2016-03-06

理系文系への解釈

だいぶ前に理系文系という記事を書いた。

ここで言うところの不確定要素が人間というよりも意識だとすれば、
理系は意識を可能な限り排除する方向へ、
文系は意識を可能な限り維持する方向へ、
という違いだと言える。

理系分野の研究というのは、究極的には仕事をなくすために
存在しているものが多い。これは上記の内容とも整合しており、
意識が介在しなくて済む方が制御しやすいことが原因だと考えられる。
一方、文系分野の研究というのは、意識の足跡をたどるものであったり、
意識の性質を調べるものであったりするものが多い。

これが運用段階では、仕事を減らす側と増やす側に分離される。
もし政治家が理系と同様に、仕事を減らす側に回ったら、
世の中は一層便利で快適になるだろう。
ただし、そこに意識の存在する余地がなければそれを実感することも
ないかもしれないが。

2016-03-05

効率

効率を希求した先に、意識の居場所はない。

人工知能が仕事を奪うという話と認知症の共通点かもしれない。

絵を描く

少し前に書いたように、人間はむしろ周りの変化に合わせて
自分たちを変えてくることで適合してきた。

原子力発電に関して言えば、1950年代に後の首相でもある中曽根康弘らが
推進するというかたちでスタートし、1960年代には実用化されている。
この機動力の高さは、おそらく将来の社会のあるべき姿を描くことで、
変化する先を提示し、それに対して国民の側が合わせていくことで可能だったのだろう。
中曽根康弘しかり、田中角栄しかり、20世紀後半にはそういうことができる
政治家がいた。
描いた先が万人にとって「正しい」ということはまず間違いなくないであろうから、
当然反発も多く受けたことだろう。後世になっても、あれは間違いだったと言われることも
あるだろうが、それを主張する人々も、結果としてその方向に変化してきた社会に
適合するように変化できている。

昔はよく、「末は博士か大臣か」と言われたが、これはつまり絵を描く立場になるという
意味で出世するということだろう。50年先100年先のことは研究者や政治家が
先陣をきって示していくものだった。
現代ではこういった絵を描く役割が、政治家から企業に移ってきている気がする。
企業といってもソニーやトヨタのような伝統的なところではなく、GoogleやAmazonの
ようないわゆるテック企業の面々だ。
彼らはこういう技術が発達するとこんなに「豊かな」生活が待っているよ、という
情報を発信することで、確実に変化すべき先を示している。
政治家の側は、その変化によって発生する問題の数々に対して、ドローン規制や
不正アクセス禁止法等で後手後手の対応に迫られている。
既に国も変化した社会についていく側に回ってしまっているのである。


変わるべき方向の議論では、(特に最近は)人間の倫理に触れる話題が多い。
そしてそういった議論はどうしても感情的な意見が多く出てくる。
しかし、倫理というものが人間にとっての正義である以上、感情で議論することは
ある意味で本質なのかもしれない。
こういった議論を倫理抜きで論理のみで行えるのは、きっと人間を超えた存在だけだろう。

2016-03-04

キャリブレーション

現代の構造解析では
1. 構成方程式
2. 変位の適合条件式
3. 応力の釣合条件式
を条件とした上で、応力を既知のものとして変位を未知数とするものを変位法、
変位を既知のものとして応力を未知数とするものを応力法と呼ぶ。

果たして、変位と応力を既知のものとした上で、2と3を条件とすることで
1を未知数とするような構造解析は可能だろうか。

構成方程式が未知ということは、直接剛性法が適用できないことになる。
P=KdにおけるKを変数に取るため、瞬間瞬間の変位と応力の辻褄を合わせながら
接線剛性を変化させていくのである。

変位はひずみの積分量であり、外力は応力の積分量と釣り合う。
変位と応力の情報からでは積分の過程の情報を得ることが難しいかもしれない。
しかし、変位の空間座標に対する微分、時間に対する微分も得られるのであれば
再現可能だろうか。
弾性範囲内では十分可能であろうが、塑性域に達した後のひずみ分布の仮定に
難があるだろう。時刻歴で応力ー変位関係が追えれば可能性はあるだろうか。
さらに、デジタルデータの微分はノイズの影響の問題がある。

もし上記の方式での構造解析が可能であれば、実験と解析の関係は
現状のものとは少し変わったものになっていくだろう。
現代では実験の再現解析というものがよく行われるが、その再現性に対する
工学的な指標はないに等しく、また再現性を高めるための方法論も確立していない。
しかし、上記の方法が可能になると、実験データを基に解析用の構成方程式の
最適化をかけることで荷重及び変位に関する境界条件を任意の精度で再現するような
解析モデルを構築することが可能になる。
これはもはや実験の再現解析というよりも、解析モデルの実験によるキャリブレーションである。

そして、材料試験はまさにこれを行っているのである。

2016-03-02

早すぎる最適化



このツイートが何事かと思ったら、認知症老人が徘徊の末に
鉄道事故で亡くなった件について、家族の責任を問わないという
最高裁判決が出たようだ。

先ほどの自動運転車の事故の責任と似た構図を感じる。
認知症が意識の最適化の果てに意識が消滅した状態に近いとしたら、
自動運転車が独りでに暴走したときに起こした事故に対して、
所有者に責任があるか、という問と構造的には同じだ。

仕事をしなくなると、必然的に入力される情報は少なくなる。
外出をする機会も減っていくとその傾向はさらに顕著になる。
毎日会うのは同じ人物、見るものも家の中にあるものだけ、
テレビと新聞だけが唯一の日々変化する情報源、という状況は、
退職後の人間としてはごく一般的だろう。
身の回りのことも多くは自動化され、ルーチン化しやすい作業ばかりだ。
こういった状況では、最適化がかけやすい。

労力を減らし、人間に必要とされるエネルギを最小化しようというのが
工業製品では概ね正義になる。
何をするにもボタンを押すのみ、という状況では無意識のうちに行動可能であり、
気がついたらお湯が沸いていてトーストも焼けている、なんていうことは
現代でも有り得る。
そういう点では、音声による入力というのはボタンを押すよりも
意識を必要とするので、発声しなければならないという多少の不便さはあるものの、
意識を維持する上では安全な入力方式なのかもしれない。
(このNAISTのドクタの書いた無音声認識の話は面白そうだが、どの程度まで
進んでいるんだろう)

これからも技術の発展とともに様々な労力が減っていくだろう。
しかし、人工知能による仕事の奪取自体が問題なのではなく、
労力が減り、仕事もせずに済み、あらゆることが自動化された結果、
生産年齢の世代を含む全世代の人間が、現代で言うところの退職後の人間レベルに
生活の最適化がかけられるようになることで、認知症に近い状態に至る人間が
多発する可能性があることの方がよっぽど問題である。

いや、これが問題だと思えるのは意識をもっていることをよい状態として
評価しているからであり、有意識が疾患として扱われる状態が異常だとも言い切れない。
それは、自動運転が普及した世界で、人間が運転することが違法性を帯びる可能性が
ある、という話と同じだ。
ここまでくると、人工知能に意識を実装できるか、というのは愚かな問となり、
むしろ意識という不確定要素を如何に排除するかという方が重要な問になる。

伊藤計劃のハーモニーではあるボタンを押すことで、全ての人間から同時に
意識を奪い取った。
有り得る現実としては、技術の発達により、次第に意識が不要になるという未来だ。
外界から情報を受け取り、圧縮することで認識し、意味を割り当て、それまでの知識を
基に外挿し、自らの機能を持続させるために次にとるべき行動を決定する機械。
人工知能はそこまで行けばもはや人間を超えるだろう。
あとは人間側が発達し、意識を捨て去ることでそこに追いつくだけだ。

この未来を受け入れたくないのであれば、常に新しい情報を求め、
これまでに経験していない判断をする機会を増やしていく以外にない。
意味のない、余計なことは、むしろどんどんやるべきなのだ。
マグロは泳ぐことを止めたら死んでしまうのである。

2016-03-01

自動車事故

Googleの自動車が初の事故を起こしたようだ。
MIT technology review の記事

以前の記事で触れたが、こういった場合の事故の責任は
誰に帰せられるのだろうか。

記事中程で、
Google said in a statement that it shoulders “some responsibility” for the accident.
の一文があるが、今回は開発者と所有者が同一視できるので、
現状の自動車事故と同じ取り扱いで納得がいくだろう。

だが、将来的には
開発者はGoogle、所有者は一般人、事故時に乗っていたのは所有者の子ども、
というような状況も起こりうるだろう。
こういった事故に対して、いちいち開発元であるGoogleが責任を負うようなことには
なるはずがない。上記のsome responsibilityは、所有者あるいは同乗者としてのものだと
考えるのが自然だろう。
別の例だと、所有者はタクシー会社、同乗者はタクシー客のみ、ということも
十分あり得るわけだから、基本的には所有者が責任を負うという方向になるだろうか。
難しいのは、同乗者がどの程度制御に関われるか、というところだ。
行き先の設定、複数のルート候補からの選択程度なのであれば同乗者の責任問題は
起きにくいが、何時までに着くようにであるとか、急いでくれといったような要望ができる場合や、
ハンドルやアクセルでの操作に切り替えられるような車種だと、同乗者に全く責任がないと
言えるかが難しいことも起きるだろう。
もちろんブレーキですら不要な操作をすると事故の元になるのだから、事態は複雑である。
極論として、走行中にエンジンを切ることができる立場にあり、実際に切ったことで
事故に至ったのだとしたら、客観的には同乗者の責任だと考えるのが自然だ。

しかし一方で、走行システムがクラッキングされた場合に備えて、同乗者が安全に下車できる
仕組みを作っておくことも必要だと考えられる。普通に考えるとそのためにはやはり
自動運転システムからは独立した制御系を備えておく必要があるので、
航空機のブラックボックスのようなものを搭載し、事故時に誰が車を制御していたのかを
解析することで所有者と同乗者の責任の割合を決めるような仕組みにするのがよいのかもしれない。

そういえば、例えば7才と10才の兄弟だけで乗るというような状況も起こりうるが、
こういう事態に法的な規制がかかるだろうか。あるいは、開発元のマニュアルに、
何か制限が付されるだろうか。
そもそも、エンジンをかけるのにはキーが要るという点は変えないだろうから、
そのあたりは所有者の裁量に任されるのかもしれない。
(キーは物理的なものではなく、スマートフォンのようにGoogleアカウントにひも付けされた
パターンロックや指紋認証になるかもしれないが)

というかエンジンをかけるという動作をユーザが意識することはもはやなくなるだろう。
セキュリティはドアの開閉と制御系への指示の大きく分けて2つに対してかかってくるだけだ。
自家用車としては、家族の誰でも指紋認証でドアの開閉ができ、大人であれば自由に
行き先が指定でき、子どもだと行き先は限定される、というような運用ができるだろう。
行き先を制御系に入力する段階では指紋認証あるいは声紋認証でアンロックするのだろう。
タクシーのような不特定多数が乗り降りする場合は、客が中にいない場合は初乗り運賃を
先払いすることで誰でもドアを開閉でき、行き先は自由に指定可能、降車時は料金を支払うことで
ドアがアンロックされるという仕組みになるのが自然だ。
バスだと、行き先が固定になっていること以外は概ねタクシーと同じだ。

現代で言うところの交通違反の取り締まりは、全ての車が自動運転されるようになっても
行われるだろうか。その時代には、交通安全に対する比重は、実際の運行時よりも車検の方が
遥かに大きいだろう。運行時の取り締まりも、もはや路上でやるよりも、ネットワーク上で
クラッキングを監視した方がよっぽど効果的だ。
白バイで暴走した車を物理的に追いかけるより、暴走した段階で開発元から警察に
アクセス権が譲渡され、電子空間で直に制御系に干渉した方が早くて安全だ。
(何だか電脳ハックみたいな話になってきたな)
「秋の全国交通安全運動」という言葉も、時代遅れになっていくのかもしれない。

無人で走るというケースも、特にタクシー用車で一般的にみられるだろう。
自動車で出社し、電車で帰らなければいけないとき等は、自家用車でも無人で家まで
行くような指示がされるかもしれない。
ふと道路を眺めた時に、無人の自動車ばかりが行き交い、信号待ちをしている車にも
誰一人乗っていないという光景が、さながら地獄絵図のように想像されてしまうのは、
私が現代人だからなのだろう。

パングラム

先ほどの投稿に関連して。

パングラムに対して何文字を使うかにもよるが、
46文字だとすれば
46!=5502622159812088949850305428800254892961651752960000000000
であるから、55阿僧祇(あそうぎ)0262恒河沙(ごうがしゃ)2159極(ごく)8120載(さい)
8894正(せい)9850潤(かん)3054溝(こう)2880穣(じょう)0254𥝱(じょ)8929垓(がい)
6166京(けい)1752兆(ちょう)9600億(おく)0000万(まん)0000となる。
かの無量大数まであと10^12である。
というか阿僧祇の段階で10^56だから、モル数のさらに10^33倍とかもはや計り知れない。
これだけ使えるにしても、日本語として意味をなすパターンは極わずかだろう。

誰か自然言語処理のアルゴリズムを駆使して、46!通り中、少なくとも何通りが日本語としての
意味をなすかを計算してくれないだろうか。
素数の密度とどちらが薄いだろう。

2016-03-16 修正ついでに追記
素数定理によれば、x以下の素数の個数π(x)はπ(x)~x/ln(x)で近似される。
x=46!とすると、ln(x)≒133なので、133個に1つくらいの割合で意味の通るパングラムが
成立すれば素数と同じくらいの密度になる。
パングラムも単語レベルでの並び替えであれば意味が通る状態のまま行い易いから、
1つ見つけると結構多くなる。
意外とどっこいどっこいか。