2016-03-11

角速度

x=rθよりv=rωであるから、速度が同じ場合、
距離が近いほど角速度は大きくなる。
電車に乗っているときに、遠くの風景よりも
近くの風景の方が速く移り変わるという話だ。

遠くの風景はゆっくりと変わるので、変化の予測が立てやすい。
地理や気象に関する予備知識があればその精度はより高まる。
近くの風景は次々と入れ替わるため、これに比べると
遥かに予測が難しい。

時間の遷移についてもこの法則はおおよそ当てはまる。
目先のことばかり考えていては変化についていくのに
忙殺されるばかりだ。
少し先のことを考えるのは、知識を増やすことで奥行きが拡がり、
当たる当たらないは別にしてもよい思考材料になる。

そういうところに一々理屈をつけていくのも、
何とも人間らしい行為であり、論理的思考は人間に与えられた
最高のレクリエーションだと言える。

インフラ

仕事はどこでもできるようになったが、出先では常に
電源とネットワークの確保が課題になる。

現代では既にネットワークはインフラになったと言ってよいと思うが、
水道、電気、ガスのように公共料金が設定されている
わけではない。

おそらく、将来的にはガスの代わりにネットワークが
三大インフラの一角を担うだろう。
ガスは電気よりもエントロピーの点で不利だからだ。

2016-03-09

意識に関する考察

意識および意識への補遺より引用。

昨今流行りのディープラーニングでは、認識には理由付けが
不要であることがはっきりと示されているように思われる。
誰かの顔を見てその人だと認識するときも、
碁の名人が次の一手を直感するときも、
自然にその判断を下している。
無意識な判断というのは、理由付けによるものではなく、
大量のデータとそれに対する評価を基に構築された
評価機関を使った出力である。
判断が速くなるケースがあるために理由付けを行うようになったのだろうか。
むしろ、評価機関毎の誤差を吸収することを目的とした評価結果の修正のために、
特定の場合の評価結果を恣意的に変更する操作が理由付けであり、
それを導入した結果が意識なのかもしれない。
左右の別、虹の色数なんかはわかりやすい修正だ。
子どもにはなぜなぜ期と呼ばれる時期があるが、このとき無意識の評価機関は
既存の世界に併せて評価結果のキャリブレーションをすることで、
意識を形成しているのかもしれない。
そうだとすれば、理由を問い、設定する行為自体が人間の意識の源である。
意識とは、理由付けを備えた評価機関である。
そういう意味では、理由付け→∞の極限である痴呆と、理由付け→0の極限である
無意識というのは真反対の現象である。
痴呆から逃れるには理由付けによる最適化を免れなければならない一方で、
理由付け抜きには意識が芽生えない。
そんな微妙なバランスの上に、一時的に成立している意識を楽しもうではないか。

理由付け

MIT technology reviewもHacker newsも
AlphaGoとLee Se-dolの対決の話が盛んだ。

第1戦はAlphaGoの勝利だったようだ。
遅かれ早かれこういった日が来るのは確実であったが、
予想以上に早いという意見が多いようだ。

今のディープラーニングの仕組みには、明確な理由付けのプロセスがないように思う。
画像認識にしろ、碁の手順にしろ、こういうパターンだからこうだ、
という理由付けを行うような仕組みではなく、大量のデータと正否の判断基準を
与えることで、自然と評価機関ができあがる。
フーリエ変換をして、スペクトルの形状がこうだからこういう現象である、
といった、論理的に整然としたアルゴリズムによる画像認識は、
ディープラーニングに完全に負けたと言ってよい。
それは、科学がモデル化によって現象を把握しやすくするための抽象操作
であることから、どうしても精度に限界があるということなのかもしれない。

MIT technology reviewの記事の一節に
and they will often struggle to explain why a particular position seems promising.
という箇所がある。
人の顔を見て、この人だと認識するプロセスにおいても、
その理由を説明することはほぼ不可能だ。
これらはディープラーニングが理由付けのプロセスをもたないことと
本質的には同じことなのだろうか。
これらの認識が無意識のうちに行われることを考えると、
既に無意識は実装されつつあるのかもしれない。

人間は何事にも理由を付けたがる。
因果律というかなり強い条件が前提されやすいのも、
こういった人間の性質が共通しているからだろう。
理由を付けることで判断の短絡が可能になる。
これが意識なのだとすれば、意識とは、評価機関に理由付けを実装したもの
なのかもしれない。

理由付けは因果律と一体であり、宗教、科学、常識、習慣、痴呆等を生み出した。
神とは、抽象された原因である。

大企業



e-Taxは一度しか使ったことないので使いやすさを評価できるほどではないが、
いまいちもっさりしたデザインだったように思う。

企業というのは大きくなるほど身動きが取りづらくなる。
慣性が大きくなるのは指示系統が長くなることで通信における
送受信の信頼性が下がるからだ。
また、ある仕事をある社員にしか任せられない状況というのは
企業として大きくなるほどまずい状況になりやすい。
そうすると、ある程度仕事を細分化し、誰がやってもそれなりに
こなせるような仕組みを構築することが企業としての健全性を
保つことになる。
そして、そういった仕事は人間以外への置換が容易だ。

誰にでもこなせる仕事(それは人間ではなくなるかもしれない)を
するのは果たして興味深いのだろうか。
あるいは、その仕事が誰にでもこなせるような仕組みを
作る側に回るのは、現代ではまだ面白いかもしれない。

Japanese numbers



でも、日本語も500073は5 10 10000 7 10 3ですよね。
そもそもPower of baseにいちいち名前をつけていたら
桁が上がる毎に呼び名が必要になってしまう。

それにしてもフランス語の99はすごいな。
どういう仕組で99=4*20+10+9に分解しようと思うんだろう。
20くらいまでが人間が把握できる最大の基数なんだろうか。

2016-03-06

プロトコルと実装

通信において、使用するプロトコルに多様性がある場合と、
送信前、受信後の処理に多様性がある場合とがある。

言語の場合、これは言語観や認識論にもよるが、
プロトコルの多様性の方が処理の多様性よりも大きい気がする。
「赤」に相当する単語によって伝わる内容にはかなりの幅が
あるものの、異なる言語間でも共通する概念が多く見られ、
それを概念として送受信することができる。
むしろ、処理が共通していることが大事で、見かけのプロトコルの差異は
あまり重要でないのかもしれない。

数学の場合、プロトコルは可能な限り単一のものになるように
調整されているが、その単一のプロトコルを使って
幾何学や代数学等、いろいろな処理が行えるようになっている。
これは、言葉を見ることや聞くことができないのとは大きく違う。
(文字を見たり、声を聞くという意味ではなく、言葉自体を光のように
見ることができないという意味である)
だからこそ、アティヤ=シンガーの指数定理のような、
解析学と幾何学という異なった処理系の共通点を示す定理が
重要だと考えられるのだろう。

少なくともバベルの塔の話が成立した当時から、言語に用いるプロトコルを
ユニークにしたいという願望は存在しているが、それが実現した記録は残っていない。
プロトコルと内部処理の両方の多様性が低い状況では、
全体としても拡がりの小さい、こぢんまりとした集合になってしまうだろうか。