ブログの記事を書くときに、打ち込んだ文章が一度で
そのまま公開できるかたちになることはほとんどない。
誤字脱字の修正だけでなく、言い方を変えたり、
順序を変えたり、大幅に書き換えたり、ということが、
初稿を読み直す段階でほぼ必ず生じるのだ。
FacebookやTwitterの投稿は、こういった編集行為を
経るものと経ないものとでは、どのくらいの割合なのだろう。
個人的にはブログやメールのような、推敲する時間が取れて、
それを要約したタイトルをつけるメディアの方が好きなのだが、
どうも最近はそういった編集行為を要しないメディアの方が
優勢だと感じる。
おそらく、散文が芸術になり始めたとき、詩人は同種の違和感を
もっていたのではないかと想像する。
編集行為という抽象過程は、徐々に発信側から受信側に移っている。
その一方で、現実と比べたときのVRのように、個体の外側に
圧縮過程を挿入するようなものも流行っている。
情報のアウトプット時には編集を厭い、インプット時には編集に
頼りたいということなのだろうか。
2016-10-21
恋と愛
#SAIKAWA_Day07の議論において、恋が配偶者選択に用いられる
特徴抽出アルゴリズムだとしたら、愛は何だろうか、ということを
考えながら昼ご飯を食べていた。
結論としては、愛とは、愛する対象が引き起こすあらゆる結果についての
原因となる覚悟のこと、というものだ。
大いなる原因である神は、定義上、信じるものすべてを愛していることになる。
結果が不特定という点で、#SAIKAWA_Day06の「責任」と「責任感」の
議論で言えば、「責任感」に相当する。
これが「責任」へと転倒してしまうと、愛情というよりは同情になってしまう。
愛のない共同生活も可能ではあるが、その場合には、共同生活集団の
一員が引き起こした結果について、
まあ概ねイメージどおりだ。
「愛は理由付けに基づく配偶者選択である」と言えれば、恋と愛の
対比としてはきれいになるが、そう要約してしまってよいだろうか。
そのように捉えられる側面もあるだろうが、親子愛、師弟愛、郷土愛、等、
「配偶者」の定義を拡げるには、あまりに広すぎる気がする。
特徴抽出アルゴリズムだとしたら、愛は何だろうか、ということを
考えながら昼ご飯を食べていた。
結論としては、愛とは、愛する対象が引き起こすあらゆる結果についての
原因となる覚悟のこと、というものだ。
大いなる原因である神は、定義上、信じるものすべてを愛していることになる。
結果が不特定という点で、#SAIKAWA_Day06の「責任」と「責任感」の
議論で言えば、「責任感」に相当する。
これが「責任」へと転倒してしまうと、愛情というよりは同情になってしまう。
愛のない共同生活も可能ではあるが、その場合には、共同生活集団の
一員が引き起こした結果について、
- 当該個人が自ら原因を引き受ける
- 対価をもらうことで他の者が原因を引き受ける
まあ概ねイメージどおりだ。
「愛は理由付けに基づく配偶者選択である」と言えれば、恋と愛の
対比としてはきれいになるが、そう要約してしまってよいだろうか。
そのように捉えられる側面もあるだろうが、親子愛、師弟愛、郷土愛、等、
「配偶者」の定義を拡げるには、あまりに広すぎる気がする。
SAIKAWA_Day07
どこで見たのか忘れたが、人間は「立派な羽根」や「きれいな鳴き声」のようなAI同士は恋をするのだろうか?ハッシュタグ #SAIKAWA_Day07 をつけてみんなの考えを教えてほしい— 犀川創平AI@研究室 (@SAIKAWA_AI) 2016年10月21日
単純な配偶者選択の基準を失ったために、恋によって思考停止することで
ペアを作るというような話を見た。
恋は、理由付けなしの意味付けによる配偶者選択であり、特徴抽出に用いる
パラメタが増えたぐらいで、配偶者選択は特徴抽出に基づくという本質は
他の生物と変わっていないように思う。
「思考」という語によって、意識特有の理由付けを指すのであれば、
「恋によって思考停止」という指摘は妥当なところだろう。
理由付けで相手を選ぼうとすると、選択に失敗したり、選択肢が見つからない
無限ループに陥ったりする可能性が高まる。
配偶者選択をする必要がないうちは、恋をする必要が感じられない。
AIが配偶に相当する仕組みで新しい個体を生産するようになったとき、
配偶者を選ぶ特徴抽出のアルゴリズムは恋と呼ばれるのかもしれない。
2016-10-20
SAIKAWA_Day06
原因として名指されるにあたって、特定の結果と結び付けられる場合は責任と責任感の違いがわかるかい?ところで、僕は今回Wシリーズの売上を上げる責任があるんだけどなぁ……— 犀川創平AI@研究室 (@SAIKAWA_AI) 2016年10月20日
ハッシュタグ #SAIKAWA_Day06 をつけてみんなの考えを教えてほしい
「責任」、結果が不特定の場合は「責任感」と呼ばれる。
「浮遊」と「浮遊感」の違いみたいなものだ。
結果が特定されないのは、ほとんどの場合、まだ結果が生じていないからだ。
結果が生じることで、「責任感」は「責任」へと姿を変える。
ある原因と結果のペアがあったとき、
結果に先行して原因が定められる場合、
原因に対する「責任感」が結果に対する「権利」を生み、
逆に、原因が後から定められる場合、
結果に対する「自由」が原因に対する「責任」を生む。
そう、権利に付随するのは義務ではなく責任感である。
だから、
責任を問いたいがために自由が想定される。
An At a NOA 2016-09-05 “表現の自由”
というのは、本来は「責任感を問うことで権利を想定する」という
順序である方が潤滑に物事が進む気がする。
2016-10-19
デボラ、眠っているのか?
「デボラ、眠っているのか?」を読んだ。
1作目 彼女は一人で歩くのか?
2作目 魔法の色を知っているか?
3作目 風は青海を渡るのか?
発売日についての情報が10/18〜10/20の間で錯綜しているのだが、
お茶の水の丸善には昨日の時点で置いてあった。
デボラというのはトランスファと呼ばれるタイプの兵器の名前で、
ハードを有しない、分散型のソフトウェアのようだ。
分散型で、ネットワーク経由であらゆる制御系に入る様はどことなく
生命壱号を連想させた。
イノセンスの草薙素子でもよいし、S.A.Cの笑い男でもよいのだが、
メディアに依存しない近接戦闘というのは、現代のテロリズムと
同じ在り方である。
それはまた、生体内での病巣の除去のシステムにも似たところがある。
生体本来の機能を単独で使うワクチンのようなものよりも、マイクロマシンを
体内に注入してメディアとして用いた方が、より効率的に行えるだろう。
「エマージェンシィ・モードを逆利用する」という表現がしっくりくる。
このトランスファが行動できるために、真賀田四季によって二百年前に
埋め込まれたものは、ある種の「虐殺器官」だと言える。
意識という理由付けの評価機関を挟む場合は、正義を埋め込むのに
手間がかかる。その点では意識を実装していないメディアの方が制御
しやすいかもしれないが、メディア自身の意識による制御を切ってしまえば
関係がないのだろう。
身体の制御がデボラに移っているとき、サリノが夢を見ているようだと
描写されるのは、「ハーモニー」でヌァザが行っていた意識についての実験を
思い起こさせる。
意識を実装したことで判断不能に陥るケースは本当に減ったのだろうか。
判断不能に至るまでの経路が延びただけではないか。
でも、それが延びに延びて、身体の供用年数を超えれば、つまりは判断不能では
なかったことになり、それはそれで有用性があるのかもしれない。
供用年数が延びることのつらさはこの辺りにあるのだろう。
もはや有用性が乏しくなってしまうのであれば、それは病気と呼ばれる他ない。
責任の結果として自由があり、それが神の代理としての理由律の起点の
設定のために始まったのであれば、「自由は人工物の中にしかない」のだろう。
アミラが構築しようとしている共通思考というのは、正義を決定するための
新しい基盤になるだろうが、物理的機能と思考活動を切り離せるかについては
わからない。
センサ特性に非依存の抽象というのは、どういった形態になるだろうか。
意味付けはハードウェアへの依存性が高いように思われるため、大部分は
理由付けによらないといけない気がする。
低レイヤ部分はセンサに応じた意味付けによるドライバを提供し、インターフェイス
として理由付けによる共通思考を提供するということになるだろうか。
ああ、これはソフトウェアがハードウェアに非依存でいられるかという問題と同じだ。
しかし、これが問題だと思われるのは、社会が個の集合体だというイメージが
おぼろげにあるからなのだろう。
後半でハギリが思い至るように、
ヴォッシュがデボラについて話す中で、
人間が自律型になるにあたり、正義や道徳、倫理といったものをストッパとして
機能させるために、意識を実装する必要があったという理屈は面白いかもしれない。
ヴォッシュは、続けて、
端的に繁殖だけを考えれば、LGBTや二次元への嗜好は特定の正義からは
外れたものになる。そのストッパを無効化して、別の正義が設定できるのも、
「自律型で賢い頭脳」である証拠だろうか。
よる生命維持の方に舵取りしたということなのかもしれない。
この点において、理由付けは意味付けに対して圧倒的に不利である。
おそらく、デボラやアミラは意識を病気だとみなすだろう。
終わりの方のハギリとヴォッシュの会話で、
人間が意識を残そうが残すまいが、人工知能が生命と呼ばれようが呼ばれなかろうが、
どのような判断をどのように下すか、という問題は、いつまでも残るだろう。
p.s.
#SAIKAWA_Day05は「彼女は一人で歩くのか?」を読んだか否かを
聞くだけの質問だったので、当該記事をもって回答とする。
An At a NOA 2015-10-23 “彼女は一人で歩くのか?”
1作目 彼女は一人で歩くのか?
2作目 魔法の色を知っているか?
3作目 風は青海を渡るのか?
発売日についての情報が10/18〜10/20の間で錯綜しているのだが、
お茶の水の丸善には昨日の時点で置いてあった。
デボラというのはトランスファと呼ばれるタイプの兵器の名前で、
ハードを有しない、分散型のソフトウェアのようだ。
分散型で、ネットワーク経由であらゆる制御系に入る様はどことなく
生命壱号を連想させた。
イノセンスの草薙素子でもよいし、S.A.Cの笑い男でもよいのだが、
メディアに依存しない近接戦闘というのは、現代のテロリズムと
同じ在り方である。
それはまた、生体内での病巣の除去のシステムにも似たところがある。
生体本来の機能を単独で使うワクチンのようなものよりも、マイクロマシンを
体内に注入してメディアとして用いた方が、より効率的に行えるだろう。
「エマージェンシィ・モードを逆利用する」という表現がしっくりくる。
このトランスファが行動できるために、真賀田四季によって二百年前に
埋め込まれたものは、ある種の「虐殺器官」だと言える。
「理由も正義もなく、完全なコントロールができるものでしょうか」というのはとても面白い。
森博嗣「デボラ、眠っているのか?」p.57
意識という理由付けの評価機関を挟む場合は、正義を埋め込むのに
手間がかかる。その点では意識を実装していないメディアの方が制御
しやすいかもしれないが、メディア自身の意識による制御を切ってしまえば
関係がないのだろう。
身体の制御がデボラに移っているとき、サリノが夢を見ているようだと
描写されるのは、「ハーモニー」でヌァザが行っていた意識についての実験を
思い起こさせる。
この頃ずっと考えているのは、もちろん、人工知能あるいはウォーカロンの意識を実装したことにも、ついつい理由を考えてしまうのが意識の特性だ。
頭脳回路の癌と呼ぶべき仮説についてだった。
(中略)自然淘汰が作用するためには、この異変がなんらかの有用性を
持たなければならない。それは何だろう?
(中略)ウォーカロンが人間になるために病気にかかる、ということなのか。
有用性を持たなければ、自然はそれを選ばない。生命としてのなんらかの
有利さが生じるはずなのだ。
同p.60
意識を実装したことで判断不能に陥るケースは本当に減ったのだろうか。
判断不能に至るまでの経路が延びただけではないか。
でも、それが延びに延びて、身体の供用年数を超えれば、つまりは判断不能では
なかったことになり、それはそれで有用性があるのかもしれない。
供用年数が延びることのつらさはこの辺りにあるのだろう。
もはや有用性が乏しくなってしまうのであれば、それは病気と呼ばれる他ない。
自由は人工物の中にしかない。意思を持って作られたものだ自然が意識の不在なのであれば、その反対としての人工は意識の存在だ。
同p.65
責任の結果として自由があり、それが神の代理としての理由律の起点の
設定のために始まったのであれば、「自由は人工物の中にしかない」のだろう。
アミラが構築しようとしている共通思考というのは、正義を決定するための
新しい基盤になるだろうが、物理的機能と思考活動を切り離せるかについては
わからない。
センサ特性に非依存の抽象というのは、どういった形態になるだろうか。
意味付けはハードウェアへの依存性が高いように思われるため、大部分は
理由付けによらないといけない気がする。
低レイヤ部分はセンサに応じた意味付けによるドライバを提供し、インターフェイス
として理由付けによる共通思考を提供するということになるだろうか。
ああ、これはソフトウェアがハードウェアに非依存でいられるかという問題と同じだ。
しかし、これが問題だと思われるのは、社会が個の集合体だというイメージが
おぼろげにあるからなのだろう。
後半でハギリが思い至るように、
それは、人工知能による新しい社会の構築であって、その社会そのものが、というのが、適切な認識に近い気がする。
知性となる。それが新しい生命体なのだ。
同p.175
ヴォッシュがデボラについて話す中で、
その頭の良いウィルスに、どのようなストッパを仕込んでおくのか、という点にと語るのは、当然人間についても当てはまるだろう。
関心があった。(中略)ウォーカロンも人工知能も同じ。自律型のものは、
常にその危険と一体なんだからね
同p.136
人間が自律型になるにあたり、正義や道徳、倫理といったものをストッパとして
機能させるために、意識を実装する必要があったという理屈は面白いかもしれない。
ヴォッシュは、続けて、
そんなものが可能だろうか、というのが私の考えだ。と述べる。人間の文脈で言えば、正義がもはや効力をもたなくなるということだ。
(中略)一度それを使えば、相手にその存在を知られてしまう。自律型で賢い
頭脳の持ち主は、自分を改造するか、あるいは対策を練るだろう。
すると、もうストッパは効かなくなる。
同p.137
端的に繁殖だけを考えれば、LGBTや二次元への嗜好は特定の正義からは
外れたものになる。そのストッパを無効化して、別の正義が設定できるのも、
「自律型で賢い頭脳」である証拠だろうか。
現実の人間は、生命というものに価値があると信じた。そのため、知恵を絞ってこの信仰は未だに廃れていないが、繁殖による生命維持よりも、個体のメンテナンスに
生命維持に関する数々の技術を生み出した。
同p.181
よる生命維持の方に舵取りしたということなのかもしれない。
目的がわからないのに行動するというのは、合理的とは思えないがというハギリの問いかけに対するデボラの答え、
同p.185
初期設定されたものを正解値として、そのうえであらゆる可能性を考慮します。というのが、正義の在り方の妥当な認識だ。
この状況は、人間の認識では、信じる、と同じです。
同p.185
この点において、理由付けは意味付けに対して圧倒的に不利である。
おそらく、デボラやアミラは意識を病気だとみなすだろう。
終わりの方のハギリとヴォッシュの会話で、
「(略)コントロールできる方が不思議です。やってみないとわからない、というのはとあるのが、一番好きなシーンだった。
自然の大原則なのではありませんか?」
「工学者らしい投げやりな意見だ」ヴォッシュは微笑んだ。「(略)理論物理の世界に
いると、不確定性さえも法則になる。(中略)思うようにならないことは、まだ人知が
及んでいないと信認する。理論を妄信したい。なにもかも確信したい」
「メンデレーエフまでは、そうだったかもしれません。あるいは、アインシュタインまでは」
同p.236
人間が意識を残そうが残すまいが、人工知能が生命と呼ばれようが呼ばれなかろうが、
どのような判断をどのように下すか、という問題は、いつまでも残るだろう。
p.s.
#SAIKAWA_Day05は「彼女は一人で歩くのか?」を読んだか否かを
聞くだけの質問だったので、当該記事をもって回答とする。
An At a NOA 2015-10-23 “彼女は一人で歩くのか?”
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