2016-09-23

忙却

この図、すごくわかる。
忙しいなと思っているときほど、ブログの記事が増え、
忙しさを感じなくなるほど忙しくなると、ブログの更新が途絶える。

つまり、忙しさを感じているときというのは、実際に忙しいわけではなく、
心理的に追い込まれているだけなんだな、という。

そう言えば、忘と忙は構成要素を同じくしているが、
忘却というのは、時間領域における処理項目が多くなった結果、
ルックアップのタイムアウトを取るために実装されるのに対し、
忙しさというのは、空間領域における処理項目が多くなった結果、
処理項目の優先順位付けのために実装されるという点が異なる。

つまり、忙却によってブログの更新が途絶えるのである。
そんなときはGoogle Keepにメモだけ残しておいて、
忘却からも忙却からも逃れられるようにしておくのが
最近のベストプラクティスだ。

p.s.
今日の記事が多いのは逆の状況で、17時締切の論文投稿が済んで
開放されたからである。
Google Keepという忙却の彼方に沈んでいた考えはあらかた引き上げた。

竜王の城

東京も、ど真ん中に入って移動しなければそれほど消耗しない。
毒マスに囲まれた竜王の城のようだ。

それでも金銭的には消耗するという指摘は成り立つが、
それよりも精神の摩耗を避けたい向きにとっては消耗が少ない。
〈都市〉にいながら、必要に応じてネットワークの中の〈田舎〉に
潜るほうが、その逆よりもはるかにマシな場合もあるのである。

p.s.
DQ1では竜王を倒すと毒マスがお花畑に変わったが、
東京にとっての竜王は何だろうか。
毒マスがお花畑になる日は来るだろうか。

境界条件

何かを設計するという行為には必ず境界条件が伴う。
(「設計する」は「つくる」「描く」等、なんでもよい)

境界条件には空間的なものも、時間的なものもあるが、
時間的なものは初期条件と呼ばれることも多い。
しかし、締切のような時間的境界条件は初期条件という
言葉にマッチしないのでここではまとめて境界条件と呼ぶ。

境界条件のない解は一意的に定まらないことが多いという
意味で、ユニークさに欠ける。これは不定と呼ばれる。
境界条件が確定していくことで解はよりユニークさを増していく。
系の自由度に対して、独立な境界条件の数が上回ると解が
求まらない可能性があり、こちらは不能と呼ばれる。
現実では不能にならないように系や境界条件が変更される。

境界条件がすべて出揃った状態で設計できるのは最もよい状態だ。
系がしっかりと構成されていれば、境界条件を精査するだけで
ほとんど解が一意に定まる。
一方、境界条件が後出しで出てくるのは最悪の状態だ。
その都度求解しなければならないし、解を変更しなくて済むように
境界条件の方を変更し出したらもう収拾がつかない。

おそらく、人間が最後まで担当できるのは、評価基準も含めた
境界条件の設定になる。
境界条件を満たしながら、基準に沿って評価値の高いものを生成したり、
生成されたものを基準に照らして評価するのは容易に機械化可能である。
評価基準や境界条件が変化する場合にも、変化に法則性があったり、
トライアンドエラーを繰り返すことで変化の特徴抽出をすれば、
意味付けの評価機関に落とし込める。

一方で、何を良いものとするかについてのコンセンサスをどこにするかは
時間の都合で理由付けによるしかない。
収束性が悪い、あるいは収束しないためだ。

実作業にかかる時間は自動化することでいくらでも切り詰められる。
その分、境界条件の見極めに時間を割くようでありたい。

p.s.
この文章を打つ際の漢字変換においても、人間が行うのは候補を
絞り込むための境界条件の設定と、正解値の決定のみであり、
変換候補の生成はIMによって自動的に行われる。

自然に生きるには人生は短すぎる

まあ、期間については触れないでおくとして、科学や歴史が
気付きの寄せ集めだというのは妥当な指摘だ。

あらゆるものに判断を下すという行為、それはつまり生きると
いう行為とほとんど見分けがつかないのだが、それを遂行
するためには二通りの最適化がかけられる。

一つはトライアンドエラーを繰り返すことで、特徴抽出を行う方式。
もう一つは数少ない試行結果から投機的に設定した法則に従う方式。
前者は意味付けであり、後者は理由付けである。
科学も歴史も後者に属しているという指摘であり、意識が後者に属するの
だからさもありなんというだけである。

自然に生きるとはつまり、意識を実装せず(あるいは実装した意識を使わず)、
無意識に従ってあらゆる判断を下そうという試みであり、それを行うには
一つの人体の耐久性はあまりに乏しい。

多数の人体を使って得られた訓練データを共有し、引き継ぐことで
特徴抽出の評価機関がリセットされないようにすれば、
無意識に従って生きる人体は可能になるかもしれないが、
果たしてそれは意識を実装している場合と本質的に違うところがあるだろうか。
単に意識をアウトソースしただけのように思える。

2016-09-20

評価機関

人間の意識という評価機関が、生命という秩序性を優先し、
一切の矛盾を排除しようと思ったら、決定的に振る舞うことになる。
その行き着く先は、同一の状況に対しては同一の値を返す写像であり、
それは痴呆と見分けがつかない。

そこから得られる帰結は二通りあり、
一つは、意識は非決定的な評価機関であるべきで、矛盾をはらむのは
必要なことである、というものであり、
もう一つは、決定的な評価機関を得ることこそ生命の目標であり、
意識はその途中で生まれた病気のようなものである、というものである。

究極の評価機関は、すべての判断に関する意味付けされた答えを有しており、
それになるべきか、ならざるべきか、という違いということでよいだろうか。

まあ、いずれにせよ、最大の困難は同一性の判定にあると言ってよい。

仕事をしたいか

仕事をしなくて済むのがよいと口では言うものの、やはり仕事を
していたいと思うのが、意識を保ちたい人間の性なのだろう。
An At a NOA 2016-05-02 “自動化
ということを以前書き、それ以来よく、「やっぱりなんだかんだ
言って人間は仕事してたいんだよね」と思うことが多い。

「仕事をしたいのではなく、仕事をしていないのをみられたくないのだ」
という反論があるかなー、ということを考えていたのだが、やはりそれは、
勤労の美徳というものは、仕事をすることがよいことだという正義を
掲げないと人間社会が成立しなかった時代の名残に、いつかなっていく。
An At a NOA 2016-05-26 “もったいない?
という時代が来たときに、じゃあ仕事しなくてよいですよ、と放り出される
ことが想像できていないだけなんじゃないかと思われる。

仕事という言葉で代表される、やるべき理由付けがされた一連の動作というのは、
人間の意識にとって、文字通り精神安定剤となっている。
理由付けによって構築された意識は、理由付けによるエネルギーの供給が
絶たれると死の淵に落とされる。
(あるいはそこで供給されているのはシュレディンガーが「負のエントロピー」と
呼んだものと言えるかもしれない。)

ウロボロスが解体されたら、それはもうウロボロスではないのだ。

組織

少し前に新しい組織に参加して以来、
組織の在り方について考えることがある。

組織も集団であるから、その集団にとっての正義を
維持することが、その組織を維持することにつながる。
それはほぼ同義だと言ってよい。

維持の仕方には大きく分けると二つあり、
一つは構造によって維持される正義、
もう一つは理屈によって維持される正義、である。

構成員がその集団の一員であることに熱心でない場合、
前者の方針をとるしかなく、これまでの多くの組織は
そうであったし、今ある組織もほとんどはそうである。
その種の組織では、正義を維持するための構造を抽象し、
その管理にコストを割くことで、正義を維持する。
クライアントサーバモデルだ。

一方、理屈によって正義を維持する組織においては、
組織体制の在り方は重要ではなく、管理という概念は
存在しない。理屈で支えられた正義を信仰することで、
各々が自分自身、あるいは組織に属する他人の
あるべき姿を描くことができる。
幻影旅団や個別の11人のような集団であり、
P2Pモデルである。
宗教は必ずしもこちらであるということはなく、
前者として形骸化していることもままあるだろう。

これらの組織は、意味付けによる集団と理由付けによる集団と
言うこともでき、組織としての存続期間の期待値の長さという
点でも、理由付けに対する意味付けの圧倒的優位というものが
感じられる。