2021-02-18

ステッピングモータ

とあることにステッピングモータを使うことになったので、ラズパイで制御してみる。
ステッピングモータ28BYJ-48とドライバボードULN2003のセットが3個で700円と破格なので、試すのにちょうどよい。本来はモータの電源はラズパイとは別に取らないといけなさそうなのだが、ラズパイから直接取っても一応動く。
プログラムはpython + rpimotorlibで。ハードとソフトについてすべての説明が書かれたインストラクションがあるので、動かすだけならすぐである。
もろもろ込み込みで65mm角にレイアウトできたので、3Dプリンタでケースを作ってパシャリ。



2021-01-26

六白のまだら


モー正月も明けて久しい。
ホルスタインにはフリーシアンや六白牛という呼称があること、実は地が黒で図が白なのだということなどを学んだ。
タイトルは平田森三「キリンのまだら」から。

2021-01-25

1+2+3+4+1×2×3×4

=10+24=34
ということで34になった。
(去年はフィボナッチ数列の和の方を使って、0!+1!+2!+3!+4!を今年用に残しておくべきだった…)

こちらはすっかり書かなくなったが、考えごとはScrapboxに時折残している。あちらこちらに気軽にリンクが貼れて便利だ。

最近は、模型/モデル/modelについて考えることが多いだろうか。他には、3Dプリンタ/スキャナやIoTセンサをどう使っていこうかなど。現実realの発している大量のデータを取り出せるようになったとして、それをどのように扱うべきか。人間が理解するためには、やはり適度に情報を圧縮compress/縮減reduceする必要がある。時間的/空間的により高精度/高精細にデータdataを取り出した上で、適切なかたちformを与えて情報informationにする。そのプロセスを繰り返すうちに生じる偏りが流儀modeとなり、モデルmodelが彫琢されるのだろう。データdataの源source/originである(あるいは、源だと仮想される)現実realityと、モデルmodelの関係や如何に。そこには当然、かたちformを与える視点の在り方が関わっている。つまりは、データdataのどことどことが、どういう点で似ているsimilarと見たか、だ。解像度を上げていけば同じに見えたものはいくらでも分解していくので、同じsame, homoではなく、類似similar, homeoでよいのだ。アナログanalogueとは、この連続性への信仰である。データdataはデジタイズdigitizeされているとは言え、視点perspectiveや解像度resolutionに応じてアナロジカルanalogicalに世界を見るということだ。

最近やっと気付いたのは、構造力学というよりは、かたちに興味があるのだなということだ。form, format, formula, formation, information, deformation, ...。ただし、fromageはあまり好きではない。

2020-10-28

ウイルスの意味論

山内一也「ウイルスの意味論」を読んだ。


ウイルスが生命か非生命かという問は、実のところあまり意味をなさないのではないか。環境という箱の中に生命が個体として独立に存在するという極めて常識的なイメージがこの問を生み出しているだけのように思う。生命の独立性や個体性をもう少し緩めて、ウイルスという個体があるというよりは、生命のプロセスの一部が環境に漏れ出している状態としてウイルスを捉えたほうが、個人的にはしっくりくる。

もちろん、免疫系のような内=自己と外=非自己を区別するホメオスタシスの仕組みによって、ある程度の個体性が維持されていなければ生命とはみなせないのだろうけど、ゲノムに記録された内在性レトロウイルスやファージの話を読んでいると、ウイルスと呼ばれているものは、天然のゲノム編集プロセスであり、減数分裂と同様に遺伝情報にエラーを導入することで、固定化に陥ることを防ぐトランジスタシスの仕組みのことなのではないかと思えてくる。

生命は、壊死と瓦解のいずれにも抵抗している。ただし、環境の中に独立して存在する個体として抵抗しているのではなく、環境というエネルギーの流れの中で、淀みが束の間現れるようなものである。生命という淀みは、免疫によってかたちを維持しつつ、ウイルスによってかたちを変化させることで、局所的な死を受け入れながら、大域的な死を免れている。

2020-05-26

縦書きと横書き

書字方向は、媒体をスクロールしやすい方向に合わせて決まっていったのではないかと思う。

文字の読み書きは人間と媒体が相対的に移動することで行われる。言語は直列にエンコードされる情報であることがほとんどであるため、デコードがうまくいくためには相対移動の方向が一意的に定まる必要がある。書き言葉におけるこの一意的な相対移動の方向が「書字方向」である。一意的に定まれば曲線でもよいのだが、最も自然なのは直線である。ただし、人間の視野は線状ではなく同心円状であるから、直線が伸び過ぎて読みづらくならないよう、程よい長さで直線は途切れ、書字方向と直交する方向への相対移動が生じる。この相対移動の方向を「スクロール方向」と呼ぶことにする。スクロール方向の移動が生じる際、書字方向には本来と逆向きの相対移動が生じるのに対し、スクロール方向の移動は一方向のみで戻ることがないという点も両者の違いである。文字の読み書きは、書字方向に起こる連続的な相対移動とスクロール方向に起こる間欠的な相対移動によって行われているため、媒体のサイズや重さに応じて相対移動しやすい方向があることで、書字方向とスクロール方向が決まっていったのではないかというのが上記の仮説だ。

大きくて重い媒体(壁や粘土板)は、媒体は動かさず人間が動きながら読み書きする。媒体に合わせて文字も大きくなると、一文字ごとの相対移動量は大きくなる。人体の構造上、目や腕を大きく動かすには、屈伸運動をして地面に垂直に動かすよりも、歩いて地面に平行に動かす方が容易であるため、連続的に生じる相対移動は横、間欠的に生じる相対移動は縦とするのが自然であり、横書きが主流になったと考えられる。

小さくて軽い媒体(木簡や巻物)は、人間は動かず媒体を動かしながら読み書きする。媒体に合わせて文字が小さければ相対移動量も小さくなるため、目や腕を動かさずとも、視線や肘から先だけを動かせば済むようになる。人体に対して腕は左右についていることから、媒体を縦スクロールするよりも横スクロールする方が容易であるため、横スクロールに合わせて書字方向を縦書きとするのが主流になったと考えられる。

電子媒体には物理的なサイズや重さの制限がなく、縦スクロールも横スクロールも同程度に容易であるため、縦書きと横書きのどちらでもよい。横書きが主流な文化で生まれたという歴史的経緯によって縦スクロールが主流となったというだけであるが、物理的な制限から解放された媒体の書字&スクロール方向が、小さくて軽い媒体ではなく、大きくて重い媒体と同じであるというのは面白いように思う。

2020-05-04

芸術人類学講義

鶴岡真弓編「芸術人類学講義」を読んだ。

ありのままの環境は、生身の人類にとって益にも害にもなり得るような、種々雑多な情報の流れである。恩恵をもたらす一方で、時に苛烈でもある情報の流れから、少しでも多くの益を貰い受け、少しでも多くの害を避けようと試み続けた結果、人類は数多の生命の中で最も環境を制御できるようになった。己のために環境を巧みに破壊・創造することが、あらゆる人間活動の根底にあるように思う。その最たるものが言語であり、周囲に溢れる大容量の情報を次々とコンパクトな視聴覚情報に圧縮することで、見かけの処理能力は飛躍的に増大する。しかし、圧縮率を高めれば効率はよくなるものの、その過程で失われる情報も多くなる。津波という情報そのものに遭遇してしまえば、飲み込まれて生命を落とすかもしれないが、津波を伝える言葉は圧縮され過ぎていて、その凄惨さを表現し切れないこともままある。

本書で扱われる、「祈り」、宗教、「象」、装飾、芸術、といったものも、苛烈な環境から一部の情報を取り出すプロセスとして始まったのではないかと想像する。環境という情報の流れが本来もつ一筋縄にはいかない様を、なるべくぶった切らないように掬い取るような抽象化。ありきたりな分節化では失われてしまう情報を保存するようなデジタイズ。自然に手を差し伸べる方法としての芸術というのは、そのあたりのことを言っているのではないかと思う。

2020-04-20

日本語の文法を考える

大野晋「日本語の文法を考える」を読んだ。

ウチとソトの区別の意識が強い文化において、主にウチ同士で使われてきたために、字面の文脈に加えて、言外にある事実の文脈での情報伝達も多い言語。同じウチにいる相手とのコミュニケーションでれば、共有している事実の文脈を頼りにしながら、分析して普遍化するよりも感覚のままに反応し、単語も文法も発音もどんどん簡略化していくというのは合理的である。

ソト(奈良~平安の中国、鎌倉~室町の東国、明治の西洋)との交流によって大きく変化しつつも、根本に残っている特徴を捉えながら展開される、
  • ガとハの違い
  • 抽象名詞の少なさとオノマトペの多さ
  • 人称代名詞の豊富さ
  • ク活用形容詞は状態、シク活用形容詞は情意
  • 倒置表現による強調→連体形終止による係り結び→終止形と連体形の一致
  • ガとノの違い
  • 動詞活用形の起源、簡単化
といったことの説明は、ありえそうなストーリーでとてもエキサイティングだ。

こういう変遷があり得ることを踏まえると、ラ変やナ変が五段活用に合流し、二段活用が一段活用に合流したのと同じように、「ら」抜き言葉のような「正しくない」表現も、いつか「正しい」表現になるのだろうなと思う。「本来の」表現はあっても、「正しい」表現はどんどん変遷していく。でも、「正しい」を維持しようとする姿勢は、生命としての日本語のホメオスタシスを見ているようで微笑ましい。