2025-01-01

ウロボロス

 

白蛇のウロボロスあるいは太極図。

2024-08-21

松岡正剛

松岡正剛氏が亡くなったとのニュース。

  • 最初に読んだ著作は「知の編集工学」だったと思う。千夜千冊エディションは30冊目の「数学的」まで概ねすべて通読している。「情報の歴史」は旧版の増補版と新版を買った。
  • 博覧強記なのはもちろんのこと、一見別々のもの同士をつないでみせるところに憧れた。その逸れ方はアカデミズムからは敬遠される向きもあったと思うが、主語ではなく述語から、個体ではなく個体化から考えるために、つなぎかえの可能性、訂正可能性としての逸脱/再編があるのではないかと思う。
  • 拙宅の蔵書数が膨張しているのは紛れもなく氏の影響である。角川武蔵野ミュージアムにあるブックストリートの本の置き方に刺激を受け、水平な棚板が異なる高さに浮いているような本棚を設計・制作した。
  • 生きている間にどうしても一度会っておきたいと思い、2022年の間庵に参加した。初回で質問に応えて頂いたことと、次の回で短いながらご挨拶したことの二度だけだが、お話しする機会があった。挨拶のとき、上はヨウジ、下はイッセイという格好で、服装を褒めて頂いたことを妙に憶えている(あの日は三宅一生氏の訃報から間もない頃だった)。

2024-07-31

今北産業

教育とは今北産業である。

Education is Imakita Industory Co., Ltd.

Education is TL;DR.

2024-06-02

最適解

 最適解というのは、視野を狭めないと生まれない。

2024-01-03

雲と鱗

 

史上最も難産であった。

雲のいづこに 辰宿るらむ

2023-09-04

キャラ化する/される子どもたち

 土井隆義『キャラ化する/される子どもたち』を読んだ。


キャラクターのキャラ化の話は、モデル論みたいだなと思った。木村英紀『モデルの現実性について』を参照すると、モデルとは「無限の情報をもつものを有限の情報で表現する情報圧縮のプロセス」である。普遍の物差しが提供する圧縮プロトコルに従って一人ひとつのモデルに抽象されたものがキャラクターだとすれば、場面ごとに生み出されたモデルがキャラだろうか。平野啓一郎の分人主義にも通ずるものがあるが、本書ではキャラは一度生み出されたら固定化されるものと想定されており、分人に比べるとネガティヴに捉えられている。

モデル化は、それが繰り返されれば大量の情報のかたまりからその都度様々な側面を抽き出すことで一面的な評価を免れるための強力なツールとなり得るが、それが繰り返されることなく一度きりで終わってキャラが固定化してしまえば一面的な評価の単なる省力化にしかならない。従来は普遍の物差しが共有されることで一面的な評価が共有されていたが、普遍の物差しがなくなった時代にキャラの固定化=物差しの固定化が起きると、物差しが共有されるローカルな範囲の外側は理解を諦めた異物として圏外化され、個々の圏(=フィルターバブル)同士は分断される。この圏外化もまた、情報処理を省力化するための世界のモデル化と言えなくもない。

これまでは普遍の物差しのおかげでもっと大きな範囲で圏が形成されていたため、圏外とのコミュニケーションは実質的にほぼ不要だったのが、圏が小さくなったことで圏外とコミュニケーションせざるを得ない事態が増えてきている。余所者として圏外に置かれていた相手が「モンスター」として顕わになる。本書は2009年に出ているのでSNSの話題は扱っていないが、SNSによってコミュニケーション可能な範囲が広がったことも「モンスター」とのエンカウント率を上げており、あるコミュニティでの常識がにわかに炎上する事例は枚挙に暇がない。

「人間の処理能力は、世界を圧縮せずに把握できるほど高くない」ので、「抽象の力」を借りる必要がある。だから世界のモデル化をする過程で情報が失われ、圏外が作られてしまうのは仕方のないことだ。しかし、その過程で抽象された情報が存在することだけは覚えておき、自分の認識していない世界の割り方があることを知っておくことはできる。それがリテラシーだ。

あらゆる抽象は、元の状況のすべてを表すことができないという犠牲を払うことで、人間が把握できるものとなる。そのことを忘れれば、単純なモデルと複雑な状況の齟齬がもたらすカタストロフ、すなわち天災を招くだけだ。単一の判断基準に基づく抽象へと固定化することなく、発散しない程度に少しずつ判断基準を変えながら、壊死と瓦解の間で抽象し続ける。その小さな死の積み重ねがなすエネルギー変換の過程だけが、終わりなく存続することができる。
An At a NOA 2018-12-15 “抽象の力
リテラシーとは、抽象から具象を再構成する能力である。
An At a NOA 2017-04-28 “思考の体系学” 

2023-08-28

いい子のあくび

 高瀬隼子『いい子のあくび』を読んだ。


以前、性善説と性悪説について書いたことがある。両者はいずれも個人ではなく集団の特性をいうものであり、前者は固定化、後者は発散の傾向を取り上げる。

An At a NOA 2017-08-16 “性善説と性悪説

本書では、「いい子」の対義語は「悪い子」ではなく「やな子」であるから、性「嫌」説とでも言えるだろうか。社会状態においては、万人の万人に対する闘争の決着が予め決せられていることで表面的に凪いだようにみえるだけであり、その裏では日々大小様々な無数のあくびが噛み殺されている。あくびを嚙み殺すことをやめたとき、周囲から浮いた「やな子」になってしまう。つまり「嫌」性とは、調和からの逸脱の傾向である。

An At a NOA 2019-09-05“マックイーン モードの反逆児

An At a NOA 2019-07-09“名付けられぬ逸脱

An At a NOA 2018-09-30“芸術と逸脱

An At a NOA 2018-06-19“逸脱の対義語

An At a NOA 2018-06-19“エロスの涙

嚙み殺されなかった「いい子のあくび」、つまりはマジョリティからの逸脱=モードへの反逆は、調和された世界に一石を投じる。それが、問題提起する芸術となるか、はたまた狂人の犯罪となるかは、その内容ではなく誰がどう見るかで決まる。あくびを一切せずに壊死するか、あくびをし過ぎて瓦解するか。調和は常に試されている。