2014-12-11
2014-12-10
科学・技術・工学
@
02:55
現代日本において、科学技術の恩恵に浴さずに
生活をすることはもはや不可能に近いと言ってよいほど、
科学技術の成果は日常の至る所に刻まれている。
科学とは、つまるところ、経験という唯一神をむかえ、
客観性を第一の宗旨とした、果てしない帰納の宗教である。
技術とは、言うなれば、演繹のスパイラルという、
一種の修行である。
科学は、経験を帰納的に展開するという論理構造ゆえに、
常に誤差をはらむ可能性とともにある。
技術は、科学を前提として演繹を始めた途端、
その愛すべき誤差も背負う運命にある。
そういったエラーを認識した上で、日常生活に技術を落とし込む
ことこそ、工学と呼ばれる学問のなすところである。
この事実を見過ごしたまま、技術不足により発生した事故を
批判することはたやすい。
そもそも不確定要素の多いこの世界にあって、
今送ることができている生活の基礎に、一体どれだけの工学的知見・工学的判断が
積み重ねられているだろうか。
その一つ一つを意識すべきとは言わないが、
せめてその考え方に耳を傾けた上で批判してはくれまいか。
神道を信仰してはいないけれども、年始には初詣に参り、
境内では帽子をとり、賽銭とともに二礼二拍手一礼をするような心持ちで。
生活をすることはもはや不可能に近いと言ってよいほど、
科学技術の成果は日常の至る所に刻まれている。
科学とは、つまるところ、経験という唯一神をむかえ、
客観性を第一の宗旨とした、果てしない帰納の宗教である。
技術とは、言うなれば、演繹のスパイラルという、
一種の修行である。
科学は、経験を帰納的に展開するという論理構造ゆえに、
常に誤差をはらむ可能性とともにある。
技術は、科学を前提として演繹を始めた途端、
その愛すべき誤差も背負う運命にある。
そういったエラーを認識した上で、日常生活に技術を落とし込む
ことこそ、工学と呼ばれる学問のなすところである。
この事実を見過ごしたまま、技術不足により発生した事故を
批判することはたやすい。
そもそも不確定要素の多いこの世界にあって、
今送ることができている生活の基礎に、一体どれだけの工学的知見・工学的判断が
積み重ねられているだろうか。
その一つ一つを意識すべきとは言わないが、
せめてその考え方に耳を傾けた上で批判してはくれまいか。
神道を信仰してはいないけれども、年始には初詣に参り、
境内では帽子をとり、賽銭とともに二礼二拍手一礼をするような心持ちで。
2014-12-06
2014-11-18
Idiom ab esse 4
・ヴォジョレーの勘定が合わない
--
95年「ここ数年で一番出来が良い」
96年「10年に1度の逸品」
97年「1976年以来の品質」
98年「10年に1度の当たり年」
99年「品質は昨年より良い」
00年「出来は上々で申し分の無い仕上がり」
01年「ここ10年で最高」
02年「過去10年で最高と言われた01年を上回る出来栄え」「1995年以来の出来」
03年「100年に1度の出来」「近年にない良い出来」
04年「香りが強く中々の出来栄え」
05年「ここ数年で最高」
06年「昨年同様良い出来栄え」
07年「柔らかく果実味が豊かで上質な味わい」
08年「豊かな果実味と程よい酸味が調和した味」
09年 「過去50年でも素晴らしい出来」
10年 「1950年以降最高の出来といわれた2009年と同等の出来」
11年「近年の当たり年である2009年に匹敵する出来」
12年「ヴォジョレー史上最悪の不作」
13年「小粒だが味の濃いブドウが収穫できた」
14年「近年の当たり年である2009年と肩を並べるクオリティ」←New
--
ヴォジョレーの朝は早い。
秋も深まった底の深い青空の下、せっせと出荷を進める———
———熱心な農家の人々の手によって育まれたヴォジョレーの出来映えは毎年素晴らしい。
5年もあれば、3回くらいは10年に1度のものに仕上げられて、
その気になれば50年に1度のレベルのものが3年連続くらい余裕である。
もはや時の流れを超越した存在。
ヴォジョレー・ヌヴォー。
--
そこから転じて、あまりに大見得を切りすぎると、かえって興ざめしてしまう
ことを意味するようになった。
つまり、過ぎたるはなお及ばざるが如し、光陰矢の如し、ということである。
※注・この物語はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体、
特にBeaujolaisとは一切関係ありません。
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95年「ここ数年で一番出来が良い」
96年「10年に1度の逸品」
97年「1976年以来の品質」
98年「10年に1度の当たり年」
99年「品質は昨年より良い」
00年「出来は上々で申し分の無い仕上がり」
01年「ここ10年で最高」
02年「過去10年で最高と言われた01年を上回る出来栄え」「1995年以来の出来」
03年「100年に1度の出来」「近年にない良い出来」
04年「香りが強く中々の出来栄え」
05年「ここ数年で最高」
06年「昨年同様良い出来栄え」
07年「柔らかく果実味が豊かで上質な味わい」
08年「豊かな果実味と程よい酸味が調和した味」
09年 「過去50年でも素晴らしい出来」
10年 「1950年以降最高の出来といわれた2009年と同等の出来」
11年「近年の当たり年である2009年に匹敵する出来」
12年「ヴォジョレー史上最悪の不作」
13年「小粒だが味の濃いブドウが収穫できた」
14年「近年の当たり年である2009年と肩を並べるクオリティ」←New
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ヴォジョレーの朝は早い。
秋も深まった底の深い青空の下、せっせと出荷を進める———
———熱心な農家の人々の手によって育まれたヴォジョレーの出来映えは毎年素晴らしい。
5年もあれば、3回くらいは10年に1度のものに仕上げられて、
その気になれば50年に1度のレベルのものが3年連続くらい余裕である。
もはや時の流れを超越した存在。
ヴォジョレー・ヌヴォー。
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そこから転じて、あまりに大見得を切りすぎると、かえって興ざめしてしまう
ことを意味するようになった。
つまり、過ぎたるはなお及ばざるが如し、光陰矢の如し、ということである。
※注・この物語はフィクションであり、実在する、人物・地名・団体、
特にBeaujolaisとは一切関係ありません。
2014-11-14
どこでもドアの幻影
@
01:55
2011/12/13以来、再び居場所について。
あれから3年程経ったが、震災の影響で東京への一極集中が和らぐといった傾向はほとんどみられない。
要するに、人と直接会うこと自体の価値に対する信仰はまだまだ隆盛なのである。いや、その信仰自体が薄れることはおそらくないだろう。震災後の騒ぎなど目じゃないほどのエネルギー危機が訪れたときに、止むを得ず諦めるというかたちで人と会う機会は失われていくのかもしれない。
Skypeのような映像付き会話システムとは比にならないくらい、直接会っているのに近いコミュニケーション技術の開発が、今以上に求められ、活発化するのだと思う。例えば、一枚の紙面を共有して、その上にお互いが描いたスケッチがリアルタイムに共有されるシステムは、ある業種の打合せにとっては相手の顔が見えている以上に意味のあることだったりする(既にそういうものはあるだろうが)。
より速く、より細かいネットワークが構築されるほど、人は分散できるはずなのに、未だに東京に集中している。2020年のオリンピックに向けて一段とその流れは進むだろう。
リニアモーターカーの開発が2027年開業を目標に進んでいるが、移動の高速化を追求する技術は結局のところ人同士が直接会う必要性を前提としており、東京への一極集中と発想の本質は同じである。
地方への移動がなかなか進まないのは、結局これが後だしじゃんけんだからなのではないだろうか。もはや直接会わなくてもたいていの仕事は成り立ち、徒歩あるいは自転車で移動できる圏内で生活が完結できるという実感を、ある程度の大多数が共有した状態でないと、先に分散した人間がわりを食う格好になってしまう。(食っているわりも、後から振り返るとおそらく大したものではないのだが、それを大したものだと錯覚させるほど、信仰は強い)
一極集中が過度に進行し、エネルギー的な限界を迎えたとき、超新星爆発のように東京への一極集中は解消されるのかもしれない。その先には、日本各地の人口密度が概ね一様になり、各々がその土地で完結した生活を営みながら、今とは少し違ったかたちで今以上に身近なコミュニケーションがとれる、不気味に穏やかな世界が待っているのだろう。
どこでもドアは、物理的にではなく、精神的に実装される。
今日、柏の葉キャンパス駅に5年ぶりくらいに降り立ち、
そんな思いを抱いた。
あれから3年程経ったが、震災の影響で東京への一極集中が和らぐといった傾向はほとんどみられない。
要するに、人と直接会うこと自体の価値に対する信仰はまだまだ隆盛なのである。いや、その信仰自体が薄れることはおそらくないだろう。震災後の騒ぎなど目じゃないほどのエネルギー危機が訪れたときに、止むを得ず諦めるというかたちで人と会う機会は失われていくのかもしれない。
Skypeのような映像付き会話システムとは比にならないくらい、直接会っているのに近いコミュニケーション技術の開発が、今以上に求められ、活発化するのだと思う。例えば、一枚の紙面を共有して、その上にお互いが描いたスケッチがリアルタイムに共有されるシステムは、ある業種の打合せにとっては相手の顔が見えている以上に意味のあることだったりする(既にそういうものはあるだろうが)。
より速く、より細かいネットワークが構築されるほど、人は分散できるはずなのに、未だに東京に集中している。2020年のオリンピックに向けて一段とその流れは進むだろう。
リニアモーターカーの開発が2027年開業を目標に進んでいるが、移動の高速化を追求する技術は結局のところ人同士が直接会う必要性を前提としており、東京への一極集中と発想の本質は同じである。
地方への移動がなかなか進まないのは、結局これが後だしじゃんけんだからなのではないだろうか。もはや直接会わなくてもたいていの仕事は成り立ち、徒歩あるいは自転車で移動できる圏内で生活が完結できるという実感を、ある程度の大多数が共有した状態でないと、先に分散した人間がわりを食う格好になってしまう。(食っているわりも、後から振り返るとおそらく大したものではないのだが、それを大したものだと錯覚させるほど、信仰は強い)
一極集中が過度に進行し、エネルギー的な限界を迎えたとき、超新星爆発のように東京への一極集中は解消されるのかもしれない。その先には、日本各地の人口密度が概ね一様になり、各々がその土地で完結した生活を営みながら、今とは少し違ったかたちで今以上に身近なコミュニケーションがとれる、不気味に穏やかな世界が待っているのだろう。
どこでもドアは、物理的にではなく、精神的に実装される。
今日、柏の葉キャンパス駅に5年ぶりくらいに降り立ち、
そんな思いを抱いた。
2014-11-01
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