2016-08-07

社会らしさ

広島平和記念公園の『ポケモンGO』スポット削除で「平和」とは何か考えさせられた


平和が「たった一つの正義を通すこと」になってしまうことの先には、
いつか意識が不要な世界が待っている。
augmentされた現実、あるいはvirtualな現実までいかなくても、
人それぞれが意識をもち、少しずつ異なる現実を生きている限り、
唯一の正義というものは成立し得ないはずだ。
それは、「社会心理学講義」の中で、
犯罪と創造は多様性の同義語であり、一枚の硬貨の表裏のようなものです。
小坂井敏晶「社会心理学講義」p.269

犯罪のない社会とは理想郷どころか、(中略)人間の精神が完全に圧殺される
世界に他ならない。
同p.270
と書かれていた問題だ。
しかし同時に、
正しい答えが一つしかないと信じるからこそ、(中略)安定した規範が
生まれるのです。
同p.236
ともあり、集団は真理抜きには成立し得ないことも確かだ。

社会のコンセンサスとしての真理あるいは正義の卓越により
多様性が失われる様は、無意識的な動きの意識的な抑制が
人間らしさにつながることと、どこか似ている。
人間が構成する社会にもまた、社会らしさというものがあるはずだ。
それは、人間らしさとのアナロジーで言えば、多数の意識が
各々のコンセンサスに従って振る舞いつつ、社会全体のコンセンサスが
その行動を適度に抑制することによって得られるのだろう。

2016-08-06

人間らしさ

科学未来館で機械人間オルタの展示を見てきた。
期待したほどではなかったというのが正直なところだ。


人間らしさは、無意識と意識のどちらから生まれるか。
オルタの問題設定は、それが無意識なのではないかという考えに
あると思われる。
しかし、意識的な抑制を欠くその動きは、ひたすらに落ち着きがなく、
強いて言えば赤ん坊のそれに近い。ただ、赤ん坊でも外部情報を
受け取るセンサは備えているので、動きは必ずフィードバックの
影響を受ける。
オルタにはまるでそれが感じられない。たとえ視覚や聴覚のセンサを
積んでいたとしても、とてもそれを統合しているようには見えず、
現実を構成できていない。目を始め、あらゆる動きが虚ろなのだ。

意識的な動きだけでは、EX_MACHINAでアリシア・ヴィキャンデルや
ソノヤ・ミズノが演じた機械のようにしかならないし、無意識的な動き
だけでは、オルタのように落ち着きのないものにしかならない。
無意識的な動きの意識的な抑制が人間らしさの条件になると思う。
さらに、それがその場にいる感覚は、自分と同じ情報を受け取っている
という感覚に支えられる。これがない限り、たとえ物理的にその場にいて
人間らしい動きをしていても、別世界にいるようにしか見えないだろう。
幻覚を見ている人間のようであると言ってもよい。
少なくともこれら2点が改良されない限り、その場にいる人間らしさは
出ないように思う。


ついでに久々に常設展を見てきた。
今年の4月にリニューアルされたらしく、結構変わっていた。
小中学生へのアピールという側面が強いせいか、科学は判断のために
あるという感じが全面に出ていたように思う。理由付けの大本には判断が
あるので、それはそれでよいのだが、知識を得ることそれ自体の喜びという、
より贅沢な視点が控えめなのは、仕方がないだろうか。

帰りがけ、ゆりかもめで新橋に向かう途中、そう言えば海ほたるって近いんだっけ
と思ったが、全然遠かった。どうも、お台場と海ほたるのイメージが重なるのだが、
単にフジテレビの移転と海ほたるの竣工の時期が近いだけだったようだ。
そして新橋に近づき、新幹線や在来線が走る様子をゆりかもめから見下ろす。
どちらもシン・ゴジラを想起させ、何だか複雑な気分になった。

2016-08-05

知の編集工学

松岡正剛の「知の編集工学」を読んだ。松岡さんの書き物としては、千夜千冊をよく読むのだが、いつもあの知識量の多さと広さに驚く。そして、自分が読んだ本が取り上げられていると、松岡さんの書評を読むのがちょっと楽しい。


意味付けや理由付けという抽象がまさに情報の編集であり、その圧縮過程によって生命や自己が特徴付けられているという点において、この本に書かれていることのほとんどに同意できる。

一点疑問があるとすれば、情報のルーツについてだ。
「情報」は生命とともに生まれ、「編集」は生命とともに開始した
からである。
松岡正剛「知の編集工学」 p.78
個人的には、情報とは情報科学的な定義における、取りうる状態の数と関連付けられた量であるから、それは生命とは無関係に、端的に存在すると思っている。そこには何の秩序も意味もない。後に原子や分子へと分節される情報は、ただ在ることができる。それを秩序あるものへと「編集」することが生命そのものであるから、引用文の後半には賛成できる。でもその後で、
つまり、生命はもともと情報のプログラムを“ネタ”にして形成されたのだ。このことが超重要である。先に生命があって、あとから情報が工夫されたのではない。先に情報があって、その情報の維持と保護のために、ちょっとあとから“生命という様式”が考案されたのだ。
同p.80
と書いているので、順序としては同意見だ。

記憶の問題については、
私たちは「記憶の構造に情報をあてはめている」のではなく、おそらく「編集の構造を情報によって記憶していく」のではないか
同p.95
と書いている。これは、野矢先生的に言えば、自分の生きている物語を情報によって随時修正している、というようなイメージだろうか。編集によって抽象されたもの自体を記憶するのではなく、編集=抽象の繰り返しによって、その仕方を記憶している、という捉え方は、神経系の構造ともマッチするように思う。つまり、神経系では回路の接続は、その回路の使用頻度によって強化されるようだが、この回路のパターンの強化のされ方が、個々の事象ではなく、情報の処理方法と対応している方が自然だと考えられる。

第五章2節「物語の秘密」で展開される物語論が興味深い。ここで〈マザー〉と呼ばれている物語の原型は、理由付けにおける抽象パターンの原型であり、これが意識を意識たらしめていると思われる。さらに、
見落としてはならないのは、〈マザー〉から言語体系や国語がつくられていったということだ。
同p.255
として、例えば「平家物語」が語られていく中で日本語というシステムができあがっていったと書いている。理由付けの抽象パターンから言語のあり方が決まるのだとすれば、言語により意識が作られるのではなく、むしろ意識が言語を支えているということになるだろうか。

確かに、言語により思考することで意識は支えられているのだが、では何故言語が生まれたのかというと、それは理由付けという投機的短絡による秩序の生成自体に見出された秩序=〈マザー〉が大本であり、理由付けのウロボロスは意識となった後で、自身を表現するために言語を生み出し、言語を用いて自身を表現することを通して、さらに自身を強化してきた、ということになる。

第五章3節では、フレーゲや西田幾多郎を取り上げ、編集の述語性を強調している。
これは、「特殊」としての主語にたいして、述語が「一般」であることを強調したものである。そのため、人間の知識は、この「一般」の無限の層の重ね合わせとして理解されるしかないのだととらえられた。
同p.278
これは帰納と演繹の違いとして捉えてしまってよいのだろうか。意味付けにしろ理由付けにしろ、外部からの情報を抽象することは帰納による一般化であり、それを基に判断することは演繹による特殊化である。西田哲学が、
「意識の範疇は述語性にある」というとびぬけてすばらしい結論を出したのだ。
同p.278
とすれば、意識の本質は情報を抽象することにあるのだと理解できる。その後にどういう判断を下すかも、当然この抽象=帰納過程の影響を受けるので、全く不要ということではないのだろうが、どちらかというと情報を受けとり、抽象する段階の方がセンサ特性の影響を大きく受けるはずなので、イメージは共有できる。

第六章2節に出てくる7つの問題、
(1)自然「なぜ、自然は階層をもつように見えるのか」
(2)生命「なぜ、いつから、生命は相互作用の中に入ったのか」
(3)人間「なぜ、人間は自己を知ったのか」
(4)社会「なぜ、社会は組織を必要としたのか」
(5)歴史「なぜ、歴史は混乱を好むのか」
(6)文化「なぜ、文化は固有の言語を保持しようとするのか」
(7)機械「なぜ、機械は自立的にふるまおうとするのか」
同p.313
は常に考えていることと大部分が共通する。

(4)について、
そもそも組織とは「情報編集システムを体制化したもの」であるからだ。
p.317
としているのは、
集団を抜きに真理が存在しないのと同程度に、真理の共有なしには集団は存続できない。
An At a NOA 2016-07-05 “随想録1
という意味において、真理とはすなわち情報編集システムのことだと解釈できる。

(5)について、
それは、結局のところ国家や民族や企業が、なぜ自己編集性を完結できないのかということにかかわっている。ようするに内部に矛盾が生じ、それが外部に流出したときに、執拗な交換を要求するために、そこに経済混乱と戦争混乱がおこるのだ。
同p.318
と書いているのを読んで、ゲーデルの不完全性定理が思い出された。
第1不完全性定理
 自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、ω無矛盾であれば、
 証明も反証もできない命題が存在する。
第2不完全性定理
 自然数論を含む帰納的公理化可能な理論が、無矛盾であれば、
 自身の無矛盾性を証明できない。
Wikipedia “ゲーデルの不完全性定理
意味付けや理由付けによる体系を「自然数論を含む帰納的公理化可能な理論」と呼べるのかはわからないが、もしそうだとすれば、無矛盾性により判断不能な命題が存在してしまうことは、厄介な問題になるはずだ。これを回避するために、矛盾性をはらむことを許容しているという可能性はあるだろうか。

(7)について、
それは人間が何かを節約したかったからだった。しかし、その節約をしたぶん、じつは機械が何かを過剰にためていく。ではいったい、そのことが私たちの望んだ編集性なのかどうか、ということだ。
同p.321
というのは、これから先の意識のあり方を自問することの必要性を説くものとして、意識の存続にとって非常にクリティカルだと思う。

2016-08-04

シン・ゴジラ

「シン・ゴジラ」を観た。
今日、改めてもう一度、震災後を生きた気がする。

途中、何度も泣いてしまうのだが、理由が言葉にならない。
悲しみ、怒り、焦り、無力感、悔しさ、やり切れなさ、畏敬の念。
津波が土手を越え、車を飲み込む。
原子炉建屋にヘリコプターから水を落とす。
コンクリートポンプ車による放水。
復興に携わる自衛隊やボランティアの方々の姿。
政治家や官僚が未曾有の事態に対応する姿。
そういった、東日本大震災の津波や原発、記者会見の映像、
あるいは震災1ヶ月後に目の当たりにした釜石の風景から
感じ取ったあらゆる感情が短時間の間にこみ上げてくる。
この感情を受け止めるために、泣かざるを得ない。

本来、第四の壁越しに見ることは、私からの乖離と、第四の壁の
向こうへの感情移入を促すことで感情を動かす。
ところが、震災のことをテレビやネットで第四の壁越しに見て
いたために、スクリーン越しであることが、かえって自分自身で
あることを強化する。
それによって人は、各々の物語によって泣く。
この手法をノンフィクションと呼ぶのであれば、「シン・ゴジラ」が
私に提示したものはまさしくノンフィクションであった。

ゴジラは、象徴的には原子力発電そのものとして捉えられる。
牧の残した、私は好きにした君も好きにしろ、というメッセージは、
1950年代に進められた原子力発電政策の結果、現代では
それが一般的になり、恩恵をもたらすと同時に脅威にもなり得る
ものにまで成長したことと符合する。
しかし、それは単に原子力発電だけでなく、それをとりまく
社会、経済、文化等の諸々の巨大化及び脅威化も含めて
象徴しているはずだし、だからこそ、ゴジラのエネルギー源が
核廃棄物ではなく、水と空気だけで生きられるという事実や、
凍結はさせたものの、それが再び動き出した時には時間の猶予は
僅かしかなく、熱核攻撃による殲滅という未来が待っているという
エンディングが効いてくると思う。
原子力発電の問題と同様に、社会、経済、文化の肥大化の問題も、
今のやり方をやめればそのうち消えてなくなるようなものではなく、
少ない時間的猶予の中で、一度立ち止まってでも議論をした方が
よいのでは、ということだと受け取った。

かたや死をもたらす官僚体制として、かたや生を永らえさせる外交や人脈として
描かれる巨大なネットワークも、ヤシオリ作戦によって凍結された問題の一つだ。
生まれ変わりではなく、単一の個体での進化が可能になったゴジラは、
物理的な戦争から経済的あるいは情報的な戦争に移ることで、物理的な領地や
国民の拡大だけではないかたちで、さらなる巨大化を遂げてきた国家でもある。

演出手法の観点では、場面転換で望遠レンズのカットを連続して
入れたりする箇所等、エヴァっぽい雰囲気は確かに強いが、
それよりも印象に残ったのは、群衆のリアリティだ。
記号的な恐怖よりも、スマートフォンをいじる姿や、twitterやニコ動のような
演出の方が、恐怖への現代的な反応としてはリアリティが強い。
あるいはそれは、記号が変容しただけなのかもしれないが。

とにかく、世界で唯一原爆を落とされた敗戦国に生まれ、そこで教育を受け、
2011年3月以降をそこで生きた人間にとっては、あまりにもリアリティが
あり過ぎ、それがとても堪える内容ではある。
だが、これを劇場のスクリーンという巨大な第四の壁越しに見ることで、
自分自身の追体験という貴重な体験ができるという点で、この映画は最高であった。


2016-08-08 追記
この映画を観て流した涙は、5年前流れなかった涙の代わりなのかもしれない。
政府の対応にいらつき、ACジャパンのCMにうんざりし、ボランティアの活動に
感銘を受け、基礎構造だけが残る元市街地に呆然とする。
震災後は日本中がただただ落ち着きがなく、泣く暇もないままに1年、また1年と過ぎ、
もう5年半が経とうとしている。この5年半という時間を巻き戻し、2時間あまりで
急速に再生することで、もう一度落ち着いて泣く機会をもらったような感覚だ。
この感覚を共有できる人間は、理屈抜きに「シン・ゴジラ」を傑作だと
評価するだろうし、そうでなければ分析的に評価するか、いまいちだと
切り捨てるかだ。
その意味で、この映画が震災を同時代として経験しなかった世代や海外の人間にも
評価されるのかはよくわからない。初代ゴジラのように、分析的に語られることで
評価を受けられたとしても、それは2016年の夏に、震災の5年後として、震災を
リアルタイムに自国のものとして経験した人間として観ることとは、やはり別な
ものになってしまう気がしてならない。

2016-08-03

抽象

どこで読んだのか失念したが、
「抽象とは、異なる事柄に同じ名を与えることだ」
という意味の話を読んだ憶えがある。

それが、「」のタイトルの由来であり、
「象」の一番最初のページに記載している、
人間を特徴付ける最大の能力は抽象である。
という文言の由来だ。

抽象とは、構造を取り出すことである。
構造とは、2以上の事象間に見出される共通事項のことである。
意味とは、認識された差異である。
認識とは、入力された情報を圧縮することである。
情報とは、とりうる状態のことである。
圧縮とは、距離空間における距離の短縮である。
意識とは、理由付けを備えた評価機関である。
たくさんの情報の中から共通事項を見出し、
意味付けや理由付けによって抽象することこそが
人間の特徴である、という捉え方である。

よく、具体的に言ってくれ、という場面があるが、
本来は抽象的に言ってくれた方がわかりやすいはずだ。
論文の頭に付けるabstractがその代表例である。
この点に理解が得られないとすれば、concreteの対義語を、
abstractではなくobscureかなんかだと思っているせいなのだろう。

2016-08-01

パートナー

先日のパートナーシップへの補足として。


デイヴィッド・ブルックスの「あなたの人生の科学」の「はじめに」において、
「ゲーデル、エッシャー、バッハ」を書いたダグラス・ホフスタッターと、
脳腫瘍で亡くなった彼の妻のエピソードが語られている。
気づくと私は、涙を流しながら「ここに私が!私がいる!」と声に出して
言っていた。(中略)もはや二人は一体で、不可分だった。(中略)
キャロルは死んでしまったけれど、彼女の核の部分はまだ死んでいないのだと
悟った。彼女の一部はすでに私の中にいて、確かにまだ生き続けていた。
D.ブルックス「あなたの人生の科学 上」p.24
コンセンサスに基づいて個人の意識ができるのであれば、二つ以上の
身体間でのコンセンサスによっても、ある種の意識と呼べるものができる
というのは特別神秘的な話ではない。
ただし、異なる身体間でのコンセンサスを得るための情報通信量は
膨大であろうから、長年連れ添った夫婦のような間でしか見られない
のも納得がいく。
阿吽の呼吸で言葉少なにコミュニケーションを取り合う老夫婦は、
そのような間柄にあるのだと想像する。

partnerはラテン語のpartitionem(partitioの対格、単数)、さらには、
partio(share,part; divide)やpars(part, piece)に由来するらしい。
上記のようにして得られたコンセンサスは、私でもなければあなたでも
ないものになる可能性があり、それはお互いがある全体のpart=一部を
なすものとして存在するという意味で、partnerという全体をかたちづくる。

文京区

結婚式の余興練習に使う場所を確保しに、江戸川橋へ。
ちょうど一年振りくらいだろうか。

地下鉄で飯田橋駅を通る度に、「バ」と発音する映像を見ながら
「ガ」の発音を聞くと、「ダ」に聞こえるというマガーク効果についての
テキストを、大学の英語の授業で読んだことを思い出す。
あれはもう十年以上前だ。

受付での対応はスムーズにいき、何とか部屋を確保できた。
公共施設の予約をする度に、合唱団の卒業公演の会場予約で、
同輩と二人でじゃんけんした日のことを思い出す。
あれはもう七、八年前になるだろうか。

江戸川橋から本郷まで、気が向いたので歩いてみる。
途中、印刷博物館や勉強会で使ったオフィスビルの前を通り、
それぞれ行ったのは三、四年前だったかな、と思い出す。

神田川沿いから春日通りに抜けて、後楽園のあたりへ。
礫川公園で写真を撮ったのは、もう何年前だったか憶えていない。
東京ドームを見れば、中学生の頃家族で来た巨人ー広島戦のことや、
三年前のポールのライブのことを思い出す。

そこから本郷までの途中には、学生時代に三年間バイトした個人塾があり、
合唱団の演奏会の打ち上げに使っていた、今はなき大栄館の跡地では
マンションの工事が進んでいる。


特に文京区には、個人的な記憶が埋まっている場所がたくさんある。
身体というデバイスを介して、他の人には見えないものが見えるという
意味では、これもまた一種のAugmented Realityである。