2017-05-06

マルセル・ブロイヤー展

国立近代美術館で開催中のマルセル・ブロイヤー展に
行ってきた。

ちょうど読んでいるティム・インゴルド「ラインズ」の
言葉を借りれば、近代において、外部から軌跡が排除され
糸だけが残ると同時に、軌跡は内部へと回収された。

マルセル・ブロイヤーは、本能に根ざしたものを生み出す
ことこそがモダンデザインであるとしたとのことだが、
理性に相当する軌跡を排除し、本能に相当する糸だけを
外部に残すというのはちょうど近代化に符合する。
木材は角材、スチールはパイプとして用いられることによって、
大量生産のラインにのることができ、軌跡は拭い去られる。

マルセル・ブロイヤー展以外に、MOMATコレクションも
観てきたが、結構面白い作品も多かった。
ラインつながりではクレーやカンディンスキーの作品は
もちろんだが、加山又造の「春秋波濤」という屏風も
印象に残った。

工芸館の「動物集合」は時間がなくて見れなかったので
また今度。

cogito ergo sum

「cogito ergo sum」というデカルトの名言は、
理由付けになっている。
原因は「我思う」であり、結果は「我あり」だ。

もちろん、この命題によって、我があるから我は
思うのだとは言えない。
一般に、元の命題の逆は必ずしも真ではないからだ。

理由付けという思考があること自体に理由付けする
ことで得られるのは、理由付けをしている何かであり、
その何かを我とみなしている。
デカルトのコギト命題は、この意味で捉えれば妥当
だと思える。

我という想定は充足理由律に支えられており、
充足理由律という仮定が絶対的でない限り、
我もまた絶対的ではあり得ない。

2017-05-05

統計

統計的手法というのは、人間がすべてを理由付けによって
把握するにはあまりに大量なデータを、何とか理由を保持
しながら扱うためのものだと思う。

もし理由を捨て去ることができるのであれば、統計の代わりに
ディープラーニングのような特徴抽出によって、理由を介さずに
把握し、判断を下すこともできるだろうが、その判断は理性的な
ものというよりは本能的なものである。

無我の境地に達するという意味では、ある意味理想なのかも
しれないが、意識は本当にそれを理想に掲げられるのかという
疑問は残る。
仏教的世界観はその方向に合致しているが、近代以降の、
個の意識を前提とした世界観の下では難しいように思う。
統計学が近代以降に発展したことには、何かしらの符合が
あるようにも思われる。

2017-05-04

ダマシ×ダマシ

森博嗣「ダマシ×ダマシ」を読んだ。
Xシリーズの最終話らしい。

加部谷恵美とつながったところで終わったけど、
Gシリーズとの時系列順が気になるな。
安藤順子は雨宮純なのだろうか。
ジグβやキウイγを読み返してみるか。

2017-05-03

19世紀パリ時間旅行

ANAの機内誌「翼の王国」の鹿島茂の連載で知った展覧会、
練馬区立美術館の「19世紀パリ時間旅行」に行ってきた。

鹿島茂氏のコレクションをベースに、19世紀に行われた
パリ改造をテーマにした展覧会なのだが、絵画、写真、
服飾や地図といった展示物に加え、そこに添えられた
説明によって、改造前後のパリが描き出されている。

ちょうど「パサージュ論」をパラパラと読み通している
ところなので、ノスタルジックに描かれる改造前の風景
から、写真、モード、万博といった大量複製の影響が
顕著になる改造後の風景への移り変わりをとても興味深く
楽しめた。
蒐集において決定的なことは、事物がその本来のすべての
機能から切り離されて、それと同じような事物と、
考えうるかぎりもっとも緊密に関係するようになるという
ことである。
(中略)
真の蒐集家にとって、この体系のなかで一つ一つの物は、
その時代、地域、産業や、それの元の所有者に関する
あらゆる知識を集成した百科全書となるのである。
事物の各々を一つの魔圏のうちに封じ込めることこそ、
蒐集家の行うもっとも深遠な魔法である。[H1a, 2]
ヴァルター・ベンヤミン「パサージュ論」第2巻p.9
展覧会というのは、蒐集家による深遠な魔法の一形態である。

図録もとても密度が濃くてよい。
展示替えがあるらしいので、後期になったらまた行こう。

2017-05-02

LEGO

LEGOはいいよね。
抽象的なものから具象を想像、創造して遊べるのは
とても人間っぽい。

友人の結婚式の紹介ムービーをLEGOと連続写真で作ったのも、
もう4年半前である。

体で覚える

体で覚えることができる行為は、深層学習のような理由を介さない抽象過程によって複製した方が、複製の再現性が高まる。

鋼構造建築の分野で言えば、例えば溶接はこれに当たる。溶接工の体、溶接棒、溶接対象に位置センサを付け、視覚、聴覚、温度、湿度、風等の情報と同期させると、溶接作業に関わる一連の時刻歴データが手に入る。いろいろな板厚、鋼種、作業姿勢、気候条件の下でとったデータを下に深層学習することで、「自然な」溶接作業の動きが複製できるだろう。限られたデータのみ用いるため、この複製は完全なものにはならないが、データの種類と粒度を上げることで、必要な精度を確保することはできるだろう。
そして、いまポールの目の前にある、このボックスの中の小さいテープの輪、これこそはあの日の昼さがりに旋盤と相対したルディ―動力の伝達者、スピードの設定者、切削工具の調節者のルディだ。
カート・ヴォネガット・ジュニア「プレイヤー・ピアノ」p.25

現状では、言葉である程度の作業内容を伝えた上で、後は人間が物理的身体を駆使してトライアンドエラーで作業を複製する。後半部分は自動化できるのではないかということだ。
作業手順は心理的身体、コツは物理的身体の領域である。
An At a NOA 2016-12-05 “FPGAの透過的利用
引用したツイートの内容に対して、職業訓練校と大学を分離して運用する案を唱える人もいて、現状としてはそれが妥当な解決方法なんだろうなとは思う。しかし、職業訓練校に対して期待されるのが、体で覚えられる類の行為の獲得なのであれば、それはいつか人間の物理的身体にやらせることではなくなる可能性もある。

上記のような理由を介さない複製が行えるようになると、ウィーナーが指摘するような、奴隷労働との比較が生じる。
しかしながら奴隷労働と競争する条件を受けいれる労働は、どんなものであっても奴隷労働の条件を受けいれることであり、それは本質において奴隷労働にほかならない。
ウィーナー「サイバネティックス」p.74
何かを体で覚えることは、英語で言うとmasterであり、ある行為を理由を挟まずにできることは、人間の歴史において長らく憧れの対象だったように思う。これは心理的身体に対する物理的身体の優位性を示しているだろうか。人間が物理的身体以外のハードウェアに依存するようになったとき、「体で覚えるmaster」ことが「奴隷slave」に至る道へと変わってしまうのかもしれない。