2025-01-21

なぜ働いていると本が読めなくなるのか

三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだ。

ゲンロンのイベントに三宅さんが登壇するということで、漠然と食わず嫌いをしていた本書に手を伸ばした。

明治期から現代までの労働と読書の関係の変遷を整理した上で、現代の労働におけるトピックである「仕事における自己実現」を成し遂げるには、自分に関係のある文脈のみを活かして行動を変革する必要があり、「ノイズ=自分から遠く離れた文脈」を含む読書が敬遠されるという構図が示される。しかし、本来は世界はノイズに溢れているわけで、単一の文脈にフルコミットするのではなく、読書でノイズに触れることを通じて様々な文脈にコミットできる「半身労働社会」が提唱される。

論旨は明快で同意できるが、図表や箇条書きでクリアカットな整理が示されたり、あとがきで働きながら読書するコツが示されたりと、後半に行くほどハウツー本や「わかりやすい○○」的なライトさを帯びていく印象があり、この本もまた自己啓発的なノイズのない「情報」なのではと思ってしまう。ただ、各人にとっての個々の本は、様々な文脈に触れるきっかけの一つに過ぎないと思えば、一つひとつはこれくらいライトなもので十分ということなのかもしれない。

出版→文フリ、テレビ→YouTube、新聞→SNS、AV→Fantia、専業→フリーランスなど、ツールの民主化やプラットフォームの整備によって多くの分野でB2CよりもC2Cに近い形態が増える「同人化」が進行している。発信側の数が増えることは、受信者=観客側としては文脈が多様化するというメリットがあるが、受信者=観客の動向に応じてバズだけを目指す「機を見るに敏」な発信者が増えると、個々の文脈の通時的・共時的な共有性は損なわれる可能性がある。論文における関連研究の引用、ニュースにおける裏取りなど、少数の発信者(専門家)が培ってきた文脈の維持コストを無視したフリーライダーが蔓延るようになると、文化は全体としてやせ細っていくように思う。これは東浩紀が『観光客の哲学』で言っていた、「子として死ぬだけではなく、親としても生きろ」というメッセージに通ずる。

特定の文脈に拘泥することを終わりにしようというメッセージは、受信者=観客目線では首肯できる。しかし、全員が特定の文脈にフルコミットしない半身労働社会において、従来は専門家が維持してきた個々の文脈はどのように維持されるのだろうか。オープンソースソフトウェアにおいて、イシューばかり挙げてコミットしないユーザだけでは、ソフトウェアはメンテされなくなる。コントリビュータはいなくならないか。あるいは各自が勝手にコントリビュートしたいがために数多のフォークが生まれて文脈が空中分解しないだろうか。

単一の文脈へのフルコミットから解放された社会において、多様な文脈を耕す「親」は残るだろうか。それが三宅さんに対する松田さんや森脇さんの、疑念と期待が入り混じったアンビヴァレンスなのではないかと思った。親と子、客と裏方、コントリビュータとユーザの行ったり来たりをするために、両方の話をしたい。

2025-01-01

ウロボロス

 

白蛇のウロボロスあるいは太極図。

2024-08-21

松岡正剛

松岡正剛氏が亡くなったとのニュース。

  • 最初に読んだ著作は「知の編集工学」だったと思う。千夜千冊エディションは30冊目の「数学的」まで概ねすべて通読している。「情報の歴史」は旧版の増補版と新版を買った。
  • 博覧強記なのはもちろんのこと、一見別々のもの同士をつないでみせるところに憧れた。その逸れ方はアカデミズムからは敬遠される向きもあったと思うが、主語ではなく述語から、個体ではなく個体化から考えるために、つなぎかえの可能性、訂正可能性としての逸脱/再編があるのではないかと思う。
  • 拙宅の蔵書数が膨張しているのは紛れもなく氏の影響である。角川武蔵野ミュージアムにあるブックストリートの本の置き方に刺激を受け、水平な棚板が異なる高さに浮いているような本棚を設計・制作した。
  • 生きている間にどうしても一度会っておきたいと思い、2022年の間庵に参加した。初回で質問に応えて頂いたことと、次の回で短いながらご挨拶したことの二度だけだが、お話しする機会があった。挨拶のとき、上はヨウジ、下はイッセイという格好で、服装を褒めて頂いたことを妙に憶えている(あの日は三宅一生氏の訃報から間もない頃だった)。

2024-07-31

今北産業

教育とは今北産業である。

Education is Imakita Industory Co., Ltd.

Education is TL;DR.

2024-06-02

最適解

 最適解というのは、視野を狭めないと生まれない。

2024-01-03

雲と鱗

 

史上最も難産であった。

雲のいづこに 辰宿るらむ

2023-09-04

キャラ化する/される子どもたち

 土井隆義『キャラ化する/される子どもたち』を読んだ。


キャラクターのキャラ化の話は、モデル論みたいだなと思った。木村英紀『モデルの現実性について』を参照すると、モデルとは「無限の情報をもつものを有限の情報で表現する情報圧縮のプロセス」である。普遍の物差しが提供する圧縮プロトコルに従って一人ひとつのモデルに抽象されたものがキャラクターだとすれば、場面ごとに生み出されたモデルがキャラだろうか。平野啓一郎の分人主義にも通ずるものがあるが、本書ではキャラは一度生み出されたら固定化されるものと想定されており、分人に比べるとネガティヴに捉えられている。

モデル化は、それが繰り返されれば大量の情報のかたまりからその都度様々な側面を抽き出すことで一面的な評価を免れるための強力なツールとなり得るが、それが繰り返されることなく一度きりで終わってキャラが固定化してしまえば一面的な評価の単なる省力化にしかならない。従来は普遍の物差しが共有されることで一面的な評価が共有されていたが、普遍の物差しがなくなった時代にキャラの固定化=物差しの固定化が起きると、物差しが共有されるローカルな範囲の外側は理解を諦めた異物として圏外化され、個々の圏(=フィルターバブル)同士は分断される。この圏外化もまた、情報処理を省力化するための世界のモデル化と言えなくもない。

これまでは普遍の物差しのおかげでもっと大きな範囲で圏が形成されていたため、圏外とのコミュニケーションは実質的にほぼ不要だったのが、圏が小さくなったことで圏外とコミュニケーションせざるを得ない事態が増えてきている。余所者として圏外に置かれていた相手が「モンスター」として顕わになる。本書は2009年に出ているのでSNSの話題は扱っていないが、SNSによってコミュニケーション可能な範囲が広がったことも「モンスター」とのエンカウント率を上げており、あるコミュニティでの常識がにわかに炎上する事例は枚挙に暇がない。

「人間の処理能力は、世界を圧縮せずに把握できるほど高くない」ので、「抽象の力」を借りる必要がある。だから世界のモデル化をする過程で情報が失われ、圏外が作られてしまうのは仕方のないことだ。しかし、その過程で抽象された情報が存在することだけは覚えておき、自分の認識していない世界の割り方があることを知っておくことはできる。それがリテラシーだ。

あらゆる抽象は、元の状況のすべてを表すことができないという犠牲を払うことで、人間が把握できるものとなる。そのことを忘れれば、単純なモデルと複雑な状況の齟齬がもたらすカタストロフ、すなわち天災を招くだけだ。単一の判断基準に基づく抽象へと固定化することなく、発散しない程度に少しずつ判断基準を変えながら、壊死と瓦解の間で抽象し続ける。その小さな死の積み重ねがなすエネルギー変換の過程だけが、終わりなく存続することができる。
An At a NOA 2018-12-15 “抽象の力
リテラシーとは、抽象から具象を再構成する能力である。
An At a NOA 2017-04-28 “思考の体系学”