2015-11-09

7で割り切れるかはグラフでわかる

Divisibility by 7 is a Walk on a Graph, by David Wilson
が面白かったので拙訳を。


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Divisibility by 7
整数nを決める。
グラフの一番下の小さな白い点から
スタートして、nの各桁の数字dについて、
d個の黒い矢印をたどっていく。
そして次の桁の数字に行くときに、
白い矢印を1つ分進む。

例えばn=325なら、黒い矢印を3個、
白い矢印を1個、黒い矢印を2個、
白い矢印を1個、黒い矢印を5個、の順にたどる。

白い点に戻ってきていればnは7で割り切れる。
(訳注: 白い点から黒い矢印をいくつ進んだかが
7で割った余りに対応する)

特段びっくりするようなことじゃないけど、
グラフが平面で表せるっていうのはいいね。

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What is the process of creating this automata for checking divisibility by 7?
に解説が出ているが、黒矢印は単純に1を足すことに対応していて、
白矢印は10倍した数字を7で割った余りに移動することに対応している。
つまり、
0→0

1→3 (10=7×1+3)

2→6 (20=7×2+6)

3→2 (30=7×4+2)

4→5 (40=7×5+5)

5→1 (50=7×7+1)

6→4 (60=7×8+4)

0→0
・・・
で、下に進むのが黒矢印、右に進むのが白矢印となっている。
これも当然だけど、7×xのxを白矢印の順にたどると142857になる。

借りてきた猫

かりてきたねこ

こりてきたかね
懲りてきたかね

2015-11-05

正義

「正しい」と「好き」の違いは曖昧だ。
強いて言うなら、正しいには意識されにくい主語が
常に伴うことだろうか。

その主語は、絶対君主制ではもちろん君主であるし、
民主制では多数派である。

勝てば官軍、負ければ賊軍。

正義とは愛の一形態であり、
愛とは一種のバイアスである。

絶対普遍な愛が存在しないのと同様に、
絶対普遍な正義もまた存在しない。
あるいは、絶対普遍な愛が存在するという信念のもとにのみ、
絶対普遍な正義は生まれる。
宗教を背景にした戦争が起こりやすいのも致し方のないことである。

2015-11-04

焦点距離・考

先日の京都には23mmと90mmを持っていった。
京都の庭は23mmの方が撮りたい絵が多い。

23mmは空間体験を切り取るイメージで、
90mmはふとした視覚体験を切り取るイメージがある。
今回訪れた寺院はどこも室内を含んだ庭の体験が
すばらしいところばかりだったので、
23mmが合っていると感じたのだろう。

90mmは視覚としては狭すぎるものの、何か気になった
対象それ自体を描き出すのには抜群だ。
そういう意味では、雑踏等の元々設計されていない
空間でこそ役割が際立つのかもしれない。
23mmは逆に視覚としては広すぎる。
普段視覚として意識的には捉えていない空間も
入ってくるおかげで、空間体験的な表現にはぴったりで、
設計された空間がよく似合うのだと思う。

視覚にぴったり符合するのはどのレンズだろうか、
と考えたとき、ふと昔使っていたハッセルブラッドの
ことを思い出した。
神保町の小さなカメラ屋で中古で買ったハッセルブラッドには
80mmのレンズがついている。これは35mm換算だと50mmだ。

5年以上前に、母方の実家が取り壊されるということで、
このカメラを片手に写真を残しに行った。
幼少の頃、よく遊びに行った家で、当時でもその面影が
至るところに残っていた。
ハッセルブラッドを構えて上からファインダを覗くと、
何の違和感もなく、淡々とその思い出の風景を切り取れて
いたなという記憶がある。
その写真はリバーサルで撮っていて、確か現像した写真は
母親にプレゼントしたはずだ。ポジはどこにやったっけ。

そんなことを考えると、やはり標準レンズという名は偉大というか、
私の目は35mm換算で50mmのような気がする。
今度発売するXF35mmF2ではどんな視覚が得られるだろうか。
倍率1倍の望遠鏡となることへの期待を込めて。

2015-11-03

まだ照り初めしもみじ葉の

ふと堂に入れることに気づき、
人気も少ない暗闇の中、堂の戸をゆっくりと開く。
既に夜も深いので、堂の内外での明暗の差はない。
敷居を慎重にまたいで、静かに戸を閉める。
ふと見上げると暗闇に浮かぶ黄金が現れる。
仏のようであるが名はわからない。
伏し目がちに正面まで歩を進め、その名を確かめる。
ゆっくりと見上げた先には、想像したとおりの、
だが温かいようで同時に薄ら寒い薬師如来像の顔が浮かんでいる。
2015年11月3日、齢二十八も半ばを過ぎて初めて、
恐れという感情がどのようなものであるのかを体感した。



朝は予定通り5:30に起床。
その後はスムーズにいき、チケットをとっていた新幹線よりも
一本前のものにして京都へ向かう。
車中では先日友人に勧められた森敦の「月山」を少しずつ
読み進める。
翌日に守山への出張が入ったため、急遽京都に前泊することにした。
久々の観光旅行である。一人旅はちょうど一年前の京都以来かもしれない。
土日に調べて瑠璃光院と蓮華寺に行くことを決めた以外は特に決めていないまま
京都駅についてしまった。
とりあえず荷物を軽くして烏丸線国際会館駅から大原方面のバスで
八瀬の辺りへ。
バス停から案内を頼りに瑠璃光院に向かうが、同じバスから降りた
ご夫婦以外は人がいない。本当にマイナな観光地のようだ。
瑠璃光院は山の斜面にそのまま建てたようなお寺で、高低差を利用して
幾つかの堂が建っている。
上から順にということで、瑠璃の庭を2階→1階の順に見た後で、
臥龍の庭を見ることになる。
紅葉はまだまだ盛ではないが、人もそれほど多くなく、
きれいな景色をゆっくりと見られるのがとても良い。

瑠璃光院を出たところで、延暦寺か大原の方へ向かうことを検討するも、
やはりそのまま蓮華寺へ。
蓮華寺は瑠璃光院以上に人が少なく、拝観料も安いというのに、
庭の美しさは瑠璃光院に引けをとらないくらいであると思う。

瑠璃光院と蓮華寺を見たままに撮れたら写真をやめてもいいと
書いている人がいたが、その気持ちもよくわかる。
いつか紅葉真っ盛りのときに訪れたいものだ。

蓮華寺を見終えた段階で12時過ぎ。早くも予定が終わったので
次の目的地を探す。正直この2箇所がまわれただけで
今回の京都旅行は大満足である。
秋の特別拝観をやっている中で近場ということで
慈照寺に決めてバスで移動。バス停を降りた辺りから
不穏な空気を感じるが、とにかく入り口まで行ってみる。
しかしというかやはりというか、案の定観光客が多く、
先ほどの2箇所とは全く違う雰囲気に、入って早々見る気が失せる。
写真を撮る気もなくなりかけていたが、慈照寺と言えば
建物よりも砂の庭だというイメージが強かったので、
そちらに集中する。慈照寺の波は見事だ。

結局特別拝観は予約が一杯で夕方まで待つようだったので諦め、
哲学の道を南行する。
あてもなく哲学の道の果てまで来た段階で、
去年結局行けなかった東福寺に行こうと思い立ち行動開始。
しかし、ここまで来てメジャーどころにいくのもどうなのかと思い始め、
いろいろと検索すると光明院というお寺がよさそうだという情報が。
そしてまたしても東福寺を諦め、日暮れ時の16時前に光明院に到着。
昭和時代に設計された比較的新しい庭園とのことで、
ところどころにモダンな感じが感じられなくもない。
個人的な違いとしては、朝の2つの庭は間違いなく横位置で撮りたい庭で
あるのに対し、この庭は縦位置の方が納まりがよいと感じる点だ。

今回の京都旅行は、今まで訪れたことのないマイナなところをまわり、
フレーミングされた庭を落ち着いて眺めることが多かった。
畳、障子、欄間によってフレーミングされた庭を、
さらにファインダでフレーミングするというのは何か不思議なものである。
そういえば、ファインダというのは森敦が言うところの倍率1倍の望遠鏡たりうる。
90mmを構えている時にどうも違う感じがするのは、
換算135mmという焦点距離が、私の現実に接続しないからなのだろう。
かといって換算35mmの23mmもちょっと違う気がする。
換算50mmが仮に倍率1倍のレンズだったとして、それによって切り取る写真は
他のレンズの場合と何かが違うのだろうか。

そんなことを考えながら京都駅からホテルまで歩く。
強烈に腰が痛く、一刻も早く休みたいのを耐えながら。
大浴場で一休憩後、晩ごはんを終えて東寺の夜間ライトアップへ。
ISO1600で撮っても黒がちゃんと締まってくれるあたりはさすが富士フイルムである。
ライトアップされた五重塔は、闇夜に変に浮かび上がり、
もはや何かの模様のようでもある。

そしてオープニングの金堂へつながる。
期間が始まって間もない東寺のライトアップは人も車もまばらで、
臨時駐車場のあたりは星がよく見える。
東の空に上がり始めた冬の大三角を見上げながら、
恐れを噛みしめて帰路についた。

2015-11-02

構造

構造とは、2以上の事象間に見出される共通事項のことである。

事象が多種多様になることで一般化されるに従い、
より内奥の構造が得られる。

例えば、私と全く同じ人間が二人いたとして、その二人の間に見られる
物理的な身体の構造とは即ち私の身体そのものであり、
構造と表現形式は同一である。
しかし、日本人、人間、脊椎動物と対象を拡げていくに従い、
その構造は削がれていき、背骨、脳、頭蓋骨、半規管等といった
より少ない要素に集約される。それに対応して、実際の表現形式は
一見すると全く異なってくるようになる。

建築を含む工学の分野では、構造という言葉は
いくつかの材料を組み合わせてこしらえたもの。
また、そのしくみ。くみたて。
(広辞苑 第六版)
という意味でも用いられる。
この場合の事象の一方はもちろん当該工作物であり、
他方は法律や規基準に示されたもの、これまでに作られたもの、
あるいは自然界に存在するもの等である。
いくつかの材料が組み合わさった状態に既にあるものを参照し、
それと似たような組み合わせとすることで
新しい組み合わさった状態が得られる。
この「似たような」という部分にこそ、構造がある。
何をもって「似ている」とするのかが、
作り手のセンスによるとしたものがブリコルールであり、
そこに理由をつけようとしたものがエンジニアである。

建築構造という言葉の表面的な意味としては、
鉄骨のラーメンフレーム、鉄筋コンクリートの壁床、木の軸組等が
思い起こされ、実際の設計では構造部材と非構造部材という
カテゴリ分けもされる。

しかし、構造という言葉の意味が上述のようなものであるとすれば、
建築においてある空間を成立させようとしたときに、
空間を成立させるための仕組みに対する、これまでの知見との共通事項を
探る行為にこそ、構造設計という言葉の本意があるのではないかと思う。

2015-11-01

覚え

見覚えのある顔。
聞き覚えのある声。
嗅ぎ覚えのある匂い。
触り覚えのある身体。
食べ覚えのある料理。

五感のうち、覚えがあると表現されることが
多いのは上の2つだろう。
残りの3つに比べてそれだけ発達してきたということか。