きながら、段階ごとに移り変わって
いく存在風景を追っていくというところにある。
同p.316

井筒は、意識の構造モデルとして、表層意識(A)、「想像的」
イマージュの中間地帯(M)、言語アラヤ識の領域(B)、無意識(C)、
意識・存在のゼロ・ポイントからなるものを提案する(p.214)。
意識・存在のゼロ・ポイントは無相の情報、Cは物理的身体、
A〜Bは心理的身体にそれぞれ対応付けられる。
心理的身体の中でも、Bはハードウェアの役目を果たし、
意識をもった人間が集団を形成することを可能にする。
中間地帯のMは理由付けのつなぎ替え可能性を表し、
投機的短絡が生じる場所となる。
表層意識のAは理性に対応し、Mで生じた短絡の投機性が、
理由をあてがうことによって和らげられる。

言語アラヤ識は心理的身体の領域に属すが、当然Cの物理的身体の
センサ特性の影響も受けると考えられ、それは人間にとっての正義
としての倫理につながる。
中間地帯Mはカッバーラーにおいては神の内部と想定されるが、
これはMの全体を表層意識Aの行う理由付けの終着点とみなすという
ことであり、M自体を大いなる原因である神とみなせることを表す。
神の内部に対して物語るというのは、理由の連鎖の開始点において、
どのような縫合手術をするかということに対応している。
中間地帯Mで投機的短絡によって発散するつなぎ方のうち、
他の心理的身体との通信でコンセンサスが成立したつなぎ方が
表層意識Aにのぼり、現実と呼ばれるようになる。
そのときのコンセンサスの名残りが理由である。
理由とは、コンセンサスの名残である。
An At a NOA 2016-11-15 “理由
サルトルの言う「嘔吐」は、人間がコンセンサスの名残りを欲し、
無意味に耐えられないために起こり、それを回避するために人間は
不確定性にさえ理由付けする
元々充足理由律は表層意識Aだけに適用されていたかもしれないが、
大いなる原因である神が死んだ世界においては、中間地帯Mがあばかれ、
そこにも充足理由律が侵入する。
本来は網状に絡まっていた中間地帯Mにも充足理由律を適用することで、
それを一本の連鎖として想定しようとするのが、充足理由律に従って
突き進む近代以降の世界観である。

以上のようなこともまた一つの物語であり、それが正解なのかという
こととは関係なく、物語ること自体が意識なのだと思う。
充足理由律がなければ物語ることもできないのかもしれないが、
充足理由律によって意識・存在のゼロ・ポイントまでが一直線に
つなげられてしまったら、物語ることはできなくなり、ユートピア=
ディストピアが訪れる。
そのせめぎ合いの中で、人間は、あるいは意識は、バランスを崩さずに
いられるだろうか。
人間はどこまで充足理由律を緩めることができるだろうか。
An At a NOA 2017-5-10 “比較可能律あるいは樹状律と充足理由律

2017-06-26

This is a pen.

これはペンです。

これはペンですぅ。
これはペンですお。
これはペンですか。
これはペンですが。
これはペンですし。
これはペンですぜ。
これはペンですぞ。
これはペンですた。
これはペンですっ。
これはペンですと。
これはペンですな。
これはペンですね。
これはペンですの。
これはペンですよ。
これはペンですわ。
これがペンです。
これぞペンです。
これでペンです。
これとペンです。
これなペンです。
これにペンです。
これのペンです。
これもペンです。

Apes in shit.
Spin is  heat.
Eat his nips.
Ship in east.

2017-06-22

而今の山水

「而今の山水」は、現にそれぞれ山と川として
分節されているにもかかわらず、山であること、
川であることから超出して(すなわち、それぞれの
「本質」に繋縛されることなしに)自由自在に
働いているのだ
井筒俊彦「意識と本質」p.144
本来はつなぎ替え可能である投機的短絡としての
理由付けは、言葉に置き換わることでつなぎ替え
可能性を失い、固定化される。
それが、山や川が山であることや川であることという
「本質」に繋縛されている状態である。

理由付けという抽象過程としての心理的身体の一部が、
このように言葉として固定化することで、仮想のハード
ウェアが出来上がり、それは物理的実体のハードウェア
に依存しない集団を形成するきっかけとなる。
固定化した領域は、常識、習慣、主義、主張、信念、
真理等として現れ、集団を維持することとこれらを維持
することは表裏一体である。
真理なしには集団は存在できない。
集団なしには真理は存在する資格がない。
An At a NOA 2016-06-27 “集団と真理
山が、山というものとして、山という言葉によって抽象
されることが、ハードウェア化した部分を有するという
ことであり、この状態は「而今の山水」ではなく、
ただの「山水」である。

井筒は「山水」を分節(Ⅰ)、「而今の山水」を分節(Ⅱ)と
呼び、その間に無分節の状態を設けている。
無分節というのは理由付けによる抽象を放棄した状態
であり、そこにおいて物理的身体の抽象が機能している
のかは定かではない。
物理的身体による抽象もないとしたら、ただ無相の情報を
無相のままに放置することになり、何も認識すらせず、
一切の抽象を放棄した状態である。
それは生命ではない。
物理的身体による抽象が機能しているとしても、理由付けを
一切行わないことによって、生命ではあるが、人間ではなく
動物となる。
そこは無我の境地ではない。

そこを超えた先にある、心理的身体が全く固定化した部分を
有しない状態が「而今の山水」である。
そこにおいては、物理的身体だけがハードウェアとして機能し、
それが基盤となるからこそ、心理的身体が存分に発散できる。
山が山として物理的身体によって分節されていながら、同時に
発散する心理的身体によってつなぎ替え可能なことが言葉に
よって拘束されていない、すなわち山であることに繋縛されて
いない状態である。

恋が配偶者選択のための特徴抽出であり、「而今の山水」でも
あるというのは、物理的身体に依拠することで、その対象が
理由抜きによいものという判断が先行しつつ、いかようにも
理由付け可能な対象としてあるという状態である。
理由を言葉にしてしまった瞬間、「而今の山水」は「山水」と
なり、恋は冷めてしまう。

オルダス・ハクスリーが「島」で描いたパラも、シンボル化に
抵抗し、「而今の山水」を目指すユートピアである。
パラでは抽象的物質主義よりも具体的物質主義がよしとされ、
さらにそれを具体的精神性まで変容させることを目指している。
「ことばとことがらのちがい」である。
An At a NOA 2017-01-28 “
「ことばになったことがら」は、シンボルとして抽象される
ことで、同一な部分だけが残り、差分は棄てられてしまうため、
再現性の代償としてその対象への集中力を損なう。
処理能力の向上には向いているかもしれないが、すべてが
シンボル化された世界はある種のディストピアである。
An At a NOA 2017-01-29 “ことばになったことがら” 

「而今の山水」の話を思うと、この文章、あるいはこのブログを
言葉のかたちで留めることにも、自ずと限界があることがわかる。
先人たちは、詩や俳句、回文や掛詞のようなかたちで、言葉の
音韻や文字数、配列をあえて明示的にハードウェアとすることで、
それ以外の言葉の要素に解釈の余地を与え、言葉の固定化から
免れようとしてきたようにも見える。
散文の場合には、同じようなことを言葉を替えて何度も表現する
ことが、固定化の回避だったと言える。

投機的短絡のもっているつなぎ替え可能性を少しでも残せるように、
同じようなことを何度も表現することでできた解釈の余地の中に、
おぼろげながら佇んでいるものを、意識は意識とみなすのかもしれない。

2017-06-21

青白く輝く月を見たか?

「青白く輝く月を見たか?」を読んだ。
1作目 彼女は一人で歩くのか?
2作目 魔法の色を知っているか?
3作目 風は青海を渡るのか?
4作目 デボラ、眠っているのか?
5作目 私たちは生きているのか?

「先生とお話ししていると、面白いです」オーロラは言った。
「それはですね、私が面白くしようと思っていないから
 なんですよ」
「はい、私の結論も同じです」
森博嗣「青白く輝く月を見たか?」p.274
Wシリーズの面白さは、そのような面白さだ。
ハギリからの手紙を受け取るオーロラのように、
森博嗣の小説を読むことで、投機的短絡としての
意識や、意識をもつことが異常になった世界、
といったことについて考えることが、ただ面白い。
まさにそれ自体が、理由付けという抽象過程であり、
意識と呼ばれるべきものである。

頭脳回路の局所欠損によるニューラルネットの回避応答が、
偶発的な思考トリップを起動する。
同p.267
回路に生じたちょっとしたエラーによって、抽象過程
における排中律や無矛盾律が成立しなくなる。
それが投機的に短絡を起こしているように見えて、
埋め合わせをするかのように、理由があてがわれる。
それが、
なんと、ぼんやりとした思考、行き当たりばったりの
行動だろう。
同p.241
と形容される、ある種の人間らしさにつながる。
この矛盾をはらんだ意識という判断機構が、いつか
病気として認識されるかもしれないということを、
伊藤計劃「ハーモニー」を読んで考えたが、
Wシリーズにもこの問いは含まれている。
この種の純粋な人工生物たちにとって、人間は
いわば病原菌のようなものかもしれない。
同p.181
投機的短絡はつなぎ替え可能であるところに利点が
あるのに、一時的な短絡を言葉として固定してしまう
ことで、矛盾をもたらす病原菌に見えてしまう。
そうそう、君たちが学ぶのは、言葉になったデータなんだ。
そこが、ラーニングの最も大きな落とし穴といえる。
同p.248
というハギリの指摘を、どのようにクリアしていくかが、
ウォーカロンやトランスファを人間に近づける上で最も
難しいところだろう。
言葉を経由しないラーニングを、ハギリは恋と呼んだが、
それは「而今の山水」という悟りの境地に似ているように
思われる。

意識というソフトウェア的なエラー導入機構と、
生殖や発生というハードウェア的なエラー導入機構の
両方を備えていた人間は、マガタ博士によって後者を
剥奪され、前者の占有権を失いつつある。
マガタ博士が構築を目指す共通思考は、知恵の樹の実と
生命の樹の実を等しく蒔いた世界だろうか。
「なるほどね」僕は頷いた。「わからないでもない」
「わからないでもない、という判断がかなり高度な
 認識処理です」
同p.103

2017-06-19

人間の経済

宇沢弘文「人間の経済」を読んだ。

とても思想に富んだ経済論だというのが率直な感想だ。
最近は分野に限らず思想を前面に出さないことが多い
ように思う。
こうあるべき、ということを主張しづらいというよりは、
こうではない正義があり得ることを想定しない正義が
受け入れられづらくなってきているということか。

近代において確立された個人という単位は、心身二元論
からの帰結として、物理的身体に制限されない人間像を
想定可能にした。
プロパティの集合として定義された人間によって駆動
されたシミュレーションをなぞるとき、プロパティの
集合として振る舞うことが不可避的に要求される。
宇沢ははっきりとこのことを拒否し、物理的身体に
一致した心理的身体の区分としての人間を重視する。
人間を人間たらしめるハードウェアとして物理的身体
にこだわり、そこは変わらないものとして維持すべし
というのが、宇沢の思想のハードウェアとなっている
ということだと思う。

基盤としてのハードウェアは、固定化への収束という
危険性をはらむが、それなしで発散することは空中分解
につながるため、ハードウェアのない存在はそうそう
長く維持しないと考えられる。
人間として、あるいは思想として、どこにどのような
ハードウェアを想定するか。
それはすなわち、道徳を設定するということだと思う。
そう考えると、道徳というのは、抽象過程の破綻を避ける
ための、発散する特性を制御する枠組みだと言える。
An At a NOA 2017-06-10 “技術の道徳化
道徳は、技術とともに常に変化する可変性の殻である。
思想を前面に出さない議論が増えたように感じるのは、
技術による変化が急激になっているからだろうか。
急激に変わりゆく道徳の内容に気を付けていないと、
ユートピア=ディストピアに陥るのは簡単である。

2017-06-16

都市と星

アーサー・C・クラーク「都市と星」を読んだ。

これはどこまでも固定化と発散の物語で、
それだけと言ってしまえばそれまでであるが、
これもまたバナナ型神話の一つである。

人間、ダイアスパー、リス、地球、太陽系、
銀河系といった、それぞれの境界の内側で
成立する秩序。
ダイアスパーとリスは、都市と田舎、肉体と
精神、東西陣営といった、いろいろな対比
構造になぞらえられると思うが、何であろうと、
一つの基準のみに従うこと自体がユートピア=
ディストピアという固定化を生み出す。
おたがい、相手から学ぶものがなにもないと
思いこんでいる状況は―どちらもまちがって
いることの証ではありませんか?
アーサー・C・クラーク「都市と星」p.282
〈中央コンピュータ〉が体現する、
“いかなる機械も、いかなる可動構造を持たない”
同p.289
という機械の理想像も、固定化の末路の一つであり、
この理想像への憧れはあるものの、全体のストーリィ
の中では、やはり否定的なものとして捉えるべき
ものだろう。

その固定化へと収束しつつあるユートピアに、
発散をもたらし得る、ケドロン、アルヴィン、
ヴァナモンドといった子供を挿入することが、
ユートピアを回避する唯一の道であるという
サイバネティックス的な視点はとても好きだが、
同じ構造を幾重にも重ねているためか、少々
長ったらしく感じてしまう気もする。

〈狂える精神〉を生み出した実験について、
人類がさまざまな種属との接触によって知ったのは、
各種属の持つ世界観が、それぞれのそなえる肉体構造と
感覚器官に深く依存しているということでした。
同p.435
としているあたりには、ユクスキュルの
思想の影響もみられる。
ハードウェアから切り離した発散機構が
機能しないということには同意できる。
固定化に向かう秩序と通信するための
共通基盤としてのハードウェアを有しない
発散は、単なるバグでしかない。
理由付けに相当する判断機構をAIに実装したとして、
そんな機構は自己正当化を続けるバグの塊のように
みえるだろう。
An At a NOA 2017-01-09 “

ジェレインが構築したヤーラン・ゼイの
イメージがジェセラックにダイアスパーの
創設を語るシーンでは、個という意識もまた、
近代が作り上げたシェルターなのではないか
ということを連想した。
パッケージ化された「わたし」という意識の
軛から解き放たれるときは来るだろうか。
きみの精神には、外界に対する恐怖、都市に
閉じこもりたいという強迫観念、都市の住民
全員とダイアスパーを分かち合っているという
意識などが植えつけられていた。
しかし、いまのきみは、その恐怖が根拠のない
ものであることを知っている。
(中略)
いま、その軛からきみを解き放とう。
わたしのいう意味がわかるね?
同p.452