2020-02-11

永遠のソール・ライター

Bunkamuraで「永遠のソール・ライター」展を観てきた。

ふとした拍子に気になったことを、人知れずさっと切り取ったような写真の数々。予め定められた判断基準に照らして探し出した美しさではなく、何とはなしに見つけた美しさというか。垣間見えた「らしさ」への気付きによって、取るに足りないものが際立ってくる。ノイズからシグナルが浮かび上がる瞬間。何というか、そんな印象を受けた展覧会だった。

2020-01-25

1!+2!+3!+4!

=1+2+6+24=33
ということで33になった。
あるいは、フィボナッチ数列の和で、
1+1+2+3+5+8+13=33
でもよい。
そろそろネタがないと言っていた割に今年は2通りの式が見つかったが、34は本当にネタが思い浮かんでいない。

少し前からサウナに行く機会が増え始め、スカイスパ、トンボの湯、しきじ、用宗温泉などを訪れたのだが、最近サ道のドラマを観て正しい入り方を学び、LaQuaに初めて行ってみた。3種類のサウナで4セット、東京ドームを見下ろしながらの外気浴も満喫した。体中の産毛が総立ちになるような触覚とともに、「美しき青きドナウ」を聴き、ドームシティの夜景を見るのはなかなかに優雅なものである。ほどよい疲れと心地よさを覚えながら食べた「京都高台寺 よ志のや」の素揚げ野菜カレーうどんもまた格別であった。あそこは天国かなにかだ。

サウナ界隈で「ととのう」と呼ばれる状態は、自律神経系が撹拌されて再び落ち着くまでの一連のプロセスを言うのではないかと思う。スノーグローブのようなイメージだ。粒子が舞うときの煌めきのようにギラついた感覚で環境に感応するという点では、サ道もまた茶道と同じように、日頃の稽古を通じて日日是好日を目指すものなのかもしれない。

2020-01-22

断片的なものの社会学

岸政彦「断片的なものの社会学」を読んだ。

判断できない状態を避けようとして、世界を分かつことでわかろうとせずにはいられない。わかりやすくしようとすればするほど、状況はシンプルな一つの物語へと削ぎ落とされ、世界はのっぺらぼうに分かたれる。こうして世界の一次近似としてマジョリティが現れるプロセスの暴力。でも、それをしないでいては暮らしが成り立たない。
人間の処理能力は、世界を圧縮せずに把握できるほど高くない。
An At a NOA 2018-12-15 “抽象の力
分かつことが集団を壊死に近付ける一方で、分かつことをあきらめれば集団は瓦解に向かう。壊死と瓦解の話を書いてから、もう二年半が経つのか。その一年ほど前から、ずっとこのことを考え続けている気がする。

断片的なものがなくなった世界はユートピア=ディストピアであり、そこは物質感がなくとてものっぺりした世界だろう。dataからinformationへの圧縮の仕方が一意に決められてしまい、除数を変えて割り直すことのできない世界。とてもシンプルで究極的にわかりやすい世界だが、そこに人間がいることを想像するのは難しい。

割りっぱなしでもなく、割らないのでもなく。割り切れないものをどう割るかの試行錯誤。それを文章にするのはとても難しいと思うのだが、よい本であった。

坂田一男 捲土重来

東京ステーションギャラリーで「坂田一男 捲土重来」を観てきた。

抽象絵画に物質感があるのはどういうことなんだろうか。構造を抜き出して表現するのであれば、絵の具やキャンバスの質感を拭い去り、シンプルな形の構成に徹するのではないか。そんなことを考えながら絵を眺めていた。

しかし、2階の展示室に降りてきて冠水の話を読んだとき、そのあたりのことが腑に落ちた。抽象絵画で涙が出たのは初めてのことだった。たしかに、一つの対象を、一つの空間と時間において、一つの観点から抽象するのであれば、シンプルな形の構成のみで表現することも可能かもしれない。そうではなく、さまざまな対象、空間、時間、観点を含む抽象を一つの絵で表現することを試みた結果、抽象は重なり合い、作品が物質感を帯びる。

すべてがシグナルなのではなく、多分にノイズを含んでいる。ある観点からのシグナルは、別の観点からすればノイズであり、その逆もまた然りだ。抽象の重なりによる雑多さ、わからなさ、複雑さというものが、つまりは物質感なのではないだろうか。まさに岡崎乾二郎が「抽象の力」で描いた抽象美術の方向性そのものが、本来的に物質感につながっている。

2020-01-19

日日是好日

「日日是好日」を観た。

稽古の何たるかが詰まったような作品であった。

字通で「稽」の字を引くと、「神意を考える、かんがえる。卟と通用し、くらべる、うらなう、とう。」とある。考古学の「考える」が体系化された論理による解釈であるのに対し、稽古の「稽える」は身に付けた作法による感応であるように思う。古くから伝わる情報に接するという点は共通していても、考古学と稽古には、語ると示すのような違いがある。学ぶは真似ぶ。習うより慣れろ。

武田先生の「初めに『形』を作っておいて、その入れ物に後から心が入るものなのね」という台詞にある『形』はつまり作法である。稽古を通じて『形』が整い、身体が環境に感応するようになった暮らしこそ、日日是好日なのだろう。

2020-01-02

ウロコ


明朝体のウロコを使ってネズミ。
「子」はちょっと控えめに。

2019-12-31

2019年

今年印象的だった読書は、「新しい実在論」「新記号論」「千夜千冊エディション」あたりか。
「新しい実在論」では、「存在とは抵抗である」ということに考えが至った。dataからinformationへの抽象の仕方は様々であり、その多様性がつまり自由ということなのだが、それでもやはり全く勝手ということではない。その勝手にできないという固さが抵抗としての存在につながる。ソフトウェアとハードウェアの問題である。
「新記号論」では、コヒーレントな振る舞いを一つの塊とみなす過程が、つまりはdataからinformationへの抽象化なのだということを考えた。コヒーレントな振る舞いがある種の抵抗になり、一群は一つの個体として存在するとみなされるのである。最近研究テーマになっている、複数の振動する時系列データの相関を捉える手法とも関係があるはずだ。
「千夜千冊エディション」自体は2018年5月から刊行され始めているし、何なら千夜千冊の連載は2000年2月に遡る。散々読書の参考にしながらもつまみ食い状態であった千夜千冊に、ちゃんと向き合おうと一念発起したのが今年の7月であった。今は12/24に出た「編集力」を読んでいる。

ドクタの学生だった頃は、考えたことをゆっくりと文章にする時間が取れたのだが、最近はなかなかそれも叶わず、記事の本数はめっきりと減ってしまっている。購入した本の数と読了した本の数は2017年や2018年と大差ないのだが、やはり言語化を怠ると考え事ははかどらない気がする。
その一方で、設計の実務が増えたり、展覧会や演劇を観に行ったり、演奏会をしたりと、身体的な実践のウェイトも少しずつ大きくなってきている。一対一・一対多・多対多、視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚、言語・非言語など、物理情報を直接やり取りするコミュニケーションを通して、ソフトウェアとハードウェア、通信可能性と応答可能性、dataとinformation、除算モデルといった考え方を、実際の行いの中で確かめていきたい。