安全は外部の評価であり、安心は内部の評価である。客観と主観の違いと言い直してもよい。
近代以降、一般性という名の交換可能性を推し進める中で、安心よりも安全が優先されてきたように思われる。その反動として、安心を重視する視点が現れるのはもっともであるが、安心ばかりに振れてもバランスがとれない。
それぞれが内部で安心しているだけでは、共通の基盤がなくなることで生じる齟齬も多くなり得るということは、常に心に留めておくべきである。
2016-12-08
2016-12-05
FPGAの透過的利用
@
13:25
Linux OSからFPGAを透過的に利用する構想。
文字列処理をCPUからFPGAへオフロードで
10倍速になった研究結果をミラクル・リナックスが発表
ハードウェアとソフトウェアの境界は、こうして
徐々に薄れていく。
それは、物理的身体と心理的身体が膠着していく
ことのように思える。
優れた職人の物理的身体は、その作業に特化した様が
「ペンだこ」のようなかたちで表出することがあるが、
そのセンサ特性を手に入れたとして、汎用型の心理的身体は
技術を手に入れることになるだろうか。
無意識は物理的身体に含まれるとすれば、技術としては
手に入った状態と言えるだろうが、それを運用するのは
やはり心理的身体の領分のように思われるので、飲み込みが
早い職人のたまごになる、といったところか。
いくら職人でも、気がつくとものができているという
ことはなく、作業手順は説明ができるが、コツは言語化
できない、ということなのではないかと想像される。
作業手順は心理的身体、コツは物理的身体の領域である。
文字列処理をCPUからFPGAへオフロードで
10倍速になった研究結果をミラクル・リナックスが発表
ハードウェアとソフトウェアの境界は、こうして
徐々に薄れていく。
それは、物理的身体と心理的身体が膠着していく
ことのように思える。
優れた職人の物理的身体は、その作業に特化した様が
「ペンだこ」のようなかたちで表出することがあるが、
そのセンサ特性を手に入れたとして、汎用型の心理的身体は
技術を手に入れることになるだろうか。
無意識は物理的身体に含まれるとすれば、技術としては
手に入った状態と言えるだろうが、それを運用するのは
やはり心理的身体の領分のように思われるので、飲み込みが
早い職人のたまごになる、といったところか。
いくら職人でも、気がつくとものができているという
ことはなく、作業手順は説明ができるが、コツは言語化
できない、ということなのではないかと想像される。
作業手順は心理的身体、コツは物理的身体の領域である。
ゴーストの実在性についての覚書
@
11:48
「絞首台の黙示録」のときに書いたゴーストの
実在性について。
物理的身体の完全な複製が行えれば、オリジナルと
コピーの差分は存在しない。
むしろ、差分が存在しないことが完全な複製の
要件である。
その際にゴーストが失われるように見えるとすれば、
それは見る側に存在していたものである。
意識は、入力される情報に秩序が先行して内在されて
いるのを感じるとき、そこに理由をみてしまう。
それは神の意思かもしれないし、他者の意識かもしれない。
あるいは、自らの意識の可能性もある。
物理的身体の複製によって情報が入力される回路が
分離されると、コピー先の心理的身体で別の抽象が
行われることになり、これは、コピー元の心理的身体
にとっては、外部での秩序形成に相当する。
コピーされた当人は、秩序が外部化されることで、
コピー先の抽象機関は他者に感じられるだろう。
それ以外の人間にとっては、コピーされた時点では
両者に違いがないものの、抽象による変化の蓄積
としての記憶=過去が複数系統に分かれることで、
別の人物へと分離したように感じられるだろう。
しかし、オリジナルとコピーの、どちらかにゴーストが
存在し、もう一方には存在しないとするのは、受け手側の
都合でしかない。
受け手の意識内で、片方がコピーされたものだという
知識が織り込まれることで、その受け手にとっては
ゴーストの複製が失敗することになる。
攻殻機動隊では、ゴーストダビングの過程でオリジナルの
ゴーストが失われる問題が描かれたが、それはつまり、
オリジナルではなくコピーにゴーストを見ることによる、
受け手側でのオリジナルからのゴーストの奪取である。
物理的身体と心理的身体はいずれもセンサ特性を有し、
それによって個が特徴付けられる。
同一のセンサ特性を共有するのであれば、物理的身体や
心理的身体が単数だろうが複数だろうが、一人の人間で
あり続けられるだろう。
臓器移植のような、物理的身体と心理的身体の依存性の問題は、
センサ特性の一致度を担保することで、ぎりぎりのところまで
分離する方向に進むのかもしれない。
AIは抽象機関そのものをつくることでゴーストを立ち上げ
ようとするが、外部に抽象機関を挿入するという点では、
VRもまた、一種のゴーストダビング装置なのかもしれない。
実在性について。
物理的身体の完全な複製が行えれば、オリジナルと
コピーの差分は存在しない。
むしろ、差分が存在しないことが完全な複製の
要件である。
その際にゴーストが失われるように見えるとすれば、
それは見る側に存在していたものである。
意識は、入力される情報に秩序が先行して内在されて
いるのを感じるとき、そこに理由をみてしまう。
それは神の意思かもしれないし、他者の意識かもしれない。
あるいは、自らの意識の可能性もある。
理由律に絡め取られたセンサは、原因を求めて彷徨い歩く。
それは、神、他者あるいは自己に出会っただろうか。
An At a NOA 2016-07-23 “ウロボロス”
物理的身体の複製によって情報が入力される回路が
分離されると、コピー先の心理的身体で別の抽象が
行われることになり、これは、コピー元の心理的身体
にとっては、外部での秩序形成に相当する。
コピーされた当人は、秩序が外部化されることで、
コピー先の抽象機関は他者に感じられるだろう。
それ以外の人間にとっては、コピーされた時点では
両者に違いがないものの、抽象による変化の蓄積
としての記憶=過去が複数系統に分かれることで、
別の人物へと分離したように感じられるだろう。
しかし、オリジナルとコピーの、どちらかにゴーストが
存在し、もう一方には存在しないとするのは、受け手側の
都合でしかない。
受け手の意識内で、片方がコピーされたものだという
知識が織り込まれることで、その受け手にとっては
ゴーストの複製が失敗することになる。
攻殻機動隊では、ゴーストダビングの過程でオリジナルの
ゴーストが失われる問題が描かれたが、それはつまり、
オリジナルではなくコピーにゴーストを見ることによる、
受け手側でのオリジナルからのゴーストの奪取である。
物理的身体と心理的身体はいずれもセンサ特性を有し、
それによって個が特徴付けられる。
同一のセンサ特性を共有するのであれば、物理的身体や
心理的身体が単数だろうが複数だろうが、一人の人間で
あり続けられるだろう。
臓器移植のような、物理的身体と心理的身体の依存性の問題は、
センサ特性の一致度を担保することで、ぎりぎりのところまで
分離する方向に進むのかもしれない。
AIは抽象機関そのものをつくることでゴーストを立ち上げ
ようとするが、外部に抽象機関を挿入するという点では、
VRもまた、一種のゴーストダビング装置なのかもしれない。
2016-12-04
SHIROBAKO
「SHIROBAKO」を観た。
アニメ制作の現場が主題だが、建築の現場にも
通ずるところが多く、とても感銘を受けた。
建築では施主が原作者やスポンサー、意匠設計が監督や
プロデューサー、構造設計や設備設計が脚本や演出、
現場監督が制作進行、職人が原画や3D、美術、声優等に
あたるだろうか。作監や美監は主任技術者か。
原作者、監督、デスク、作監等が、それぞれ自分の基準を
ベースにプライドをもちつつ、ある部分では頼り、ある部分
では無理を強いながら、一つのよいものを作ろうとする姿は
見習うべきところが多い。
アニメ業界では原画上がりで監督をやったりする人も多い
だろうが、建築では有名な意匠設計者や構造設計者に職人
上がりという人はほとんどいないように思う。
そういう設計者と一緒に仕事をしてみたいとも思うし、自分
自身、木工だけでなく溶接や建方等のものづくりの経験を
もっと積みたい。
まずは、同じ脚本を書くにも、監督やデスクだけでなく、
作監や美監を始めとした職人勢とも話をする機会を、多くの
現場でもてるとよいと思う。
全体のストーリィの他にも、ところどころでものづくりの
よい話が出てくる。
22話に出てくる、藤堂美沙の作った3Dに対する安原絵麻の指摘、
「3Dはコンピュータが自動で中割りをしてくれるでしょ」は、
設計が自動化していく中で、自動化によって省略される部分を
如何に上手く使うかのヒントになる。
見つけ、適切な修正を施すことで、コンピュータの処理結果と
して得られる出力でも快感が湧くようなものにはいくらでも
近付けられるだろう。
そのためには、自動化によって省略される部分を意識することと、
必要に応じて自動化部分の較正を行うことを忘れないことだ。
人間が快感を覚えるような出力を調整するための、最も有能な
キャリブレータは、今のところ人間自身なのだから。
アニメ制作の現場が主題だが、建築の現場にも
通ずるところが多く、とても感銘を受けた。
建築では施主が原作者やスポンサー、意匠設計が監督や
プロデューサー、構造設計や設備設計が脚本や演出、
現場監督が制作進行、職人が原画や3D、美術、声優等に
あたるだろうか。作監や美監は主任技術者か。
原作者、監督、デスク、作監等が、それぞれ自分の基準を
ベースにプライドをもちつつ、ある部分では頼り、ある部分
では無理を強いながら、一つのよいものを作ろうとする姿は
見習うべきところが多い。
アニメ業界では原画上がりで監督をやったりする人も多い
だろうが、建築では有名な意匠設計者や構造設計者に職人
上がりという人はほとんどいないように思う。
そういう設計者と一緒に仕事をしてみたいとも思うし、自分
自身、木工だけでなく溶接や建方等のものづくりの経験を
もっと積みたい。
まずは、同じ脚本を書くにも、監督やデスクだけでなく、
作監や美監を始めとした職人勢とも話をする機会を、多くの
現場でもてるとよいと思う。
全体のストーリィの他にも、ところどころでものづくりの
よい話が出てくる。
22話に出てくる、藤堂美沙の作った3Dに対する安原絵麻の指摘、
「3Dはコンピュータが自動で中割りをしてくれるでしょ」は、
設計が自動化していく中で、自動化によって省略される部分を
如何に上手く使うかのヒントになる。
テンポやパースが正確すぎると、逆に快感が湧かないんじゃないかなその場で藤堂美沙が修正してみせたように、省略された部分を
「SHIROBAKO」22話
見つけ、適切な修正を施すことで、コンピュータの処理結果と
して得られる出力でも快感が湧くようなものにはいくらでも
近付けられるだろう。
そのためには、自動化によって省略される部分を意識することと、
必要に応じて自動化部分の較正を行うことを忘れないことだ。
人間が快感を覚えるような出力を調整するための、最も有能な
キャリブレータは、今のところ人間自身なのだから。
2016-12-02
整合性の破綻
@
14:22
意味付けのみに基づく自然な判断機構においては、整合性が破綻しない。それは非常に長い時間スケールにおいて、すなわち、多数の判断機会を確保することで、整合性を担保しながら判断および変化していく。自然の織り成す風景が美しいとすれば、そのような理由の不在による整合性に由来するのだろう。
そこに投機的短絡を持ち込むことで、整合性を破綻させる代わりに、とてつもなく短い時間スケールの中で判断および変化するようになったのが、理由付けに基づく意識という判断機構である。
破綻した整合性を何とか補修しようとする努力としての学問は、その究極として、整合性の復活による自然の美しさの再現を目指すが、ゲーデルの不完全性定理によれば、演繹的な手法は整合性を担保できない範囲を有し、また、整合的であることを自ら示すこともできない。
理由を欲する人間は、AIのはじき出す論理に基づかない整合的な判断を受け入れるのに苦労するだろう。理由付けによってわざわざ崩した判断の整合性を、論理によって再生しようとする様は、とてつもなく滑稽にみえるかもしれない。しかし、その方法によって意識はこれだけ短い時間で多くの判断を下してきたのだ。
では、情報処理能力の発展により、短い時間スケールにおいても多数回の判断が下せるようになったとき、そこに理由を求める理由はなんだろうか。こうして、充足理由律の渦の中に落ち込んでいく人間を描くSFも面白いかもしれない。
そこに投機的短絡を持ち込むことで、整合性を破綻させる代わりに、とてつもなく短い時間スケールの中で判断および変化するようになったのが、理由付けに基づく意識という判断機構である。
破綻した整合性を何とか補修しようとする努力としての学問は、その究極として、整合性の復活による自然の美しさの再現を目指すが、ゲーデルの不完全性定理によれば、演繹的な手法は整合性を担保できない範囲を有し、また、整合的であることを自ら示すこともできない。
理由を欲する人間は、AIのはじき出す論理に基づかない整合的な判断を受け入れるのに苦労するだろう。理由付けによってわざわざ崩した判断の整合性を、論理によって再生しようとする様は、とてつもなく滑稽にみえるかもしれない。しかし、その方法によって意識はこれだけ短い時間で多くの判断を下してきたのだ。
では、情報処理能力の発展により、短い時間スケールにおいても多数回の判断が下せるようになったとき、そこに理由を求める理由はなんだろうか。こうして、充足理由律の渦の中に落ち込んでいく人間を描くSFも面白いかもしれない。
2016-12-01
絞首台の黙示録
神林長平「絞首台の黙示録」を読んだ。
途中、畑上ユニットで行われている研究と意識についての
話が展開されるあたりまではものすごく面白い。
でも、最後50〜60ページの展開は期待していたものと
ずれにずれていき、なんだかなという感じだった。
新陳代謝をする物理的身体は、神経細胞や心筋細胞等の
非再生系細胞を除き、6年程度で細胞がすべて入れ替わると
言われている(このあたりの出典を知りたい)。
だとすれば、物理的身体と心理的身体の分離性は明らか
であるように思われる。
ここで言う分離性は、心理的身体が物理的身体のセンサ特性の
影響を受けないという意味ではなく、同じセンサ特性をもつ
物理的身体であれば、構成要素は違ってもよい、という意味だ。
神経系を介して行われる情報処理過程の一部が意識という
心理的身体として発現しており、そのセンサ特性である記憶は
神経系の回路の結線状態として維持されるのであれば、
その状態を複製することで、心理的身体も複製される。
複製が完全であれば、オリジナルとコピーの区別はなく、
複製時点では同じセンサ特性=記憶を有する心理的身体が
誕生する。
そこから先は異なる情報処理をすることで、記憶は少しずつ
ずれていき、同じ意識ではなくなっていく。
情報処理内容を同期することで、一つの人格として維持する
ことは可能かもしれないが、複数の物理的身体に接続された
単一の心理的身体というものが、どのような身体感覚を
有することになるのかは想像するのが難しい。
(いわゆる多重人格の逆の状態である)
畑上ユニットで行われていた研究の究極の目標は、非再生系
細胞も含めた、物理的身体の完全な複製だと解釈できる。
オリジナルをどのように保存するかという問題はあるものの、
新陳代謝のような入れ替えではなく、オリジナルとコピーの
両方を残しておくような複製が可能になれば、上記のような
事態は起こり得る。
オリジナルとコピーのいずれもが、我こそは自分だと言うだろう。
それと対峙し、コミュニケーションをとった相手も、いずれの
ことをも、その人物だと認識できるだろう。
攻殻機動隊のゴーストのような、複製の過程で消滅するような
「何か」を仮定するのは、とても不自然であるように思われる。
それよりも、投機的短絡によって、あらゆることに理由をみてしまう
情報処理過程が、これまでの情報処理に基づいて更新されてきた
センサ特性=記憶によって、それ自身、あるいは、他の情報処理過程
につける理由として、常に同一化されるものだとみなす方が、
よっぽど自然である。
意識とはそういうものだ。
そういう点では、邨江という意識が周囲の人間の思い込みによって
そこに飛んできたというのもわかるのだが、むしろ上記のような
物理的身体の複製に伴う心理的身体の在り方の方を掘り下げた物語を
読んでみたかったな、というところだ。
途中、畑上ユニットで行われている研究と意識についての
話が展開されるあたりまではものすごく面白い。
でも、最後50〜60ページの展開は期待していたものと
ずれにずれていき、なんだかなという感じだった。
新陳代謝をする物理的身体は、神経細胞や心筋細胞等の
非再生系細胞を除き、6年程度で細胞がすべて入れ替わると
言われている(このあたりの出典を知りたい)。
だとすれば、物理的身体と心理的身体の分離性は明らか
であるように思われる。
ここで言う分離性は、心理的身体が物理的身体のセンサ特性の
影響を受けないという意味ではなく、同じセンサ特性をもつ
物理的身体であれば、構成要素は違ってもよい、という意味だ。
神経系を介して行われる情報処理過程の一部が意識という
心理的身体として発現しており、そのセンサ特性である記憶は
神経系の回路の結線状態として維持されるのであれば、
その状態を複製することで、心理的身体も複製される。
複製が完全であれば、オリジナルとコピーの区別はなく、
複製時点では同じセンサ特性=記憶を有する心理的身体が
誕生する。
そこから先は異なる情報処理をすることで、記憶は少しずつ
ずれていき、同じ意識ではなくなっていく。
情報処理内容を同期することで、一つの人格として維持する
ことは可能かもしれないが、複数の物理的身体に接続された
単一の心理的身体というものが、どのような身体感覚を
有することになるのかは想像するのが難しい。
(いわゆる多重人格の逆の状態である)
畑上ユニットで行われていた研究の究極の目標は、非再生系
細胞も含めた、物理的身体の完全な複製だと解釈できる。
オリジナルをどのように保存するかという問題はあるものの、
新陳代謝のような入れ替えではなく、オリジナルとコピーの
両方を残しておくような複製が可能になれば、上記のような
事態は起こり得る。
オリジナルとコピーのいずれもが、我こそは自分だと言うだろう。
それと対峙し、コミュニケーションをとった相手も、いずれの
ことをも、その人物だと認識できるだろう。
攻殻機動隊のゴーストのような、複製の過程で消滅するような
「何か」を仮定するのは、とても不自然であるように思われる。
それよりも、投機的短絡によって、あらゆることに理由をみてしまう
情報処理過程が、これまでの情報処理に基づいて更新されてきた
センサ特性=記憶によって、それ自身、あるいは、他の情報処理過程
につける理由として、常に同一化されるものだとみなす方が、
よっぽど自然である。
意識とはそういうものだ。
そういう点では、邨江という意識が周囲の人間の思い込みによって
そこに飛んできたというのもわかるのだが、むしろ上記のような
物理的身体の複製に伴う心理的身体の在り方の方を掘り下げた物語を
読んでみたかったな、というところだ。
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