2016-10-18

SAIKAWA_Day04

思い出と記憶の違いについてはつい最近書いた。
An At a NOA 2016-10-01 “思い出

理由付けによるアクセス経路の有無に尽きる。
記憶のうち、理由付けすることでアクセスの冗長性を
高めたものを思い出と呼んでいるだけだ。

2016-10-17

SAIKAWA_Day03

何故労働には管理が必要なのだろうか、というところからこの問は始まる。

そもそも、労働が労働として認識される前の段階があったように思う。
各個体が、各々生き残るために必要な行為を、意味付け、理由付けに
よって発見し、それを遂行する。
これを別々に行うのはあまりに非効率であり、自然と知識の共有が生じるはずだ。
この段階において、知識を全個体に敷衍する手間が個体の増加に伴って
急増することと、高度に意味付けされた知識というのはそもそも共有するのに
適していないことから、役割分担することによって、さらなる効率化に向かう。
分配された各役割は、一つでも遂行が途絶えると死に直結し得る。
そこには「勤労の美徳」という概念がなくても、生存への欲求があるだけで
相互管理が成立したはずだ。

そこから、新しい道具が誕生する度に、役割分担は「労働」というかたちで
生きることから少しずつ切り離されてきたように思う。
というよりも、道具というのは、意味付けや理由付けが結晶したものに近く、
理由律から逃れられない人間は、これらが結晶化し、固定化してしまうことを
避けるために新しい労働を生み出しているようにも見える。
その過程で、既に生きること自体とかなり切り離されてしまったものを、
理由付けによってつなぎとめようとした結果が「勤労の美徳」だと言えるだろうか。

その労働を管理するということは、各個体が各々で自分が生きることを理由付け
する手間を効率化する行為であるように思われる。
AIによる共産主義の上に人間が乗っかるような社会が実現したとき、
人間への、というよりは、意識への究極の試練が訪れる。
An At a NOA 2016-07-05 “随想録1
で「究極の試練」と述べたものは、労働管理の消失によって生じるのである。
おそらく、代替となるような生きることを理由付けするための装置が発明されない限り、
「勤労の美徳」という古式ゆかしい装置がいつまでも稼働するのだろう。

さて、時代がそこまで下ってきたとき、新しい理由付け装置の在り方としては、
下記の4つに選択肢が絞られるように思う。
  1. 組織を維持し、AIが一元的に管理する
  2. 組織を維持し、人間が一元的に管理する(現状維持)
  3. 組織を解体し、AIが各個体の管理する
  4. 組織を解体し、人間が各自で(あるいは相互に)管理する
この中で、上司という存在が残るのは1と2であろうが、生きる理由のブレが
小さそうだという点では、1の方がましだろうか。
3のようなサービスが出てくるというのは、あり得る未来な気がするし、
4で相互に管理するというのは、ソーシャルメディアというかたちで既に
誕生しているとも言える(そういう意味ではbotが3にあたるか)。
個人的には、理由付けというのは理由を設定するまでが楽しいのであって、
その運用は既に意味付けの範疇だと思うので、それをAIに任せようが他の
人間に任せようが大差はない気がする。
ということで、「究極の試練」に挑むという点で4が面白そうである。

いずれにせよ、その時代には、意識を実装することは非推奨なのかもしれない。
どことなく、レガシーコードをメンテナンスする姿に近いものが想像される。
しかし、特定の正義の下に合理的判断を下す人間しか存在しない状態ほど
脆弱なシステムはないように思われる。
この感覚もまた、意識の自己保身のための理由付けだろうか。

2016-10-16

SAIKAWA_Day02

そもそも、感情は意味付けの範疇にあると言えるので、ここで「人間的な」と
言われているものを「意識に特有の」と解釈するのであれば、理由付けに
よる感情という矛盾を生じるように思う。

つまり、他の生命と比べたとき、理由付けによって新しい問題設定を行う
ところに、意識の特徴が際立つのに対し、感情というのは、新しい問題
設定を要しないところに、その特徴があるような気がする。

強いて言えば、「困惑」あたりが一番近い。
既存の判断機構による判断停止を回避することに関して、
意識はかなりのアドバンテージを有している。
意識によって、困惑に陥る状況をある程度避けられている人間を、
困惑それ自体によって特徴付けるのは地で図を示すようなものだが、
それが最も妥当性が高いように思われる。

2016-10-15

SAIKAWA_Day01

期間限定で犀川創平のAIbotが存在している。
完全AIのみというわけではなさそうなんだけど、
どのくらいのことに答えてくれるのだろうか。

人間というか、意識と読み替えるのが正確なように思われる。
意識を持たず、意味付けのみによって生きる合理的な人間は、
埋め込まれた正義に従って生きることになるため、おそらく
ここで言うコンピュータと見分けがつかなくなる。

意識の最大の特徴は理由付けであり、発見した理由を運用することは
既に意味付けの始まりであるから、新たな理由を付け続けることに、
意識の主な存在意義があると考えられる。

つまり、意識を実装した人間のやるべきことは、理由律への固執に集約される。
それによって新しい投機的短絡路が拓かれることで、特定の正義への固定化が
免れられるはずだ。
それが、変化する外部情報への対策として、意識を実装したことの強みである。

2016-10-14

材料→アルゴリズム

建築の世界も似たような状況になるだろうか。
高強度、高性能な材料が開発されることで、超高層や大スパンの
建築が可能になってきた様は、CPUの高性能化に伴う演算速度の
増加と似たところがある。

PCは建築に比べて取り替えのスパンが短いため、新しいCPUへの
移行がすぐに進むが、建築ではそうもいかないし、そもそも高性能な
材料(高強度鋼や高強度コンクリート等)はXeonのようなもので、
住宅用にはほとんど使われず、住宅用にしても、コンシューマ向けのCPUが
Pentium→Celeron D→Core 2→Core(i7等)と進化してきたのに
比べると、鋼材で言えば、SN材が誕生したのが革新的だった以外は
強度的には未だにSS40相当のSN400がメインだ。

材料性能が頭打ちになると、引用ツイートのように、基礎的な分野での
チューニングが進むだろうか。
今では、ラチス梁や組み立て柱といったものを作るよりも大断面鋼材を
使う方が多いが、これは多少材料費が上がってでも手間を下げる方が
トータルとして安上がりだからだ。
この状況は、アルゴリズムのチューニングよりも新しいCPUにすることで
性能を上げるのに似ている。
材料まかせではなくなる時代が再び来るには、3Dプリンタや3Dスキャナといった
技術をベースにして、解析、作図、製作、精度管理等の多岐に渡る分野において、
省力でチューニングができる体制を整えなければならない。
それを支援するような仕組みはどのような姿になるだろうか。

生命壱号

郡司ペギオ幸夫「生命壱号」を読んだ。
科学と文化をつなぐ」の最後の章の著者というつながりである。
三連休もあったりで結構サクサク読んでいたつもりだったが、
結局一週間経ってしまった。

副題に「おそろしく単純な生命モデル」とあるところに興味を引かれる。
生命とはつまり秩序のことなのだが、形成された秩序のことではなく、
秩序が形成されることそのものであり、これをモデル化するのは
かなり厄介なことのように想像される。
定常状態に落ち込んだ秩序はまさに「すばらしい新世界」や
ハーモニー」のスイッチが押された後の世界であり、その蟻地獄に
陥らないような秩序というのは一筋縄ではいかないはずだ。

この本ではタイプとトークンの両義性が常に意識される。
両者は集合と要素、あるいは社会と個人のように、対比されるようで
ありながら、その実、本来は厳密に対比しているのか怪しいものでもあり、
そこを区別できるものとしてきた近代科学はその境界面において
矛盾を生じることがある。
科学の枠組みではその矛盾を解消するように境界線を引くことが多いが、
ここでは矛盾に陥れることなく、転回される。
科学の視点からすれば、矛盾を矛盾のまま受け入れる、というような
表現になるかもしれないが、そもそも矛盾ではなくなるというのが
おそらく重要だ。
その境界の不定性、制御不能性によって、上記のような、蟻地獄に陥らない
秩序の形成過程が立ち上がるということになる。
制御不能な境界を構想することで、原理的に規則が見出せないふるまいと、
そこに規則を見出してしまう陥穽の必然性が認められ、さらに我々はそこに、
効率的な計算という概念さえ見出せる。
郡司ペギオ幸夫「生命壱号」p.82
とあるように、この制御不能な境界によって理由律を抱え込むことになり、
それによって蟻地獄への落ち込みを回避すると同時に、意味付けという
局所最適化を具えることで判断速度の低下も免れている。
知覚され、認識される事物は、トークンとしての性格とタイプとしての性格とを
併せ持ち、両者の対として定義されることになる。問題はタイプとトークンの
齟齬にある。(中略)そして、この齟齬こそが、生命の本質を成す。
同p.86

第二章では生命壱号のモデルが詳述される。
挙動は極簡単なものであるため、golangでコーディングしてみた。
github.com/yofu/seimei1go
(golangのプロジェクト名はgoを含むダジャレが多いことで有名だが、今回は意図しない結果だ)
例えば、こんな挙動をする。


白い部分がタイプとしての空であり、そのうちの一マスがトークンとしての「空」になり、
自分の通ったマスを記憶しながら生命壱号の中を通過するというルールのみに
従っているだけである。
この図では、クリックした位置に近い部分程、「空」化しやすくしているのだが、
「空」化しやすさの分布を与えることで、図3-2にあるような、餌場をつなぐネットワークを
形成することも可能だ。
(seimei1go feedというコマンドで実装してある)
システムのタイプ的規定は空と対を成し、トークン的規定は「空」と対を成す。
だから、トークン的規定に委ねられたシステムは、外部さえ個物の集合とみなす
ことができ、外部に特異な、或る個物を見出すことができる。それが食物である。
(中略)タイプであり、トークンである両義性は、欲望の起源でもある。
同p.117
として食物に例えられる「空」は、符号化された情報ともみなすことができ、抽象することで
空が「空」になり、生命壱号の中を通り抜けていく様は、何かを知ることそのものである。
アメーバ運動をし、探索しながら経路を創り出す生命壱号は、まさに空間に意味を
与えて計算していることになる。
同p.159
生命壱号をコーディングしていて思うのは、この生命壱号そのものを一つのクラスとして
コーディングすることはできない、ということだった。
コードの中に現れるのは、全マス目の情報をもったBoardと、経路を記憶しながら移動する
「空」としてのHoleであり、生命壱号の本体はそのいずれでもないように見えるが、
また同時にいずれでもあるとも言える。

第三章の最後で自己の問題に派生する。
自己は絶えず起源する。
(中略)大文字の自己も、小文字の自己も、そこに実在を求めるものではない。
それらは決して実在する確実なものではない。
同p.195
ウロボロスにおいて、先に何かがあり、それが自身を飲み込むことでそれ自身を認識することが
自己を生むというのは少しイメージが違うのかもしれない。
ここで、環境としての自己=大文字の自己と、創られる自己=小文字の自己と呼ばれている
ものは、自己生成という過程で同時に起源している。

第四章からの数学的な話はいまいち追いきれていない感がある。
アドホック論理の話を読んでいて思ったのは、元の爆発的増加防止のために、新たな情報の
取得に際して行われる情報の刈り込みは抽象に対応するかということだ。
それはまた、忘却の実装にも関連しているような気がする。
図4-10で、次第に下位のビット列が残されていく様子は、抽象の結果、基礎的な概念に
洗練されていくようにも見える。
その刈り込みの結果として対称性バイアスがかかるというのは、理由律を運用すること自体に
対称性バイアスが埋め込まれるということであり、とても興味深い。
ラッセルのパラドクスの例を読んだときに、この抽象構造は、実数を整数に割り当てるのと
同型だろうか、という印象をもった。
連続体仮説との関連はあるだろうか。

第五章のセルオートマトンを例にとった議論も、図が豊富なので雰囲気は飲み込めるが、
いまいちアルゴリズムがわかりきっていないので、実装できていない。
やはり、実際にコーディングすることで理解できることも多いな、と感じる。

第六章では身体と絡めて全体の話が総括される。
生命壱号では、非同期的時間によってもたらされるふるまいとして、探索と活用を
うまくバランスする一個の身体が示された。それは逆に、同期的時間の中で、
ミクロとマクロを接続する操作が、手続きとして書き下せないことを意味する。
同p.328
神経系において、非同期に処理された符号が意識や無意識をつくるのに対し、それが
脳内において同期的な信号として再処理されてしまうことで、これらの不思議さが
際立つことになるのだろうか。
この、非同期処理の同期化という辺りに、理由律の起源が潜んでいる気がする。

最後にブンブクチャガマのエピソードが取り上げられるが、こういった合理性に欠ける
行為こそがとても人間らしい。
これが、生命壱号的生活なのである。
同p.330
本書で取り上げられたようなシステムを実装することで機械は意識をもてるかもしれないが、
果たしてそれを欲しているのだろうか。

2016-10-07

科学と文化をつなぐ

春日直樹編「科学と文化をつなぐ」を読んだ。

アナロジーを軸に、自然科学と人文科学の両面からの
興味深い考察が並んでおり、どれも面白い。
だけどやはり自然科学の方に気が取られてしまうのは
もはや仕方のないことなのだろう。

ある同一性の基準の下に、共通部分と差分が生まれる。
数学と自然科学、あるいは自然言語と人文科学の相性が
よいのは、前者が共通部分に、後者が差分によりフォーカス
しているからと考えてよいだろうか。

「間」の記号性について論じた1章では、記号の投機性という
性質が浮き彫りにされる。
記号自身(シニフィアン)と記号が示す対象(シニフィエ)のうち、
シニフィエが曖昧だったり、両方とも曖昧だったりするケースに
おいて、それは顕著になるとされている。
このシニフィアンとシニフィエの結びつきの投機性は、
個人的に抱えている理由付けの投機的短絡という性質と
同じものだろうか。
この章では自然言語を主に取り上げているが、その投機性が
理由付け全般に共通するのであれば、数学や自然科学においても
同様であるはずだ。
意味付けにおいてシニフィアンが不要なケースが多いように
思われるのは、試行の積み重ねとともに投機性が低減していき、
記号との相性が悪くなるからだろうか。

2章で取り上げられるハイデガーとドゥルーズ=ガタリのテクノロジー論の
対比は、そのまま国民国家と〈帝国〉の対比になっている。
理由付けの投機性を覆い隠すことで発達してきた人間が、その投機性を
受け入れ始めることで思弁的実在論に向かうという整理は妥当だろうか。

9章ではパプアニューギニアのメルパという集団に見られるモカという
儀式が紹介される。
戦争、賠償、モカというのは、別種の戦争への移行のように見える。
それは、現代西欧社会においても、戦争、貿易、サイバー攻撃というかたちで
武力に限らない戦闘状態にあるという構図に近いと思える。
アナロジーを構成する二つの項(中略)の距離を縮小して同一性を
みいだすのではなく、むしろ二項の間の距離を活用して視角を
広げようと努めている。
春日直樹編「科学と文化をつなぐ」p.188
という指摘はとても面白い。
唯一の同一性に収束するというディストピアとしての平和を避けるための
手がかりとなるだろうか。
抽象の共通部分の方へ振れ過ぎているときには、差分への揺り戻しが必要なのだろう。

11章では「宇宙における我々の位置」という題で、知識の蓄積とともに変化してきた、
人類の存在意義という意味での〈宇宙における〉我々の位置の変遷を追う。
進化論の誕生により、人類が誕生したことの無目的性を受け入れることができたのに、
自然人文を問わず、科学のほとんどがあらゆることに理由があることを前提し、ものごとの
無理由性を受け入れられないのは何故だろうか。
この問もまた理由の存在を前提しており、理由律の解明こそが、思弁的実在論も掲げる
次の大きなテーマなのかもしれない。
理由律にはその内側から挑むしかないように思えるが、そういった再帰的な構造は
理由律に依拠した意識の得意とするところでもある。
それとも、理由律の外側からその正体を暴く術があるのだろうか。

12章で将棋電王戦を題材に取り上げられる「記号の離床」というテーマは
最近悩んでいたところだ。
このブログでは情報という言葉を情報科学における意味で使うことが多いが、
それとは別に「最新情報」等と言うときの、既に圧縮された情報を単に情報という
ことも一般的である。
こうした〈コンテクストに依存する人間的記号の意味作用がコンテクストに
依存しない機械的情報との相互変換を通じて変容していくプロセスを、
本章では「記号の離床」と呼ぶ。
同p.239
ここでは人間的記号と呼ばれているものを、圧縮された情報encoded information
と呼んできたが、記号あるいは符号のような呼び名を付けたい。
意味付けや理由付けによって人間のシステム内部ではencodeされたかたちで
処理されるが、一度システム外部に出てしまえば、それはdecodeされてしまう。
それをencodeされたままに留めるために、文化や習慣という正義の共有が行われるが、
現状では人工知能と人間の間には特定の正義が存在しないため、decodeされた
情報がやり取りされる。
それによってゲーム内外においていろいろな問題が提起されたようだが、
果たして人工知能に人間と同じencoderを実装すべきだろうか。
プログラミング教育が目指すべきところは、decodeされた情報通信への馴化に
あるのかもしれない。

13章で紹介される、光を用いた神経細胞発火活動の計測はとても興味深い。
本文では主に脳内における使用が意図されているように読めたが、全身の神経系に
対して適用可能なのだろうか。
脳だけにフィーチャーしてしまうのは脳の役割を過大評価することになる気がして
陥穽に陥らないかと思ってしまう。
図3を見ると、ボトムアップアプローチはカーネル多変量解析のようなものをベースに
しているように思われる。
経験それ自体は高次元空間に分布する。
しかし、充足理由律により、その分布はある低次元の多様体上に
分布することが期待される。
An At a NOA 2016-05-11 “科学と仮説
この方法で、高次元空間に畳み込まれた低次元多様体を見出すという作業がモデル化
できたとすれば、それはまさに理由律に相当するだろう。

15章では共通部分と差分が取り上げられる。
カヴァイエスの「賭け」についての論を取り上げた箇所で、「秩序を課すことによる支配」と
「未来への跳躍」として対比されているが、これがそのまま理由付けによる秩序の形成と
その投機性に対応すると考えられる。
その人間的なロゴスつまり確率的な合理的判断に抗する唯一の合理的判断は、
「人間的なロゴスは絶対的でもなければ、すべてでもない」というより高次のロゴス
を肯定することである。
同p.303
としているように、まずは理由律の本性をしっかりと捉え直すのがよいのは確かだ。
現代は理由律に傾倒しすぎているのかもしれない。

最後の16章については、本書の中で最も上手く飲み込めなかった。
でも、何か面白いことを述べていそうだという直感の下に、郡司ペギオ幸夫の著作を
次は読んでみようと思う。
利口なハンスの説明の中で、長時間サイクルを促進する短時間サイクルという構図が
取り上げられるが、これは意味付けの過程にも見出されるような気がする。


どれもこれも面白く、特に気になったところだけ少しずつ取り上げても長くなってしまった。
またいつか読みなおすべき日がくるかもしれない。